少女、召し替える

「小夜、君はどちらになりたい? わたしか──それとも、か」


(生贄? 花嫁?)

 

 突然の暁の言葉に、小夜の頭が真っ白になる。

 

 いつまでもただの客人ではいられないというのは分かるが、どうしてそうなるんだろう。

 客ではなく召使いになれとか、そういう話ではないのか。

 

 しかし、暁に花嫁がどうとか言われても、領主の時の全身の毛がよだつような不快感は全くなかった。

 ただただ、困惑だけが頭を占める。小夜は恐る恐る尋ねた。


「生贄になるって言ったら、どうなるの」

「君を食べる。頭からむしゃむしゃとね。そして私の糧になるんだ」


(食べないって言ったのに!)


 ぞわりと寒気がしたような気がして、暁の胸の中で自らの腕を抱く。

 

(だけど、噛んできたときだって『美味しくない』って言っていたじゃない!)

 

 抗議するように、感情の読めない暁の表情を軽く睨め付けた。

 

「でも、きっと美味しくないよ」

「私もそう思うよ。……だから花嫁の方が、良いのかもしれないね」


 こんなことを言い出したのは暁なのに、彼自身も困っているような表情を浮かべていた。飄々として見えた彼に、小夜はどこか違和感を感じる。

 

(でも、結婚って)

 

「結婚は……愛し合う二人がするもの、でしょう?」


 花嫁と聞いて、真っ先に思ったことを口に出す。しかし暁はその問いには答えず、美しく微笑んだ。


「小夜は私のこと、嫌い?」

「そんなわけない!」

「それなら良かった。だけど、急だったね。急いで答えを出す必要は無い」


 そう言ってまた頭を撫でる暁に、小夜は確信した。


(暁は別に、本当に私を花嫁にしたいわけじゃない)


 村長邸の書庫で、数少ない絵本を思い出す。

 継母や義姉たちに虐げられていた少女が、殺されかけた末に帝に見初められる恋物語。

 

 自分にもこういうことが起きればなんて。妄想してみたことも、その本を見つけたばかりの頃はあった。

 しかしそんな美味い話はない。すぐに気づき、以来期待をすることは一切無かった。


 現実には起こり得ないことだと分かってからも、絵だけでなく、小夜にも読める簡単な文の書かれた本は貴重だった。ゆえに、何度も何度も読み返したことを思い出す。


(暁は……私を愛しているからこんなことを言っているわけじゃない)


 何故か、胸の奥がちくりと痛む。「答えは急がなくても良い」と言ってくれたが、どうして暁が急にこんなことを言い出したのか小夜には全く分からなかった。


 抱き込むようだった暁の腕の拘束が緩んで、離れるようにという意思を汲み取る。蜜が来てから急に暗くなった外を見て、小夜は再び自分の仕事を思い出す。


「すぐ、ご飯作るから」


 ぱたぱたと炊事場に駆けていく姿を暁が見つめていることに、彼女は気づかなかった。


 炊事を教わり始めて以来、小夜の技術は日に日に進歩していっている。


 切り傷を作るとすぐに暁が治そうとしてくるせいで、そんなことはさせられないと、包丁も慎重に扱うようになった。その上達ぶりから、最近では弓彦がいなくとも料理を作ることが(暁に)許されるようになったこともあり、小夜は毎日張り切っている。


 しかしもう外は真っ暗闇。米を炊く時間はない。

 小夜は、風車よりも速く頭の中を回転させる。今日の献立は、簡単な肉うどんにしよう。


 釜戸に薪を焚べ、湯を沸かし始める。この神社では、肉も魚も食べて良い。それは作る上で、小夜にとっても幸いなことだった。

 

 さっと炒めた肉を塩胡椒で味付けし、透明な出汁の中に浮かぶうどんの上に乗せる。香り付けに、まだ少し青い檸檬を絞って――完成だ。


「いただきます」

「いただきます」


 手を合わせ、うどんを啜りながらちらりと目をやる。麺を啜るにも何故か上品な彼の食事姿は、普段と何ら変わらないように見えた。




**

 



 あれから暁の態度は、やっぱりいつも通りだった。


 昼の時間、彼が本殿にいるときは文字を教えてもらうことになっている。小夜も段々と読み書きできる字が増えていき、算術や詩文など一段階上の内容を取り扱うことも増えてきた。

