女神、襲来する

「な、名前って……」

「良いじゃない! そろそろ“女神さま“って呼ばれるのも、代わり映えしないって思ってたのよぉ。何でもお好きな渾名あだな、つけてみてちょうだいな」


 小夜は、目の前の美しい女神をじっと見つめる。

 直毛気味な小夜の黒髪とはかけ離れた、ふわりと揺れる桃色の髪。


 大きく垂れた目が、髪の桃色の彩度を落としたような色の睫毛に縁取られている。

 その瞳は、今にもとろとろと流れ落ちてきそうな蜂蜜はちみつの色だった。

 

(そういえば、暁のときは瞳の色で決めたな)


 暁の場合は好きに呼べと言われて考えた名前だったが、この女神は渾名が欲しいと言った。


 神を好きに呼んでいることを無礼だと思うどころか、自ら名前を付けてみろというなんて、物好きな女神だと思う。

 

 小夜自身、渾名で呼ばれたこともなければまた、渾名で誰かを呼んだこともない。定番のものなど一切思いつかない。


 それなら暁の場合に倣ってみようか、そう思い口を開いた。


「──みつ……」

「蜜?」

「女神さまの瞳が、綺麗な蜂蜜色だから……です」


 女神はひとつ瞬きをすると、目をきらきらと輝かせながら(本当に発光しているかもしれない)、興奮で頬を赤く染めた。


「あらあらあら! 名付け方まで可愛いじゃなぁい、うふふ、気に入ったわぁ」


 女神──蜜はそう言ってふわりと笑った。とりあえず気に入ってもらえたようで良かった。ほっと胸を撫で下ろしていると、彼女は居間の方を指差す。


「上がってもよろしくてぇ?」


 聞いてきたものの答える前から、彼女は勝手知ったるとばかりに本殿内をずんずんと進んでいく。

 そして適当な座布団を掴み、それはそれは美しく座ったのだった。


「それで、坊……じゃない、暁ちゃんはぁ?」

「外に出ると言って……お、仰っていました、蜜さま?  

 いつ戻るかは、私にも分かりません」

「そうなの? あぁ、それと“さま“なんて要らないわぁ、気安く喋って頂戴な。そうだわ、小夜ちゃん。せっかくだからお茶でも淹れてくださるぅ?」


(この人……いや女神。結構強引だ)


 小夜は出会ってほんの十分程度で、この女神の性質に気づいた。それでもにこにこと愛らしく笑いながら言われれば、悪い気はしない。


(美しいって、得なんだなぁ)


 そんなことを思いながら茶の用意を終え、卓に持っていく。

 しかし、茶の淹れ方だって最近弓彦に教わったばかりだ。女神に満足していただけるだろうか。内心恐る恐る差し出した。


 彼女が湯呑みを傾け、喉が動くのが見える。蜜が口を開こうとした時、部屋の中に冷たい声が響いた。


「……何をしているんです」


 暁がいつのまにか戻ってきていたのだ。いつも緩い喋り方をする彼の口調は初めて聞くものだった。

 

 彼は大きくため息をつくと、静かに小夜に手招きする。

 

「小夜、とりあえずその女から離れて、こちらに。穢れるよ」

「ちょっとぉ! 女神に向かって穢れるとは何よぉ!」


 わざとらしく手を腰に当てて怒ったような真似をする女神。それを暁は睨みつける。

 

「小夜はここにいてくれるかな。私はちょっと、これと話してくるから」


 これ、とは。女神に対してあんまりな呼称では無いかと思った。

 

 そう言って背を向けた暁が歩き始めると、蜜も美しい所作で立ち上がって、小夜に手を振った。


「まったくもう。またねぇ、小夜ちゃん」


 そして、二人──いや、二柱の姿が消えたのだった。

 



**




「”暁”……ね、良い名前じゃなぁい?」

「何が言いたいのか分かりませんが、用が無いなら今すぐお帰りください」


 意味ありげな視線を送る女神に、暁は険しい顔で言い放つ。

 

「坊や……いえ、暁ちゃんったらぁ。わたくしの方がお姉さんだからって、そんなにかしこまなくて良いって、言っているでしょう?」

「かしこまっているのではありません。これは他人行儀というのですが、分かりませんか。あとその呼び方、前のものも不快でしたが、辞めていただきたい」

「相変わらずつれないわねぇ」


 神には力関係も上下関係もない。正確に言えば、場合により所々存在はするが、少なくとも暁は勢力争いの類に参加したことは無かった。


 ほとんど永遠を生きる神同士が争っても無駄だと思っているからだ。

 

「かしこまっている」と言われるような口調をしたのは、目の前のこの女神からなるべく距離を取りたいからに他ならない。


 目の前の女神は、暁よりも永く生きている。

 神の間では、生きた長さなどが上下関係を決めるものにはならないが、言外に青二才あおにさいと馬鹿にされたような気分だった。


 そして暁は知っていた。この女が子飼いの人間を男女問わず侍らせ、毎夜のように宴会を開いていることを。

 全くもって教育に悪い、悦楽に耽ける行為を彼女は至上としているのだ。


 過ぎた快楽主義に苦言を呈してみると、彼女は悪びれず「わたくしもこの子たちも愉しく遊んでるだけ、何が悪いのぉ?」と言い放つのだと、神の間でも有名な話だった。


 今のところそのような側面は小夜に伏せているようだが、巻き込もうとすればその瞬間、縁を切らせようと決意した。


「ふぅ。貴方の悪いところはね、退屈だと言いながらも、享楽に耽ることに振り切れない半端さよぉ。もっと外まで手を伸ばして遊べば良いじゃなぁい?」


 やれやれとばかりに、女神は肩をすくめる。

 

