神、問う
女神が襲来したその日。暁は領内を見廻っていた。
実際のところ、このように足を運ばずとも、神域内から全てを見渡すことは可能である。しかし、数十年でどれほど街並みが変化しているのか、何となくその目で見てみたかったのだ。
領内にいくつか貼り紙が貼られていることにも無論、暁はすぐに気づいた。
その貼り紙は領主、そしてある村の村長の連名で出されているようで、黒髪の少女の似顔絵が描かれていた。
歳の頃は十六ほど、小柄、痩身。
人探しにしては書いてある情報が少なすぎる。恐らく、その程度しか彼女について書けることが無かったのだろう。連れてきたものには報酬まで出すという。
行方不明の村長の娘。名前のところには”小夜”と書かれていた。
(そんなところだろうと思った。似顔絵は……あまり似ていないようだ)
暁は、今の小夜の姿を思い浮かべる。
顔色は随分良くなった。痩せこけた頬にも、小枝のようだった腕にも肉がつき、梳かし始めた黒髪も美しい艶を取り戻していた。
そうやって適当にふらふら街を歩いていると、自らの社に女神の気配を感じたのだった。
数十年前眠りにつく前も「起きたら教えてちょうだいね、遊びにいくわぁ」なんて、言われていたことを思い出す。
起きたとて誰が教えるものか、と心から思っていたが、まさかこんなにすぐ覚醒に気づいて訪ねてくるとは。
(暇な女神め)
そう自分のことを棚に上げながら、暁は社に急ぐ。あそこには今、小夜しか居ない。碌なことにならないのは目に見えていた。
案の定、小夜を気に入ったなどと抜かし、”蜜”なんて呼び名まで付けさせる始末。濃淡豊かな山吹の瞳を細め好き勝手振る舞うさまは、暁の神経を逆撫でた。
『──神力を与えたなら、
“与える”だなんて壮大な話だと思ったことは無かったし、そもそもそんなことは言われずとも暁だって分かっていた。分かっていたはずだった。
言い残した彼女は酒を置いて去る。
まだ夕方だったはずの神域は、彼女の影響でいつの間にか闇に移り変わっていた。
暁が神力で劣っているわけでは無いが、夜を司る彼女の力は強大だ。動揺しているうちに干渉を許してしまった己の迂闊さに、舌打ちをした。
害はなくとも神域内をこうやって絶妙に荒らされれば、不快感がついて回る。
暁は大きく溜め息をついて、本殿の中に戻ることにした。そこでは大人しく座って待っていた小夜が、急に暗くなった外を見て、慌てたように立ち上がった。
「えっ、もう夜? ごめん、全然晩ご飯の用意できてなくて……」
「いい。小夜、座って」
少し不安そうに、彼女は暁を上目で見つめる。
「なに、暁。私、なにかしちゃった? 蜜──さっきの女神さまと、何話してたの?」
「別に大したことじゃない。あれのことは忘れるように」
話したのはほんの一瞬だろうに、もう親しげに「蜜」だなんて名前を呼ぶのか。
脳裏にあの嫌らしい笑みをした女神が浮かぶ。
(──責任。責任ね)
「小夜は、領主と村長に追われてるんだ?」
女神の話から打って変わり、急に確信を突いた暁の言葉。小夜の肩がびくりと跳ねた。
「どうして……それを」
「領内に、行方不明者の貼り紙があったから」
貼り紙。その言葉を聞いた小夜は、目に見えてがたがたと小刻みに震え、怯えた表情を見せた。
これまで暁が小夜の脳内を読まなかったのは、そもそもその行為を好かないというのも勿論あるが、わざわざ覗くほどの興味が無かったからだ。
また、すぐに全てを聞いてしまったらつまらないだろう、と思っていたからでもある。
だけど今、覗くてもなく、放っておくでもなく、自分は小夜に直で訊ねている。
(我ながら、どういった風の吹き回しかな)
彼女の顔は青ざめ、力を込め過ぎている指先は血色のうかがえない白さに変色していた。暁のもとで暮らしてからせっかく顔色も良くなってきていたというのに、以前に逆戻りしてしまったみたいだった。
(可哀想に)
恐怖のせいで白くなった小夜の指に触れる。
傷を治す、なんて名目で以前揶揄って触れたときは、火にかけられてあるのかと思うくらいに熱かったというのに。彼女の細い指先は、信じられないほど冷たかった。
指を握られて、小夜はほとんど俯きかけていた顔を上げた。
「暁……?」
「小夜、何があったのか話してごらん。なぜあの日、私の祠を壊すようなことになったのか……自分の口で」
そう言って、やっと暁は気づく。そうか、自分はこの娘から直接聞きたかったのだ。
張り詰めすぎている弦のように、いつか呆気なく切れてしまいそうなこの娘から、直接。
「私……私、は」
「何を言っても怒らないよ」というように、暁は小夜の頭を撫でてやる。幾度かの深呼吸のあと、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
孤児として過ごしたこと。
老婆に”小夜”という名前を貰い、しばらく他の子供たちと暮らしていたこと。
老婆が死んで、ばらばらになった子供たちと争いながら生きていたこと。
死にそうになった冬の日に、村長に拾われあの屋敷に連れて行かれたこと。
拾われた先の屋敷の人間から顧みられることはついぞ無く、義妹になった娘にも馬鹿にされながら息を殺して過ごしていたこと。
──十六になったある日、四十ほども離れた領主との婚姻を告げられたこと。
そして、領主に捧げられるための”妹の身代わり”として拾われたのだということに気づき、屋敷から逃げ出したこと。
(孤児院にも見放され、道で暮らす孤児が死ぬのはさほど珍しいことではないが)
神がいちいち
そう。小夜にとっては降って来た儚い幸運だったようだが、彼女を自らの神域に置いてみたのも、単なる暁の気まぐれによるものでしかない。
哀れんだわけでもなく、ただ暇を持て余していたというだけの話だ。
公平も何もない。
いつの間にか暁の手を握り返していた小夜は、自らの身に起こった出来事を語り続ける。
「領主は……神の末裔だから、その
(神の末裔、ねぇ?)
思い詰めたような表情の小夜には悪いが、暁は乾いた笑いが出そうだった。
神託など、適当なことを言ってくれる。その話が全くの出鱈目だということは、暁が一番理解していた。
領主の一族――世襲していた今までの者たちは、特に害も無かったために、しばらく放置していたのだった。
しかし、当代がこのような調子の乗り方をしているとは。
ふぅ、と息をついた暁は、いまだに震えている小夜を腕の中に収めた。
「大丈夫。ここにいる限り、あれが君を見つけることは不可能だからね」
「暁……。私、ここにいて良いの?」
暁を見上げる黒い瞳に、僅かな希望が宿っているのが見てとれた。室内の灯りを受けた、その艶めく黒髪を撫でてやる。
「うん。だけど神のもとで人間が、このままずっと客人でいる──というわけにもいかない」
「客人……そう、そうだよね」
以前弓彦に説明するために適当に使った「客人」という言葉。実際、人間を客としてもてなす神など聞いたことがない。
それを聞いて小夜はまた不安げな表情に戻った。自らが神の「客人」たり得る資格はないと、そう思っているからだろう。
無意識なのだろう、まだ冷たい彼女の指は、暁の薄墨色の着物の袖をひしりと掴んでいる。
『責任を取るのはいつだってわたくしたち、神よ』
女神の声が脳内にこだまする。
責任とは、大人しく消すか、手元に置き続けるかということだ。
(手元に……か)
少し乱れた小夜の髪をそっと耳にかけて、その側頭部に手を添えてみる。顔を近づけた暁は、こつんと小夜の額に自らのものを付けた。
「ねぇ」
朝焼け色の瞳が、小夜を射抜く。
「小夜、君はどちらになりたい?
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