少女、祭りに連れられる
東雲祭の当日。
昨夜は楽しみで寝付くのが遅くなったというのに、朝日で自然と目が覚める。
小夜が寝起きしている和室を出ると、廊下との境に風呂敷が置かれているのが見えた。ちらりと中を覗いてみればわ入っていたのは赤紫の浴衣と黄色の帯。
これを今日の祭りに着ろ、という意味だと理解する。
畳んで和室に一度置き、朝食、洗濯、昼食と家事をこなす。
朝廊下に浴衣が置かれていたということは、今日の昼、暁は文字を教えには来ないということだろう。もしも来るのであれば、そのときに渡せば良いからだ。
夕方まで復習をしよう。
教本を開き、墨を磨る。しかし、しばらく詩を写してみたがどうにも上手く書けない。字は落ち着かない内心を映すかのように、揺らいでいた。
心が騒ついて仕方がないその理由は分かっている。小夜は教本を閉じ、筆を洗った。
いつもより昼が長く感じる。
祭りは夕方から始まるというが、まだ陽はほとんど頂点にある。暁が迎えに来るのだって、まだ先だろう。
少し前から弓彦も忙しそうだった。暁と東雲祭へ行くのだと伝えれば、彼は少し驚いたように笑った。
神本人(人ではないが)が祭りを直接見に来るのだ。忠実な社の僕である弓彦は、これ以上なく張り切っているように見えた。
部屋に戻って、もう一度浴衣を開いてみる。
梅の花のような淡い赤紫の布地は、袖や裾に近づくにつれて、闇のような深紫に移ろうように染められている。
姿見の前で、暁に貰った櫛で髪を梳かす。ふと、髪はどうするか考えていなかったことに気づく。
いつものように髪を下ろしてしまえば、せっかくの浴衣の柄が背中まで隠れてしまう。
その時、惣一郎に貰った蝶の簪が目に飛び込んで来た。何となく、次に彼が遊びに来るまで付けないでおこうと思っていたのだが、これなら浴衣にも合うのではないか。
蜜に教わったように髪をまとめ、簪を挿す。なかなか綺麗に出来ず四苦八苦していたが、何とかそれらしくなった。
鏡の前で口紅をそっと唇にのせれば、少し自信が湧き出てくるような気がした。浴衣を自分で着付け終わるころには、空は既に橙色に変わっていた。
「小夜」
障子の前、耳馴染みの良い声が聞こえた。
駆けるようにそれを引くと、現れた暁と目が合う。藍色の着流しに、垂れる銀色の髪がよく映えていた。彼が美しいことなどとっくに知っていたはずなのに、思わず見惚れてしまう。
いつもの薄墨色の着物は彼の穏やかな雰囲気を醸し出していたが、今纏っている藍色の浴衣は普段よりも彼を若々しく見せていた。
梅紫の浴衣を纏った小夜を見て、暁は目を細める。
「よく似合ってるよ。口紅は、あの女神?」
「そう、蜜がくれたの」
小夜の笑みが綻ぶ。全身を見せるようにくるりと回えば、袖がひらりと空に舞った。
しかし暁は一回転した小夜の身をまた半分回すと、彼女の肩を持って後ろを向かせたのだった。
「これは?」
背後の声が思っていたより近くて、ぴくりと首を少しすくめてしまう。
これ、というのは蝶の簪のことだろうか。そういえば、惣一郎と友達になったことは暁にも話したが、簪を貰ったことについては言いそびれていたのだった。
「惣一郎から貰ったの。合わせてみたんだけど、どうかな?」
黙ってしまった暁に、急に不安が湧き出る。浴衣を見て先ほどは似合うだなんて言ってくれたが、着飾った小夜に気を遣っただけだったのかもしれない。
しかし次の瞬間、頭に暁の手の感触が降りてきたかと思うと――簪が引っこ抜かれる。
結わえた髪はぱさり、と解けてしまった。
「えっ、な、何? 何かおかしかった?」
「そんなことないよ。でも、今日はこっちを付けて」
暁が指を振ると、鈴蘭が模られた簪が小夜の手の中に現れる。
小さな白い鈴蘭の花々が中央に咲いており、その下に輝く硝子玉が連なっていくつもが垂れている。少し動かせば、しゃらりしゃらりと小気味のよい音が鳴った。
「か、可愛い……!」
「その浴衣には、この方が似合うから」
誰かに言い聞かせるように、暁はそう言う。
小夜はまた貰ってしまったなと思ったが、その申し訳なさ以上に、手の中で輝く繊細で美しい簪は彼女の胸をときめかせたのだった。
暁は、うっとりと簪を見ている小夜に聞こえないくらいの声量で「用意していなかった私の落ち度か」と呟いた。
その手の中には先程引っこ抜いた蝶の簪。暁が手に力を込めようとした瞬間、「あっ」と何かに気づいたような小夜の声が聞こえた。
「じゃあ、これは仕舞っておくね」
小夜は暁の手から蝶の簪を取ると、自室にある台にそれを置いた。そしてその横にある姿見の前で、髪に鈴蘭の簪を当ててみる。
蜜から簪の扱いは教わっていたが、先ほどだって上手くまとめるだけで半刻ほど費やしていたのだ。また結い直せるだろうか。