 和紙に筆で詩を写し終えると、暁が話しかけてくる。


「小夜、薄々思ってたけど……それしか着る物を持っていないんだね?」

「え? うん」


 自分の格好を見下ろす。村長邸から持ってきていた黄ばんだ麻の小袖こそで

 もう数年は着回し続けているから、生地はくたくたのぼろぼろ、帯代わりの細い紐など今にも千切れそうになっている。


 読み書きの練習を始めてから気をつけてはいたものの、ところどころ墨が跳ねて染みになってしまっていた。


 すぅっと、暁が指を一振りする。

 すると、畳の上に清潔な白い小袖と袴が置かれていた。

 

 手に持って広げてみるとそれは巫女装束のように見えたが、よく見かける朱色ではない。薄い赤と橙と紫が混じったようなその色は、いつか色見本で見たようなあけぼの色とも呼ぶべき色だった。


「これを着るといい」

「ありがとう、でも……」


 暁の言葉に感謝しつつ、小夜の眉尻は下がる。ほとほと困り果てたような表情だった。

 

「これ、袴だよね。着方が分からないの。どうやって着ればいい?」


 袴など、たまに村長が外出の際に着ているのを見た程度だった。無論小夜が着たことなど、あるわけがない。

 裾を摘んで固まった小夜を見て、暁は口を開く。


「それなら私が教えてあげよう。ねぇ、どうせ着るなら今、小袖も新しいものに変えたらどう?」


 身につけている、黄ばんで墨のついた小袖を見る。


 確かに、見苦しいかもしれない。いや、かもしれないではなく、間違いなく見苦しいだろう。


 側にいるのに慣れてきたせいか、最近はたまに意識するのを忘れてしまうが、暁は神だ。

 神の御前でこんなにみっともないものを身につけるな、ということかもしれない。


 そう考えるとこんななりで過ごしている自分が彼の目を汚しているようにすら思えてきた。せっかく出してくれたのだ、一刻も早く着替えよう。

 

 小夜は一瞬でそこまで思考したのだった。


「分かった」


 暁に背を向け、帯紐を解く。はらりと小袖が滑り落ち、小夜の白い両の肩が顕になった。


「……えっ。いや……はぁ?」


 珍しく焦ったような、当惑したような暁の声が聞こえた。首を捻って顔だけ向ける。


「どうしたの?」

「いや……小夜。いくら私とはいっても、男の前で着物を脱いじゃ駄目だよ」


 暁は、両手で目を塞ぐように顔を覆っていた。


 確かに、気が急いていたとはいえ神の前で衣服を脱ぐなど、かえって無礼だったのではではないか。

 一応背を向けたとはいえ、小夜は自分の浅慮を恥じた。


「ごめん、失礼だったよね。向こうで着替えてくる」

「いや……いや、いい。もう此処でいいから、早く着替えて」


 急いで元の小袖を脱ぎ、暁が出してくれた新しい小袖を身につける。腰の紐を結んでいると、ずっと黙っていた暁が顔を覆ったまま口を開いた。


「……もしかしなくても小夜、肌着を着けていないね?」

「え? うん」


 先程目の前で脱いでしまったときの話だろうか。だからといって何だというのだろう。


 首を傾げていると、それはそれは大きな溜息が聞こえた。何だか呆れているような音に、小夜は焦った。


「ねぇ、怒ってる? ごめんねって言ったよ」

「怒ってない。あのね小夜、言っておくけど、私は別に人間の……」


 暁は「言っておくけど」と言いながら、言葉の途中で黙りこくった。続きが気になったが、それ以上言うつもりは無いようだった。

 

 彼はこほん、と咳払いをする。


「着たね?」

「うん、もう大丈夫。袴の着付け方、教えてほしい」


 顔を覆っていた自らの手を外した暁は、険のある表情で小夜の纏う小袖を一瞬睨み、それから彼女の背後に回った。


「まずそれぞれの裾に脚を入れ、次に前の帯を後ろに回していく。こうやって巻いて……後ろで結ぶんだ」


 淡々とした説明が小夜の耳元で聞こえる。そのまま暁によって、腰周りの帯を代わりに結ばれた。

 彼は背後にいるため、その表情は窺い知ることができない。 


「後ろ側の帯は重ねるように回して……ほら。こうやって前で結んで、終わり。もう自分でも出来るね?」

「で、出来ない……」

 