「遊ぶ、ねぇ。貴女ほどの永い生の中で不徳ふとくが最も心地良いというのなら、いつまでも若い娘のように振る舞うのも腑に落ちる話です」

「あらあら、へ〜ぇ? そんなに言って良いのかしらぁ? 素敵なお土産、持って来てあげたのに」


 暁のちくちくとした……というには悪意のこもりすぎた嫌味に女神はこめかみをぴくりとさせると、ちらりと背に隠していた瓶を見せつけた。それは、彼女の神域で作られた酒だった。

 

 それが類稀なる美酒びしゅであることはある意味、暁にとって最も不幸なことだとも言える。

 彼女がこれ見よがしにちらつかせ続けているその瓶の中身。それが、絡み方が非常に鬱陶しいこの女神との交流を、暁がいまだに断ち切れない理由だった。


 

 分が悪いと悟った暁は、こほんと一つ咳払いをする。


「……失敬。それで、一体何の御用です?」

「御用? しばらく眠ると言っていたお友達が起きた気配がしたと思えば、人間の娘をそばに置いているのよぉ? 遊びに来るに決まっているでしょう!」

「お友達ではありません」


 ぴしゃりとすげなく返した暁の言葉には触れず、これまでにやにやとしていた彼女は、表情から急に笑みを消した。


「ねぇ……あの娘から、微かにを感じたわぁ。貴方、小夜ちゃんに何か食べさせでもしたのでしょう。そのまま人間の世界に戻すわけにもいかなくなってしまったみたいね?」


 痛いところを突かれた。


(だから嫌だったんだ)


 目ざといこの女神が、小夜の纏うかすかな暁の神力しんりょくを見落とすはずがなかった。


「心配していただかなくとも、程々の頃合いでどうにかしますよ」


 「どうにかする」とはつまり、神力で小夜の存在ごと消す、という意味だ。


 情が湧いてきてしまっていることには気づいていたが、いずれ人間界に戻す日が来るだろう。


 放っておけば人間以上に生きてしまう彼女を、それなりの時間が経ったところで消してやればいい。それなら殆ど人間の一生と変わらないだろう。


 そんなことを暁は考えていたのだった。

 

 女神は、自らの手で艶やかな桃色の髪を弄んでいる。かと思うと、また薄い笑みを浮かべた。

 

「どうにか、ねぇ。でもわたくし、あの娘のこと気に入っちゃった。だったら寄越してくださらなぁい? ――現世うつしよで最も美しい人間の少女に、してあげる」


 驚いた。恐らく小夜と女神が会話したのはほんの短い間だったろうに、一体何が彼女の琴線に触れたのだろう。

 

 しかし仮にこの女神に小夜を渡してしまえばどうなるか。十中八九、あのいかがわしい宴会の中に放られるのが落ちだ。この女神に侍る小夜を想像するだけで内心に苛立ちが募る。

 

「拒否します。……女神。あの娘の一体何が、そんなに気に入ったのですか?」

「“女神“じゃないわぁ。蜜と呼んでちょうだいな」

「まさか……それも小夜が?」

「うふふ、わたくしもお名前、付けてもらっちゃったぁ!」


 女神──蜜は、嬉しそうに微笑む。


 大方自分からせびったのだろうが、突つけば音の鳴るお気に入りの玩具を見つけたとでも思っているのだろうか。

 暁はそう推測する。そして残念なことに、彼女の持つ「愉快な玩具表」の一項目には暁の名前もあるはずだ。


 小夜が女神にまで名前を与えるとは思ってもみなかった。暁自身といえば何のこだわりも無いから、人間の娘に好きに呼ばせていただけだ。


 だというのに、小夜が他の神にも同じことをしたというのが気に食わなかった。胸の奥でちりちりとした不快感が火花を散らし、その灰が積もりゆくのを感じる。


「小夜ちゃん、貴方の祠を壊したんですってぇ? うふふっ、とっても面白い子じゃない。それに、可愛らしいし」


 蜜はくすりと笑って、ひらひらと手を振った。


「まぁ、どうせ貰えるとは思ってなかったわよぉ……だけど暁ちゃん、貴方、本当はどうするつもり?」

「本当、とは」

「あの娘を消すでも、食べるでも、めとるでも、何でも良いけれど。──神力を与えたなら、責任を取るのはいつだってわたくしたち、神よ」


 消す。

 そう、ほどほどの頃合いで消そうと思っていた。食べるのは美味しくなさそうだったから。しかし、娶るなど、その言葉を聞くまで考えたことも無かった。


(──責任、か)


 黙り込んだ暁を、蜜は一瞥する。


 「また来るわぁ」そう言い残し──夜を司る女神は、闇に紛れ、消えていった。

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