難しい顔をしていると、歩み寄ってきた暁がそれを取り上げる。どうしたのかと思っているうちに、神力でも使ったかのような手早さで簪が挿された。
「暁、女の子の髪なんて結えたんだ」
「一度見たら大体分かるよ。これでも神だからね」
これなら初めから蜜ではなく、暁に挿し方を訊ねれば早かったのかもしれない。なんて考えながら振り向けば、鈴蘭が乗った小夜の頭を見て、彼は満足げに微笑んだのだった。
**
口紅だけが入れられた小さな山吹色の巾着袋。それを片手に下げた小夜は、不安げに目の前の男に視線を向ける。
「ねぇ暁、本当に大丈夫なの?」
「ふふ、誰も私たちのことを気にしていないだろう? 私は人間たちから今、焦茶色の髪と目をした普通の男に見えるはずだよ」
小夜にはいつもと同じ銀の髪と朝焼けの瞳に見えた。しかし彼曰く、他の人からはそう見えないように、神力を使ったらしい。
しかしいくら目立つ彼の色が変わったとして、人間離れした美貌までは隠せない。ちらちらと暁を盗み見る女性たちの視線を感じ、小夜は彼の後ろに隠れる。
「そんなことない、暁、すごく目立ってるよ……私のことも、気づかれてしまうかも」
「分かったよ」
小夜の様子に、仕方がないと肩をすくめた暁は、ひとつ、指を振った。
「これで私も君も、全くの別人に見えるはず。平々凡々な男と村娘に、ね」
暁が平々凡々な男になる、というのは大分無理がありそうな気がしたが、確かに周りの視線は落ち着いたようだった。
まだ祭りは始まったばかりだというのに、通りには出店がずらりと並んでいて人で賑わっている。
「欲しいものがあれば何でも言って」と太っ腹な発言があり、遠慮する小夜と譲らない暁の一悶着があったのだが、結局は暁に押し切られてしまった。千五百年も生きている神に、たった十六年しか生きていない小夜が口で勝てるわけもない。
人の流れに沿って歩いていると、横から矢のように声が飛んでくる。
「そこのお兄さん、団子でもどうだい?」
はちまきを頭に巻いた中年の男が、たれのたっぷりかかった団子を見せつけてきた。小夜の視線は釘付けになり、喉がごくりと動く。
「二本いただこう」
小夜が何か言う前に、暁は団子を受け取り代金を支払う。そして団子を一つこちらに差し出してくると、苦笑しながら耳元で囁いてきた。
「私に売りつけてきた人間も、まさか相手がこの祭りの主だとは思うまい」
後ろで結んでいる銀の髪の一房が、さらりと広い肩を滑り落ちる。暁は悪戯っぽく笑っていた。つられて小夜もふふ、と笑ってしまう。
もしも弓彦がこの場面を見ていたなら、卒倒するか、あの団子屋の主人に夜が明けるまで説教をするか、どちらだろう。
もぐもぐと団子を食べ終え、様々な露店の前をまた見ながら歩いていると、ふと一つの店が目についた。横にいる藍色の袖を引く。
「暁、あれ」
「うん? 飴細工か、欲しいの?」
何でも買ってやると言った暁だったが、控えめな小夜が実際に何かを欲しいと主張するとは思っていなかった。そのため、彼は少し驚いていた。
勿論買うこと自体には問題などない。しかし、ただでさえ甘い団子を食べた直後だ。舐め終わるまでに時間がかかる飴細工の相性はよろしくないだろう。
せめて帰る少し前に買う方が良いのではないかと思いながら、祭り初心者の小夜に伝えてやる。
「良いけれど……きっと食べきれないよ?」
それを聞いて「確かに」という顔をしながらも、小夜は未練のある視線を飴細工の露店に向ける。
「でも、暁の瞳みたいで綺麗なんだもの」
ぽつりとそう呟く。厚かましかったかもしれないと思いながら、小夜は欲しがった理由を口にする。
小夜だって最初は、暁に何かをねだるつもりなど全く無かった。しかし、あの飴細工だけは、手元でじっくりと眺めたい欲求が抑えられなかったのだ。
それを聞いた暁はぽかんと口を開け、やがてくつくつと笑い出す。
「はは、目玉を
本物……すなわち彼の瞳の美しさは、もちろん飴細工などとは比べものにならない。薄暗くなった中でも彼の瞳は、不思議な色を宿していた。その目で見つめられると、心臓が落ち着かなくなるのだ。
瞳では、飴細工と違って一方的に眺めることはできない。小夜が見ているということはすなわち、暁も小夜を見ているということになってしまうから。
(そんなの……恥ずかしくてきっと、死んでしまう)
ずっと直視できるならこっちだって、飴が欲しいなんて言わない。小夜の顔は熱くなるばかりで、楽しげな視線に耐えきれず、目を逸らしてしまったのだった。
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