 いつのまにか完成していた。

 帯の扱い方は特に複雑で、一回で覚えられるわけもなかった。そう泣きつくと、小夜が一人で出来るようになるまで彼は、何度だって教えてくれた。

 

(一刻も経ったらまた締め方を忘れそうだな。でもこれだけ教えておいて貰って暁にまた聞くのも……もし次忘れたら、弓彦に聞こうかな)


 いつだって皺ひとつない袴を美しく身につけている弓彦が脳内に思い浮かんだ。誰に聞こうと申し訳ないことにはもう変わりないが、暁に散々時間を取らせた挙句覚えきれなかったとあれば申し訳が立たない。


 そんなことを考えているのが、どうやら暁に見透かされたらしい。


「一応言っておくけれど、忘れたからって弓彦に聞くのは駄目だからね。分からなくなったら、また私に聞いて」


 そう言い含められてしまったのだった。




**




 夜の闇の中。

 二柱の神が、暁の本殿の側に建てられている四阿あずまやで向かい合って座っていた。


「珍しいわねぇ。暁ちゃんの方から、わたくしを呼び出すなんて」

「私としても不本意でしたが」


 憮然とした表情で暁は返す。そう、今日この女神を呼んだのは暁の方であった。


「何の御用かしら?」


 首を傾げる蜜に、薄紅色の果実が入った籠を差し出す。それは暁の神域でのみ獲れるものだった。

 蜜はぱぁっと瞳を輝かせる。


「あらぁ! わたくしこれ大好きなのよ、食べるとお肌がすべすべになるんだものぉ」


 暁が彼女の神域で作られる酒を好むように、彼女も暁の神域で獲れる果実を好んでいた。よって暁はそれを交渉の切り札の一つに選んだのだった。


「それでぇ? わたくしの大好物をちらつかせてまで、一体何なのぉ? まぁ、おおかた小夜ちゃんのことでしょうけど」


 言い当てられる。その通りだった。

 しかし普段なら(特にこの女神相手には)すぐに本題に入る暁の口は重たい。


「…………小夜の」


 それはまさに、苦虫を噛み潰したような顔だった。


 日中の小夜とのやりとり、そしてちらりと見えた白い肩を思い出す。

 体調不良とは無縁のはずの神の頭が、痛くなってくるような気がした。


「小夜の、肌着を用意していただきたい。あの娘、何も身に付けていないんです」


 ぽかんと口を開けた蜜は、その次の瞬間から涙を浮かべて大笑いを始める。


「あは、うふっ……うふふふふ! ちょっと……やだぁ、うふふ!」

「……だから嫌だったんだ」


 暁は苦々しく吐き捨てた。

 

 しかし、弓彦に小夜の肌着を用意させる訳にもいかない。きっと弓彦も小夜もたいして気にしないし、弓彦にいたっては表情にすら何も出さないだろうが、それでも快くはない。


 とはいえそのまま小夜を放置しておく訳にもいかない。癪どころではないが、女神に頼むのは苦肉の策だった。


 いかがわしいこの女神に全て任せるのは不安だったため、間違っても変な考えをさせないようにと釘をさす。


「良いですね、私が頼んでいるのはの肌着です。万が一おかしなものを渡そうとしたら......二度とこの果実を貴女に渡すことはありません」

「うふっ、分かったわよぉ。これが食べられなくなるのは困っちゃうし……うふふふふ」


 まだ笑いの収まらない蜜を見て、もう追い出してしまおうかと思った。


 ここは暁の神域である、不可能なことでは無い。

 いやしかし、呼びつけて頼み事をしておいて、それは流石に無いか。いくらこの女神相手とはいえ、暁の神としての品格に関わるかもしれない。


 ぴくりぴくりと自らの額に浮かぶ青筋に気づかないふりをしながら、暁は苛立ちをやり過ごそうと決めた。


「はぁ、用意しておくわぁ。でもわたくし気になるの。暁ちゃんは、どうしてそのことを──」


 言い終わる前に、暁は自らの神域からその女神を締め出したのだった。

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