第三幕 東雲祭
青年、手当てされる
救急箱を持ってとたとたと駆けながら、少し先の岩場に近づく。走るのなんてしばらくぶりだったが、最近の健康的な食生活のおかげか、多少息を切らす程度で済んだ。
「ねぇ、大丈夫?」
倒れ込んでいる青年の前にしゃがんで覗き込む。
全く大丈夫には見えない。
「だ……だれ、だ」
「血が出てるんだから、静かにしてて」
青年は一瞬警戒するように睨んできたが、神社の奥から出てきたのは巫女装束(厳密には異なるが)を着た娘だったためか、大人しくされるがままになっている。
指先の傷とは比べ物にならない深い傷の手当ての仕方など、小夜が知るはずもなかった。しかし、とりあえず清潔な布を当て、強く押しながら止血を試みる。
水を持ってきて傷口を先に洗うべきだったか、と今になって思い至ったが、それを取りに行くために今傷口を抑えている手を離していいものかと悩む。
あるいら弓彦を呼びに行くべきなのかとも考えたが、行ったこともない社務所に正しく辿り着けるかは分からない。それに、捜し人の貼り紙を知っている者に見られる可能性もある。
「ごめんね、下手で……どうしよう、痛い?」
心配そうに覗き込むと、焦茶色の瞳と目が合う。もはやそこに最初のような剣呑さは無い。彼はじっと目を小夜を見つめ、手を伸ばしてきた。
痛くて心細いのかなと思い、よく分からないままに小夜は傷を押さえるのとは反対の手で、彼の手を握ってやる。
「いや……」
青年は目を見開いたあと何か一瞬言いたげにしたが、言葉を飲み込んだようだった。そのまま彼に尋ねられる。
「君は?」
「小夜」
「小夜……ありがとう、大……丈夫だ。傷も、そこまで深くない」
小夜には傷はそこそこ深そうに見えたが、彼の言う通りなのか、段々と流れる血が緩やかになっていくのが分かった。布の上から適当な紐で傷口ごと縛っていく。
それを終えると小夜は青白い彼の頬に手を添え、語りかけるように言った。
「ちょっと待ってて、お水とか取ってくるから」
何往復かして、座布団や毛布、そして水差しを持ってくる。まだ春先とはいえ空は曇っていて、少し肌寒い。出血していた怪我人を外の地面に寝転がらせておくのは気が引けた。
肩を貸して室内に連れて行ってあげようかと一瞬思案したが、あの弓彦でさえ、暁の許可なしには本殿に入れないのだ。
恐らくこの青年も入ることは出来ないだろう。
「ごめんね、あの中には外部の人を入れられないの」
申し訳なさそうに弁解しながら彼の頭や体をゆっくり座布団に載せ、薄手の毛布をかけてやる。
小夜が水差しを口元に持っていくと、青年に手で制された。そして彼はゆっくりと半身だけ起き上がる。
「起きて大丈夫なの?」
「あぁ……助かったよ」
そのまま水差しから一口飲むと、青年は小夜を見つめた。まだ痛むだろうに、意外にもしっかりとした声で尋ねてくる。
「小夜はどうして、こんなところにいたんだ?」
「えっと、この神社に住んでるの」
「巫女か?」
「まぁ、そんなところ」
巫女では無いが、これまでの経緯を伏せて上手く説明することも出来ない。小夜は無難な答えに落ち着いた。
「いや、俺から名乗るべきだったな……。俺は、
「惣一郎、何でこんな怪我してたの?」
小夜も尋ね返す。ここは神社の中だ。大怪我をした人間が入ってくるなど、普通ではない。
「この神社の護符を買い付けに来る途中で、賊の連中に襲われたんだ。何とか逃げ込んだは良いものの、変な道に入り込んで……」
一息でそこまで言うと、ごほごほと咳き込み、肺を抑えた。まだ傷口は塞がれ切っていないのだ。
「ちょっと、無理しないで」
東雲神社は領内の中心近くだったような記憶があるが、少し離れれば治安の悪い場所もある。小夜のいた村も同じで、拾われる前に暮らしていた空き家のあるあたりもそうだった。
恐らく彼は、たちの悪い賊がよく出る道を運悪く歩いてしまったのだろう。
しかしいくら仕立ての良さそうな着物を纏っていたとて、一応は日中だ。そうそう襲われるものだろうか。
そんなことを思っていると、取っ手のついた木箱のようなものが横に転がっているのに見えた。木の表面には細やかな装飾がされている。
そういえば先ほど、惣一郎は”買い付け”と言っていたか。首を傾げて木箱を見る小夜に、彼は答えた。
「あぁ、俺は隣領の商人なんだ。染伊屋、って言っただろう?」
惣一郎は屋号を再び名乗る。小夜はまともに外に出たことがないため、それがどれほどの規模なのかも何を扱っているのかも分からない。しかし堂々とした彼の様子からすると、それなりに大きな商屋なのだろうと想像できる。
「馬に乗ってここまで来たんだが……馬屋に置いて少し歩いてみたらこれだ。荒れてるな、この領」
考えてみれば確かに、あの領主がまともな治世をしているわけがない。他領よりこの領が荒れていたとして、不思議はなかった。
失った血が徐々に戻ってきたのだろう、たまに顔を顰めているが、惣一郎は大分落ち着いた様子になってきていた。小夜はほっと胸を撫で下ろす。
彼は空を見上げる。曇っていた空は段々と闇に近づいてきている。これ以上暗くなれば、動くのも危なくなるだろう。
「世話になったな。もうじき暗くなる、俺は近くに宿を取ることにする」
「待って、まだ動いちゃだめだよ」
「大丈夫、この程度なら歩ける」
本殿をちらりと見る。暁が来ない限り、彼を中に入れることは出来ない。
何処にいるか知らないが、暁はここの様子に気づいていないのだろうか。とはいえ助けを求めようにも、外の人間である惣一郎の前で、暁を試しに呼びつけてみるわけにはいかない。
「分かった、せめて……知り合いの宮司がいるの。社務所は分かる?」
「分かるさ、此処も何度か来たことはあるんだ。こんな道やこんな建物があるとは、知らなかったが」
本殿をちらりと見た惣一郎はかけられた毛布を避け、ゆっくりと立ち上がる。木箱を布で包んで背負った彼を小夜は再度制止し、本殿の中にあった杖のようなものと、火のついた蝋燭を持たせた。
これで大丈夫だろう。
「弓彦、って宮司がいるの。彼なら何とかしてくれると思う。私の名を出せば、信頼できる宿屋を近くにとってもらえるんじゃないかな」
「あぁ、あの人か。会ったことがある」
「それなら話は早いね。でも、弓彦以外に私のことは絶対に話さないで。帰ってからも、だからね」
「分かった」
惣一郎に言い含める。大丈夫だろうとは思うが、念の為だった。少し怪訝そうな顔をした惣一郎は、脇腹が痛んだのかまた顔を顰めた。
すぐ近くとはいえ、社務所へ続く階段の手前まで彼を送ってやる。惣一郎は、真正面から小夜に向き直った。
「ありがとう、小夜。また礼に来る」
「別にいいのに」
「いや、必ず来る」
また来てくれるのか。
別に礼が欲しいと思って手当をしたわけでは無いが、もしかしたら友達になれるかもしれないな、と小夜の胸の中に小さな期待が宿る。
蜜も友達みたいなものだが、年はだいぶ離れている上に神だ。
見たところ惣一郎は小夜よりも少し年上に見えるが、殆ど同年代と言って差し支えないだろう。
彼は借りた杖をぐっと握ると、何か言いたそうにして、しかし首を横に振って道に入って行く。
「またね!」
「あぁ、また」
姿が見えなくなるまで見送る。
善行というのは気分が良くなるものなのだと学んだ。ちょうど悩んでいたところだったから、誰かのために行動しよう、なんて気を張り過ぎてしまったような気もする。
(これ、どうしよう)
小夜は地面に置かれたままの物を見る。
救急箱や水差しはともかく、座布団や毛布は土で汚れてしまっているだろう。すぐに洗えるとも思えないし、そもそも汚れたこれを神聖なる本殿の中に入れて良いものだろうか。
考え込んでいると、背後からよく知っている声がした。
「小夜」
「暁!」
少し暗くなってきた空の下でも、彼の銀髪は美しく艶めいている。
「人間の世話をしていたの?」
「うん、すごい怪我してたから……。本殿に入れるわけにもいかなくて、布団とか持ってきたんだけど……汚しちゃった。ごめんなさい」
「この毛布、小夜の?」
謝罪には何も言わず、暁は地面に落ちた
暁の指摘通り、急いでいたために小夜は自分の使っている毛布を持ってきたのだった。
「うん。明日にでも洗わなきゃ」
「その必要はないよ」
暁が指を一振りする。次の瞬間、救急箱も水差しも、座布団に毛布までその場から消失した。
「新しいものを用意したから」
「ありがとう。ねぇ、今来たの?」
「……そうだよ」
もう少し早くに暁が気がついていれば、怪我人を本殿で休ませてくれたかもしれない。そう思ったが、しかしそんなことを言っても仕方がないということも分かる。
現れた惣一郎の手当をしたのも、弓彦を紹介したのも、全て小夜が勝手にやったことなのだ。
暁の方を見ると、彼は久しぶりに見るような無表情だった。
「ねぇ、怒ってる? 勝手なことしたから……」
「いや? 小夜は優しいね」
「そうかな? あ、そろそろ夕ご飯の時間……先に戻って準備するね!」
外の暗さも相まって、何だか少し彼の雰囲気が怖かった。
どうせ夕食の準備をしなくてはならないし、と小夜は逃げるように本殿に戻る。
炊事場に行く前、もしやと思いちらりと自分の部屋を覗くと、先ほど消えた茅色の毛布ではなく、薄紅色の毛布が新しく置かれていた。
きっと、救急箱や座布団も元通りになっているのだろう。
(それにしても暁、どうして今日は機嫌が悪そうだったのかな)
そんなことを考えながら、最近弓彦に料理をするとき着るようにと渡された割烹着を身につけ、食事の支度を始めたのだった。
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