第二幕 突きつけられた二択

少女、黒髪を梳かす

 窓から差し込む朝の光で目覚め、小夜の一日は始まる。


 弓彦に教えてもらいながらではあるが、洗濯だって自分でするようになった。

 神の世界は常に清浄とはいえ、身につけるものなのだ。お日様の匂いを纏うと自然に背筋も伸び、気分も良くなってくる。

 

 それに洗って干してという作業が多少面倒でも、毎日清潔なものを身につけられるというのは、小夜にとって感動すべきことだった。

 

 孤児として空き家で暮らしていた時代は服なんて一、二枚しか持っていなかった。村長邸でも小夜の洗濯物は常に後回しにされていたため、変えてもらえるのは数日に一度。それが今なら自分の裁量で好きに出来るのだ。

 

 日光を浴び、すぅっと深呼吸をする。朝から家事をすることにもまた、清々しさを感じていた。


 洗濯物を干すには必然的に、本殿の外に出なくてはならない。外に用意してもらった物干し竿に洗濯物をかけていく。


 本殿は小さな山の中腹あたりの開けた地にあるため、日の当たり方もなかなか良かった。


 勿論近くに人が迷い込んで来てはいないか注意しなくてはいけないが、弓彦いわく神社に仕える巫女たちすらこの場所を知らないらしい。


 彼は「可能性が零とは言い切れませんが、ここの近くで人を見たことはありません。まず大丈夫でしょう」と言っていたし、小夜はそこまで心配もしていなかった。

 

 一応暁にも洗濯のために自由に本殿から出る許可を取っておいた。「本殿のすぐ側くらいなら良いけれど、下の道に降りてはいけないよ」とのことだった。

 

 逃げ出した身である小夜自身、人のいる神社の主な部分に近づきたくはないのだ。降りるつもりなど元より無かった。


 外に張り出した木製の板張りの床の上で、日が天に近づくのをただ、ぼうっと眺める。



『本殿とは神のための場所であり、普通人間が入ることは出来ません』


 小夜は弓彦から、東雲神社についても少しずつ知識を授けられ始めている。

 

 一方の人間が参る場所は「拝殿はいでん」と言うらしい。道を降りた先にある東雲神社の敷地では、拝殿との本殿が連なるように建てられているらしい。

 

 今小夜が居るのは神域に繋がるの本殿だ。しかし、炊事場や居間に寝室のような空間まで付属しており、生活が可能な場になっている。これは普通の本殿の造りとは全く異なるらしい。

 

 その造りすら、暁が指を一振りするだけでいくらでも変化するのだ。小夜はあまり深く考えないことにした。

 


 

 小夜は暇だった。

 暇には慣れているつもりだったが、安全が確保され気が緩んだせいか、はたまた暁や弓彦との時間が濃密なせいか、一人でいると、時間の進みが遅く感じる。

 

 日中の暇潰しとして弓彦が親切にも本を数冊寄越してくれだが生憎、小夜は文字はほとんど読めない。

 

 しかも、渡されたそれらは村長邸にあったものよりも絵が少なく言葉も難解だ。初めはぱらぱらと見て読もうと試みもしたが、すぐに諦めることになった。

 

 弓彦も小夜に気を遣って本を渡してくれたのだ、「読めない」なんて言えなかった。

 そんなことを言ってしまえば、きっと優しくて神への忠義に厚い彼は、本の内容までいちいち教えようとしてくれるだろう。


 しかし、既に炊事の時点で大分迷惑をかけている上に、神社の知識まで教わっているのだ。これ以上弓彦に負担をかけたくなかった。


「読めないの」


 いつの間にか、横に暁が座っていた。音もなく突然姿を現わす彼には、毎度驚かされる。


 暁は「読まないの?」ではなく「読めないの」と言った。確認のような言葉からは、すべて見透かされてることが分かった。

 

『お姉さまは本当に、頭が悪いわね!』


 乙羽から馬鹿にされた記憶が蘇る。何度も何度もことあるごとに、彼女は小夜にそう言ってきた。


 胸の奥にこびりついた嫌な記憶。小夜は俯いた。


「うん、読めない。私、頭が……悪いから」

「私はそうは思わないけどな」


 諦めに似た心地でつぶやいた自虐に、暁は首を傾けた。想像もしていなかった言葉にびっくりして小夜が顔を上げると、暁は真剣な眼差しをしていた。


「小夜はただ、教育を受けさせてもらえなかっただけだよ。自分で考えて行動した結果、今ここに君はいる。小夜の頭が悪いなんてことは、ないよ」


 目頭がじんわりと熱くなるのを感じた。視界がぼやけていく。


(私は……)


 醜く生きて、拾われて、利用されたことに気づいて逃げて、全てに疲れて……そうしたら神に出会って、頼み込んだら置いてもらうことができた。


 最近では家事も習い始めたがそれは第一に、自らの居場所を作るためだった。


 それでも、ただ生きるために必死で足掻いてきた自分の選択が、暁によって肯定されたような気がしたのだ。

 

「弓彦に迷惑をかけたくないんでしょう。どれ、文字は私が教えてあげよう」


 弓彦への後ろめたさまで見抜かれていたらしい。

 

