女神、湧き立つ

 心地よい春の風が頬を撫でる。ある日、陽が頂点を過ぎた頃。騒がしい女神が遊びにやってきた。


「あらぁ! 暁ちゃんとお祭りにいくのぉ」

「うん」

「でも小夜ちゃん、お祭りには浴衣が必要よぉ。でも持ってないでしょう? お姉さんが見繕ってあげましょうかぁ?」


 目を輝かせながら手をわきわきと動かす蜜に、小夜は首を横に振る。


「ありがと、蜜。でも暁が用意してくれるんだって」


 これは祭りに行く約束をした後、暁に三回ほど言い含められたことだった。「特に女神に祭りの話をするなら、絶対に浴衣を渡そうとしてくるはず。必ず断るように」と。

 

 未来予知かと思ってしまうほど、確信に満ちた言葉。実際暁の言い当てた通りになり、小夜は内心驚いていた。


「まぁ、暁ちゃんったら、本当に……」


 額に嫋やかな手を当てた蜜は、珍しく呆れたように溜息を吐いた。


「蜜?」

「良いわぁ。それなら、お化粧を教えてあげる」

「お化粧?」

「ええ。とは言ってもあの天邪鬼、あんまりわたくしが手を掛けすぎるとむしろ良くないでしょうし……このくらいかしらぁ」


 そう言って蜜が指を一振りすると、半月状の小さな黒い容器が現れた。その表面には山茶花さざんかが描かれている。


「これって?」

「口紅よぉ」


 蜜は中身を確認するように容器を開けると、うんうんと頷く。再度彼女は指を振り、今度は手鏡を取り出して小夜の顔の前に差し出す。


「手に取って、唇に塗ってごらんなさぁい」


 言われるがまま、小夜はその紅を少し取り、自らの唇に乗せる。すうっと指で引いてやれば、普段の唇の色より少しだけ深い、さくらんぼのような赤が艶めく。


「いやぁ、小夜ちゃん、とっても可愛いわぁ! 流石はわたくしねぇ!」


 鼻息荒く自らの審美眼を自画自賛する女神の横で、小夜は鏡の中をじっと見つめていた。たった唇が色づいただけで、別人が映っているような不思議な感覚がした。


(暁も、可愛いって思ってくれるかな)


 湧いてきたそんな思いを掻き消すように、首をぶんぶんと振る。そんな期待をしてはならない。第一に、着飾って褒めてもらえるような間柄でも無いのだから。


「良いわねぇ? お祭りの当日まで、暁ちゃんの前で紅はつけないこと」


 内心毎日でもつけたいくらいだったが「もちろん他の子の前でもねぇ」と言う蜜の言葉に頷いた。


 彼に可愛いと思ってもらおうなんて、過ぎたことは思わない。それでも、神の驚く顔くらいは見てみたかった。


「それにしても、お祭りって。景気が良くて良いわねぇ」

「ね。友達が教えてくれたんだ」

「友達?」

「あ、そうだ。蜜、これの付け方分かる?」


 小夜は懐から蝶の簪を取り出す。惣一郎から手当の礼にと貰ったもの。友達の話で思い出したのだった。


 こういうものは蜜に聞くのが一番だろうと思って、実は彼女が来訪するのを待っていたのだ。


「可愛い簪ねぇ。暁ちゃんから貰ったの?」

「ううん。その友達がくれたの」

 

 蜜が目を見開いて、口をぽかんと開ける。


「どうしたの?」

「あ……何でもないわぁ。それで、その友達って?」


 少しだけいつもと様子が異なる蜜に、惣一郎のことを話す。怪我をしているところを成り行きで助け、以来話すようになったのだと。

 

