宮司、苦笑する
東雲神社の当代宮司、弓彦。
彼がいつも通り仕事をこなしているとふと、鈴の音が聞こえた。これは土地神に呼ばれるときの音だ。全身の毛が逆立ち、背筋が伸びるような感覚。
最近は小夜への指南をするため毎日のように聞いていた音だが、いつまで経っても慣れるものではなかった。
元々は社務所に向かおうとしていた足が、まるで操られているように土地神のおわす本殿へ伸びる。弓彦の意思とは関係なくいつもより早足になっていたのだが、その理由は道を登り切るとすぐに分かった。
本殿から少し離れた岩場の陰。神の客人である小夜と、染伊屋の息子である惣一郎の二人が、話し込んでいるのが見えた。
惣一郎は二週間ほど前、賊に襲われ神社に逃げ込んで来たところ、小夜に怪我の手当をされたらしい。
本来、穢れである血を流しながら社に入ることはそもそも御法度。とはいえ怪我人にうるさく言うべきことではないし、神の客人たる小夜が手当てまでしているため、弓彦程度がそれについて咎めることはできない。
弓彦は惣一郎にささやかに言い添えるに留め、その日は知り合いの宿屋を彼に紹介してやったのだった。勿論惣一郎の方からも、不浄の身で社に入ったことについて正式な謝罪があった。
それに土地神は、人間が血を纏ったまま社に逃げ込んできたところを気にするような存在には思えない。それは小夜を拾った経緯を聞いて以来、弓彦の中にある土地神像だった。
彼女はどうやら、土地神を祀る祠を壊してしまったことがあるらしい。
彼女から申し訳なさそうな顔でその話を聞いたときは、敬虔な宮司である弓彦は、あまりの衝撃で気絶してしまいそうだった。
しかし実際、土地神はあり得ない蛮行をしたその娘を拾い此処に置いている。懐が広いものだ、と自らの主人たる神に、弓彦は改めて敬意を抱いたのだった。
そう思っていたこともあった。
弓彦は自分の考えが、完全なる間違いでなくとも、正しくはなかったことに気づく。
確かに人間が血を纏ったまま社に逃げ込んできたとて、かの神は気にしないだろう。しかし、果たして本当に懐が広いかと言われると……。
「結構盛大な祭りで、その日は出店なんかも沢山出るらしい。うちが出資している火薬屋も関わっていて、当日は俺も色々動く予定なんだが……」
「うん」
二人は、弓彦の気配に気づかない。今年で三十一になる年の離れた弓彦と接するときに比べ、小夜も惣一郎も、当然ではあるが随分気やすそうな話し方だった。
耳をそばだて、弓彦は察する。どうやら惣一郎は、小夜を祭りに誘おうとしているようだった。
一方の小夜は全くそのことに気づいていないようだったが、頬を赤らめて口籠る惣一郎を見れば、火を見るよりも明らかだった。
(なるほど)
聡明な若き宮司は、土地神の幼稚……いや、崇高な意思を完璧に理解した。
つまり、自分はこれを邪魔しなくてはならないらしい。
「祭りが始まって少ししたら、自由時間が取れそうなんだ」
「へぇ、良かったね」
「いや、つまり──」
若い青年の恋路を邪魔することには多少、良心の呵責があった。
しかし仕方がない。これが神の意思なのだ。忠実なる神の
「あれ、小夜さん?」
悪く思うなよ青年。内心思いながら、弓彦は素知らぬ振りで話しかける。
何故勤務時間中に来たのかという、小夜の至極最もかつ無邪気な問いには、適当な理由をつけてやり過ごす。
正直惣一郎に捲し立てた護符云々に関しては、口から出まかせだった。染伊屋が取り扱いたいと言ってくるから卸しただけで、他のものまで売りつけようなどとは微塵も思ってもいない。
東雲神社は必ずしも清貧を至上とするわけでもないが、かといって富むことを強く求めているわけでも無い。ここは近隣の領でも無いほどに大きな社だ。経済的には困窮しているどころか順調そのものだった。
そして一刻も早く惣一郎を連れてその場を去ろうとすれば、その青年は小夜の口調を目敏く指摘した。
確かに、東雲神社の最高位宮司である弓彦に気軽な口調で話しかける巫女など居ない。
そこも機転を効かせ、何とか惣一郎が祭りの約束を取り付ける前に、二人を引き離すことに成功したのだった。
その後授与所にて取引の内容を詰め、惣一郎が帰るのを見送った弓彦は大きく溜息をついた。こんなに疲れたのは、小夜に炊事を指南した最初の日以来のことだった。
その炊事についても、最初の手際に(かなり)問題があったとはいえ、素直に指導を受ける小夜自身は好ましかった。
実際、下手に自己流にしようとせず指示に従う彼女の腕前は、瞬く間に上達していった。
神に手料理を振る舞おうだなんて、恐れ多くて弓彦には到底考えられないことだったが、聞くと土地神は殆ど毎日彼女の作るものを食べているらしい。
神からの感想を嬉しそうに話す小夜を見て、この娘は大物だなと弓彦も内心感心したものだった。
初めて土地神に呼ばれ、その客人である小夜と
生きているうちにもしも、土地神さまの声を聞かせていただけるのならそれだけで僥倖だ。弓彦はこれまでそう思って生きていたのだが、目の前の娘はその高貴な御姿まで目にしているらしい。
羨ましいという思いが一瞬湧いて、しかしすぐに引っ込める。
それは我々一族が許される領域ではない。先代の父や、先先代の祖父すら聞けなかった御声を聞けるだけで自分は既に幸運なのだ。弓彦は考え直した。
人間の青年への邪魔をさせるほどだ、余程土地神はこの少女を気に入っているらしい。
実際、ここ数ヶ月だけで小夜は見違えるほど可憐になった。といっても勿論、弓彦がその変貌に心を浮つかせることはない。そもそも十五も年が離れているため、それは親戚の子どもが成長したような感動に近かった。
あまり印象はないが小夜自身の元の造形が良かったのだろう。こうして彼女の雰囲気が変わったのも、健康的な生活のおかげだということは分かった。
小夜のそれまでの生活については詳しく知らなかったが、痩せこけていた当初の姿を思えばこれまで随分悲惨な暮らしを送っていたことは想像が付く。
弓彦には見えない神を輝く瞳で見上げる少女の姿は、実に微笑ましい。
(無論、土地神さまの意思に従えるのは幸福だが)
小夜を祭りに誘えず、授与所の前で少ししょげていた青年の姿を思い出す。
若いながら精力的に商いの活動をする彼のことを、弓彦は評価していた。しかしこうして見れば彼もまだ、十八の青年なのだと感じる。
きっと神は、小夜にすら姿を見せないまま二人の会話をずっと聞いていたのだろう。
そして役目を果たした弓彦が去った今、小夜の前に姿を見せているのかもしれない。
ただ一つ確信するのは、今日はもう自分は本殿に呼ばれないだろうということ。
思っていたよりも狭量な土地神と、不憫な若い青年。そして何も知らない渦中の少女を思って、密かに弓彦は苦笑するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます