少女、自嘲する

「うん。小夜さん、本当に上達しましたね」


 弓彦に炊事を習い始めてからもう二ヶ月ほど経っただろうか。目まぐるしい速度で成長した小夜を見て、弓彦は満足そうに微笑む。

 

 それだけでなく、たまに神社のこと――祀られている神(すなわち暁)への信仰について、さらには周辺の地理、歴史についても弓彦から学んでいた。

 

 歴史なんて暁から直接教えて貰えば良いんじゃないかとも思ったが、実際に聞いてみるとそれは不可能なようだった。

 定期的に寝ていたし、人間のことなど大して覚えていないのだという。これは記憶力の問題ではなく、関心の問題だと小夜にも分かった。


 確かに”歴史”というものは人間が紡いできたもので、神自身はさして気にも留めていないのかもしれない。そう考えを改めたのだった。


 

 最近は雨続きだったが、今日は天気が良い。雪駄せったを履いて、溜まっていた自分の洗濯物を外の長い竿に干す。

 

 本殿から一歩でも出れば人間の世界だ。それは天候もまた同じことだった。

 

 「やる理由もないけれど、その気になれば天候くらいいくらでも操れるよ」といつか暁が言っていた気もする。しかし「洗濯物を干したいから晴れにしてほしい」なんて、いくらなんでも神に頼めるわけが無かった。


 弓彦も社務所に戻ってしまったし、暁は今日の昼は教えに来れないそうだ。字を習い始めてからよく読むようになった本も、何だか今日は開く気にもならない。

 

 小夜はただ座って外を眺める。ふと目を落とすと、身につけている薄紅の袴が目に入った。


(本当に、良くしてもらってるよね)


 弓彦にも、暁にも。蜜にだって、非常に良くしてもらっている自覚があった。

 村長邸にいた時のように八つ当たりをされるわけでもない。一人の人間として扱ってもらえる経験は、老婆と過ごして以来初めてだった。


「私、何も返せないのに。大して役にも立たないし」


 一人ぽつりと溢した。炊事を担当し始めたものの、暁に頼まれたわけでもない。きっと必要すらなかったことを勝手に申し出ただけなのだと、小夜自身分かっていた。


 数日ぶりの陽が眩しくて、目を閉じる。

 

 生きるために、何でもしてきた。物心ついたときから今までの人生が、ふと脳内に蘇る。

 

 道ゆく人や店から、食べ物を盗んだ。

 老婆は亡くなる前、子供たちが協力して生きる世界を望んでいた。しかし小夜を含めた子供たちはそんな夢物語を実際には目指すこともなく、かつて同じ屋根の下に居た者たちと縄張りを争ったのだった。

 

 村長邸ではただ息を殺していた。

 村長が役人たちに横柄な態度を取り、密かに手をつけた税で私腹を肥やしているのも、乙羽が新入りの女中に厳しく当たっているのも、見て見ぬふりをした。

 少なくともあの屋敷で衣食住は保証されていたというのに、騙し討ちのような彼らのやり口に憤って逃げ出した。

 

 そして東雲神社に住んでいる今は、祠を壊したというのに拾ってくれた神に取り入って、のうのうと平和に暮らしている。


 文字が読み書き出来るようになった。詩を覚えた。簡単な算術もこなせるようになった。掃除も洗濯もやり方を覚えて、教えてもらった料理なんて、自惚れの部分もあれど得意と言えるようになりつつある。

 

 誰かと喋るようになった。今まで碌に会話を楽しむといった経験もなかったのだ。まるで友達のように気軽に話をしてくる蜜が来るのも(暁は少し嫌な顔をするが)、小夜の楽しみになっていた。

 

 酒も飲んだ。

 あの一件でしばらく飲むなと言われてしまっていたが、最近また、暁の前でならたまに飲んで良いと許しを貰うようになった。量は管理されているが、彼と過ごす時間が少しでも増えるのは嬉しかった。


「いい、のかな」


 此処に置いてほしいと暁に頼んだときは、こんな暮らしが出来るなどとは塵ほども考えてもいなかった。


 ただあの世界に放り出されないようにと必死だった。自分の保身しか、考えていなかった。神と名乗るよく分からない彼は少し恐ろしかったが、それでも領主に捧げられるよりは良いに決まっていると思ったのだ。

 

 炊事をすると言い出したのだって、感謝の気持ちや尽くそうという純粋な思いだけではない。

 実際は打算のほうが大きかった。ほんの些細なことでも、自分が置いてもらえる理由が欲しかったからだ。


 半分外にせり出した廊下に座っていた小夜は、ゆっくりと後ろに倒れる。仰向けだとやっぱりまだ太陽が眩しくて、左手の裾で顔を覆った。清潔な香りが鼻を通り、肌触りの良い布が擦れる音がした。

 

 小夜の纏めていない黒髪は床に広がるようにして散らばっている。

 寝転がった拍子に自分の身体で踏んでしまったのか、引っ張られるような痛みを感じ、身体をずらした。


 

 この髪だって、暁から貰った櫛で毎朝丹念に梳かすようになってから、見違えるほど手触りが良くなった。


 そう、美しい細工の施された櫛まで貰ってしまったのだ。

 だけど、あぁ、与えられてばかりな自分は。

 

(卑怯で、醜い)


 薄汚く育ってきた自分が、こんなにも良い扱いを受けていて良いわけがない。弓彦など考えたこともないような罪を、小夜は数えきれないくらい犯してきているのだ。

 

 孤児だった頃は、何をしたって罪悪感など一欠片も無かった。みな奪うか奪われるかの世界で、ただ生きようとしていただけだったから。

 

 村長邸にいた頃は、拾われたことが幸福なのかはたまた不幸なのか、ずっと考えていた。

 ただ息を殺す毎日なら、あのまま死んでいてもよかったのに、なんて思うのはしょっちゅうのことだった。


 領主との婚姻だって、あの冬に拾われた時に最初から告げられていたならば、もしかしたら小夜も素直に受け入れていたのかもしれない。


 自分の今までの行いを棚に上げて、村長邸の者たちにも領主にも憤るなんて、よく考えたら勝手な話だった。


 今が間違いなく、小夜の人生でもっとも幸福だ。しかし小夜という少女は、背負っている罪悪感だけで自らその幸福を手放せるほど、強くはない。


『小夜』


 脳裏に、暁が己を呼ぶ声が蘇る。春の木漏れ日のような、柔らかな声。


 あの大きな手で頭を撫でられたんだっけ。空いている小夜の右手は、かつて触れられた部分を追うように自らの頭に伸びた。


「暁……」


『神の生贄か──それとも、花嫁か』


 あの時の暁の言葉が蘇る。

 

 勘違いしてはならない。暁は別に、小夜を求めているわけではない。蜜が現れた日、やっぱり何かを言われたのかもしれない。もしかすると、人間である小夜を神の領域にに置くことが、彼の負担になっているのかもしれない。

 

 だから、大切にされているなどとは、間違っても勘違いしてはいけない。じくじくと火傷のように胸が痛む。その痛みを逃したくて、小夜は繰り返し息を吸って、吐くのだった。


(せめて私が美味しかったらな……。それなら、生贄として役に立てたのかな)


 痛いのは嫌いだ。多少暴力に慣れているからといって、痛みを感じないわけではない。

 それでも、暁が喜ぶのなら、頭から食べられても良かったのにと思う。


 いつか、ここから出ていかなくてはならない。そんなことは分かりながらも、少しでもその時を先延ばしにしたかった。

 

 風が肌を冷たく撫でる。

 

 小夜は顔に当てていた袖を外し、空を見上げる。いつの間にか晴れていたはずの空は、薄暗く曇り始めていた。


(私ももっと、誰かのために生きられたら良かったのに)


 どんよりとした鼠色を見つめながら、思わずため息が漏れる。ただ静かに、冷たくなってきた床に寝そべっていると、何か物音が聞こえた。


――がさり。

 

 思わず立ち上がる。半分外に出ているとはいえ、今小夜がいるのは一応本殿の中だ。外に誰か居たとしても、見えるはずがない。分かっていても、心臓がどくどくと嫌な音を立てる。


――ずり、ずり。

 

 息を殺していると、何かを引きずるような音がかすかに耳に届いた。苦痛を堪えるような、荒い息も。

 

 小夜は恐る恐る、外に目をやる。すると、下からの道の端、木々のすぐそばに手をつきながら、荷物を抱えた誰かが這うように階段を登ってくるのが見えた。


 彼はなんとか登り切ると、力尽きたように岩場の傍に崩れ落ちた。本殿からは少し離れていたが、小夜はその脇腹が赤く血に染まっているのが見えた。


(ど、どうしよう)

 

 暁は、領内には貼り紙があったと言っていた。小夜は追われている身だ、人に姿を見せるのは怖い。

 

 しかし明らかな怪我人を目の前で放って置けるはずもない。以前自分の指先の切り傷に使ったため、救急箱の場所は知っていた。

 

 拳をぎゅっと握った小夜は、居間にあった救急箱をひっ掴み、雪駄を履いて外へと駆け出した。


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段々二人とも良い感じに拗らせてきましたね。次話から第三幕です。

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