 暁が指を鳴らすと、教本のようなものが現れた。「今の子どもはこれで学ぶらしいね」と言いながら、彼はぱらぱらと中身を確認している。


「暁……ありがとう。本当に、嬉しい」


 それは、蕾が綻ぶような笑顔だった。暁は思わず息を呑み、そして咲き始めた花に応えるように笑ったのだった。


 村長にも乙羽にも炊事係や掃除婦にも、何かを尋ねれば馬鹿にされた挙句、教えてもらえないのが常だった。


 尊厳を少しずつ削られることに疲弊した小夜は次第に、そもそも何かを尋ねることすらほとんどしなくなっていた。


 しかし暁も弓彦も、彼らとは全く異なる。嫌な顔一つせずに小夜が分かるまで教えてくれる。


 この神の世界に連れてこられたときだってそうだった。彼らは小夜が同じことを何度聞いたとて、馬鹿にしたりなんか絶対にしない。


 それが小夜には新鮮で、次第に何かを問うことへの恐怖心が自分の中で薄れていくのを感じた。


 暁がもう一度指を振ると、小ぶりの座り机が現れる。その机の上で文字を教わる小夜は、夢中になって知識を吸収していった。


 教本を捲った拍子、小夜の黒髪がぱさりとその上にかかる。食生活が改善されたことで当初より髪の色艶は良くなってきていたが、毛先が少し絡まっていた。


「小夜。くしで髪、梳かしてる?」


 もしやと聞いた暁の問いに、小夜はこてんと首を傾げた。そしておもむろに、自らの指先を髪の間に通し始める。


「うん。梳かしてるよ」


 その動作を見てこめかみに手を当てた暁は、(こういうところが危なっかしいんだ)と内心思う。彼が指を振ると、見事な櫛が現れた。


「櫛は櫛でも、それは手櫛だろうに……ほら、これを使いなさい」


 小夜は差し出されるがままにそれを受け取る。表面には、黒地に赤い椿と金の葉が描かれていた。


(こんなに綺麗なもの、今まで見たことない)

 

 小夜は思わずうっとりしながら、そっと手のひらの上に置いた櫛をじっと見つめる。


「見惚れるのは良いけれど、使うんだよ」


 釘を刺され、視線に急かされるまま自らの黒髪に櫛を沿わせてみる。細い髪の間をするすると通っていくそれによって、絡まっていた毛先も解け、真っ直ぐになった。


「ありがとう、暁。これ、宝物にする」

「大袈裟な」


 そう言いながらも、櫛を胸に抱きしめた小夜を見た暁は、満足そうに赤紫の目を細めたのだった。

 



**


 


 日が頂点に昇り傾き始めたあたりで、暁は「外の見回りに行ってくるよ」と言って出ていった。


 領主の治める領内は、その前に彼の管轄でもある。人間の様子を確認するのも、神の仕事の一つなのかもしれないと思う。


 暁に習ったばかりの本を読み進めていると、小夜一人のはずの本殿内で、女性の声が聞こえた。


「あららぁ。坊や、お留守なのぉ?」


 艶やかな甘ったるい声。振り向くと、緩く波打った桃色の長髪をなびかせた美女がそこに立っていた。


「あら……あらあらあら。人間の子? 可愛いわぁ」


 彼女は小夜を見て、嬉しそうに両手で自らの頬を包む。その口ぶりと容貌は、明らかに人間ではなかった。


「こんにちは……あなたも神様、ですか」

「こんにちは。ふふふふ、そうよ。女神さまよ」


 豊満な身体を揺らしながら、彼女は妖艶に笑った。


 今まで見た女性の中で間違いなく最も美しい。暁と同じ類の、人智を超越した美貌だった。


 見惚れそうになりながらも、先ほど聞こえた言葉が脳内で引っかかった。


「あの、さっき坊やって……もしかして、暁のこと?」

「暁?」


 一瞬きょとんとした女神は、「閃いた!」というようにぽんと手を打った。


「あぁ、坊やのこと。そう名付けたのね? 暁……うふふ、悪くない感性ね。好きよ、わたくし」


 やはり”坊や”というのは暁のことだったようだ。しかしあの暁にそんな呼び方ができるなんて、一体彼女は何者だろうか。


「ねぇ貴女、坊や……じゃなかった、うふ、暁ちゃんとどういう関係なの?」

「関係? えっと、たまたま拾われて……」

「たまたま?」


 気づけば小夜は、暁との出会いについて洗いざらい吐かされていた。


 逃げている途中、目に入った祠を衝動的に壊してしまったこと、そうしたら彼が現れて、連れて来られたこの地に何やかんや置いてもらえることになったこと、などである。


 祠を壊したという話のところで、女神は桃色の髪を振り乱し、腹を抱えて大笑いしていた。


「うふ、あは、うふふふふ! やだ、おもしろ〜い! 貴女、最高だわぁ!」


 ひとしきり笑うことに満足したのだろうか、女神は小夜の方へずいずいっと近づいてきた。あまりに麗しい顔面の圧に、思わず仰け反りそうになる。


「貴女、お名前は?」

「小夜、です」

「小夜ちゃん、気に入ったわぁ。ねぇ、わたくしにも……暁ちゃんみたいなお名前、付けてくださらない?」


 蜂蜜色の瞳を輝かせ、満面の笑みで女神は──無茶ぶりを始めた。

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