少女、神の奇行に怯える
(神、怖すぎる)
小夜は怯えていた。先ほど思い切り噛んできた奇行と、その後の焦ったように心配する顔が結びつかない。
興味本位だったのだろうか?
傷の消えた手首を摩り続ける小夜に、暁は言い訳するように口を開いた。
「人間を食べるのが好きな神もいたなぁ、って思い出して……何となく、試してみただけだよ。本当にもう、しないから」
弁解した彼は立ち上がり、何処かへ消えていった。なんとなく布団に視線を落とすと、重ね着しすぎて着膨れている自分の姿が目に映る。
そうだ、自分はあの忌々しい村長邸から、逃げてきたのだった。涙を自らの袖で拭ってみるが、いっこうに止まる気配はなかった。
(死なせてみろと意気込んで、祠まで壊したくせに。今更何を、怖がってなんか……)
あのまま彼らに良いようにされるのであれば、死んでやる。そういう覚悟があったはずだった。
それなのに現実の自分はたかが手首を噛まれたくらいで泣いているのだ。情けなくて仕方がなかった。
痛いものは痛い。
それは変わらないとは言え、あの屋敷で八つ当たりのために日常的に振るわれる暴力には慣れていた。
偶然を装って掃除婦に箒で殴られたり、乙羽に階段で足をかけられたり、機嫌の悪い村長やその妻に平手で打たれたり。
どう叩かれれば痛みを軽減させられるのか、何を言えば早く許してもらえるのか。そういったことばかり覚えてしまった六年だった。
それでも飢えて凍えるよりはましかと思っていたが、乙羽の代わりとしてあの領主に
(これから、どうしよう)
あの神──暁は、正直言って恐ろしい。
それは噛まれたからというよりも、村長邸の人間と異なり、言動の傾向が全く掴めない上に、感情の動きも読めないからだ。
食べないとは言ってくれたが、ここにいたら何されるかも分からない。とはいえここから逃げて外にでたとして、一人でやっていけるとも思えなかった。
気を失ってからどれだけ時間が経ったかは分からないが、村長たちだってもうすでに小夜が部屋から逃げ出したことに気づいているだろう。
領主に対する面子だってある。彼らがどんな手を使っても屋敷に戻そうと、小夜の捜索を始めるのは想像に難くない。
村長邸を飛び出した直後は怒りと勢いで、自分一人でも生活していってやると心の底から思っていた。しかしこうして出鼻を挫かれると、その心境に戻れる気はしない。
今でさえ涙が止まらないのに、彼らから逃げ切ることなどできるのだろうか。
ことん、という音に顔を上げる。銀髪の美丈夫がいつの間にか戻って来ていて、布団の側に盆を置いたのが見えた。その上には、数種類の惣菜たちがきらきらと輝いていた。
「え……」
「お腹が空いたかなと思ってね。領民から私への、供え物だよ」
あまりに色々なことが起こりすぎて空腹など感じる間も無かったが、盆の上の食べ物を目にするやいなや、急に涎が口内に分泌され始めた。
喉を鳴らす小夜に、暁は頷きながら微笑む。それは食べて良い、という許しだった。
そうっと稲荷寿司を手に取る。表面の油揚げのべたつきが指についてようやく、素手で掴まない方が良かったのかもしれないと気づく。見れば、盆の端には箸が鎮座していた。
どうすればいいのだろう。
ちらりと暁を見やると、彼は優美に笑った。何だか安心して、そのまま稲荷寿司を口に入れる。
(お、美味しい!)