 蜜は話を聞いている最中からどんどん頬が緩み、止まらなくなる。夜の女神はこういった話が大好物なのだった。


「あらあらあらぁ! やだぁ、うふふ。その子、格好いい?」

「格好いい?」


 小夜は考える。ただでさえ美醜には疎いのに、規格外みたいな暁や蜜と頻繁に顔を合わせているため、感覚が麻痺している気がする。


「活発で優しい、きりっとした表情、って感じ」

「まあっ!」


 実のところ惣一郎もまた優れた容姿で周囲の女を騒がせているのだが、小夜の知る由もない。とはいえ造形はともかく、同世代らしい彼の表情は小夜にも好ましく映っていた。

 

 女神の興奮は止まらない。


「ねぇねぇ、小夜ちゃんはその子と暁ちゃん、どっちの方が好みなのぉ?」

「好みって……。惣一郎は友達だし、しかも最近の話だし。それに、暁は」


 上手く説明できずに、口籠ってしまう。


「暁は……神さまでしょ」

「でも、わたくしも女神さまよぉ?」

「蜜は友達じゃない」

「そうねぇ、じゃあ暁ちゃんは友達じゃないのぉ?」


 暁は、何だろう。

 友達……では、無い気がする。毎日学問を教えてもらう時間に、晩御飯の時間、あとはお酒をたまに二人で飲む時間。彼とも色々なことを話すようになったがそれは、友達である惣一郎や蜜と喋るときとはまた何か違う気がする。


 

 それなら彼の召使い、だろうか。

 毎日晩ご飯を作るというのは、どちらかというと仕えているという意識に近い。


 しかし、召使いにあんなに綺麗な櫛を与えたりするものだろうか。それに、苦手なはずの蜜に掛け合って、長襦袢やら寝着まで用意してくれたのだ。


 村長邸で女中らが乙羽たちからそのような扱いを受けているのを見たことがない。そもそも召使いだとすれば、一緒の卓でご飯を食べるのもおかしな話だった。


 

 では……保護者?

 今のところ一番しっくり来る。いやしかし、弓彦の方が保護者然としている気もしてきた。それなら弓彦と暁はどう違う?

 

 弓彦は優しい。時々何を考えてるのか分からない暁とは違って、常に小夜に丁寧に接してくれる。


 彼と話したり、炊事や神社について教わったりときには穏やかな時間が流れる。彼は必要以上に干渉することはなく、気になるだろうに、土地神である暁のことも聞いてきたりはしない。

 

 見守ってくれているが、一定の線を引いているような感じがする。


 

 それなら暁はどうだろう。暁も優しい、と思う。日中字や勉強を教わるようになってからは、読める本の種類も増えた。与えられてばかりだな、と改めて思う。

 

 だけど彼は、想定外の拍子に小夜が驚くようなことをしてくる。最初に噛まれたときはただひたすら怖かった。

 その後、最初に料理を振る舞ったときに指の傷を舐められたときは……心臓が口から出てしまいそうだった。頭が真っ白になって、頭が熱くなった。

 

 この社で過ごすようになってから少しずつ自分の中の感情が大きく波打つようになってきたのを感じる。思い返した小夜は、指を舐められた際のの困惑をやっと理解する。

 

 きっとあれは、恥ずかしいという感情だった。


 あの闇から出でたばかりのような朝焼け色の瞳で見つめられると、胸の鼓動が信じられないくらいに速くなる。そんな感覚になるのは、暁だけだった。


 黙って考え込んでしまった小夜を見つめ、蜜は微笑んだ。蜂蜜色の瞳が優しく細められる。


「うふふ、意地悪しちゃったかしらぁ? そんなに深刻そうな顔しないでぇ」


 つん、と頬が突つかれる。

 そして蜜は小夜の手の中の簪を取り背後に回ると、真っ直ぐな黒髪に触れる。


「簪の付け方、教えてあげる。その子と会うときに付けてあげたら、きっと喜ぶと思うわぁ」

「そういうもの?」

「そういうものよぉ、贈り物って」


 そうして、あたたかな日々は過ぎ去っていく。夜もじっとりと熱くなってきた初夏が始まり、ついに東雲祭の日がやって来た。

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