柔らかな油揚げの甘味と、それに包まれた米の微かな酸味。口の中で広がる味に小夜は夢中になって、二つ三つと食べ進めた。
その次は白身魚だ。わざわざ焼いてくれたのだろうか、温かいそれを箸で解して口に運んだ。淡白な身に程よい塩気が乗っていて美味しい。今までは硬い皮に申し訳程度に魚肉のついたような、冷たい残り物しか食べたことがなかったため、感動はひとしおだった。
「ふふ、これは果実酒なんだけど……酒、飲んだことある?」
小夜は首を横に振る。飲んだことなどあるわけがない。
領内で酒が許される年齢は十五からであるが、あの屋敷では小夜に酒などの嗜好品が回ってくることは無かった。
「飲んでみる?」
少し迷って、こくりと頷く。赤紫に輝く、器の中の液体。興味は隠せなかった。
(暁の瞳も、暗闇で会ったときはこんな色をしていたのかな)
そんなことを思いながら試しに一口ちびりと飲んでみる。甘味と共に、芳醇な香りと深みのある味わいが喉を流れた。
喉から腹部にかけて、体がじんわり温かくなるような心地がした。すぐに気に入って、ごくごくと飲み始める。
「初めてならそんなにいっぺんに飲んじゃいけないよ、ゆっくりね」
勢いよく喉に流し入れるものだから諌められてしまった。合間に果実酒で喉を潤しながら、他にもいくつかの供え物を食べる。
そして最後、つやつやとした
村長邸では当然、貴重な果物が小夜に回ってくるはずもない。稀に、主な部分は切り落とされているほぼ芯に近い林檎を放られることがあるくらいで、それを必死にしゃぶっていたことを思い出した。
「良い食べっぷりだね。見ていて気分が良かったよ」
気づいたら盆の上は空だった。暁の声に顔をあげると、彼は珍妙な動物を見るかのような顔をしていた。
すっかり食べることに夢中になっていて、お礼を言いそびれていたことを思い出す。夜の闇のような小夜の瞳が、朝焼けの赤紫を見つめる。
「ありがとう、とっても美味しかった。……こんなに美味しいもの、初めてだった」
領主の前に連れられた日の見た目だけ豪勢な食事の味などはとうに、記憶から捨て去っている。
民が神への信仰心から用意した供え物。これ以上ないくらいに美味しくて、暖かいと思った。
(暁は、悪い人じゃないのかもしれない)
酒が回ってきたのかくらりとした酩酊感の中、小夜は思った。
単純な考えかもしれないが、倒れた小夜をわざわざ布団に寝かし、意味のわからない凶行を挟んだとは言え、ご馳走みたいなお供え物を振る舞ってくれた。親切にされたことは疑いようもない。
「ねぇ......しばらくここに、置いてくれないかな」
勝手に言葉が溢れ、自分でも驚いた小夜は口を塞いだ。
今まで村長邸で過ごした時間と、乙羽の言葉が脳内に流れ出す。絶対にあそこには戻りたくない。改めて強く思う。
もしここに置いてもらえるなら、どれだけいいか。
断られることを想像すると恐ろしくて、暁の顔が見れず、俯く。しかしやはりそれでは失礼だと、膝をついて頭を床につけた。
お世辞にも艶のいいとはいえない、ぼさぼさの黒髪が散らばる。
「しばらくで良いんです、ここに置いてください。何でもするから……お願い、します」
「顔を上げて」
恐る恐る顔を上げると、彼は美しい微笑みを崩していなかった。
「構わないよ、私も暇だったからね。祠を壊された分、働いてもらおうかな」
居候の許可に胸を撫で下ろしたのも束の間、自らの蛮行を指されて息が止まりそうになった。
そうだった、小夜はとんでもなく罰当たりなことをしたのだった。
しかし怒った様子もなく微笑む暁を見れば、彼なりの冗談だったというのはすぐに分かる。
どうしてか許してくれているみたいだったが、やってしまった分以上に奉公してお返ししよう。そう内心で誓っていると、暁の手が小夜の方に伸ばされた。
「でもね」
暁の長い人差し指が、小夜の薄い唇をそっと塞ぐ。
「女の子が何でもするとか、気軽に口にしてはいけないよ」
困った子だ、というように。
暁は眉を落として、薄く笑ったのだった。
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