神、叩き起こされる

「──あかつき

「ん?」

「朝焼けの神なんでしょう? 朝焼けのことを、暁って言うらしいの」


 少女──小夜さよは、神に朝焼けの名前を与えた。

 好きに呼べと言ったのは自分だったが、まさか本当に神に名前をつけようとするとは。

 

 少し面白くなって、よく見てみようと顎を掴むと、その表情が強張った。


 寝起きでとっ散らかっている黒髪は艶がなく、緊張で紅潮している頬の肉付きは悪い。しかし、控えめながら通った鼻筋、硬く引き結ばれているが柔らかそうな唇、長いまつ毛に炭を溶かしたかのような瞳は、神から見ても美しい造形をしていた。

 

 明らかに不必要なほど重ねている服。その袖からちらりと覗く彼女の腕は細く、陽の光を知らないかのような白さだった。その手に触れると、雪のような手首が目に飛び込んで来た。

 

(神の中には、人間を食べることを好む者もいた)


 突然そんなことを思い出す。人間からすれば遥か昔、神の集まる宴会でどこかの神が、そんな内容を吹聴してたような気がする。

 

 薄気味悪い悪趣味なやつだと思ってたが、その時の記憶がどうしてか今思い出されたのだった。


(あれは美味しいと言っていたが、本当だろうか)


 そんなことが急に気になって、暁はただ衝動的に、小さな手首に――噛み付いた。



**


 

 祠が壊された日。

 神が放つ神力しんりょくに当てられて倒れた少女を放置せずに連れて来たのは、実のところ単なる気まぐれだった。


 神──もとい、暁はここのところ六、七百年ほど退屈していた。


 暁とて神としての意識を持ってからしばらくは、人間で遊んでみたものだ。

 いたずらに富ませてみたり、崇めさせてみたり、争わせてみたり、侍らせてみたり。しかしどれも何百年も続けられるほど面白くはなかった。有り体に言えば、飽きた。

 

 だから、眠ることにした。

 しかしそんな最中、祠が乱雑に一つ壊される感覚がし、暁は(人間の尺度で言えば)長い眠りから覚めたのだ。


 叩き起こされたことにも、祠を壊されたことにも、暁は怒ってなどいなかった。怒るほどの関心が人間に無かったからだ。

 

 まぁ、罰当たりな不届者の顔くらい見てやろう。おどかすくらいはしてやるか。

 そう思って来てみれば──そこにいたのは、人生やってられないというような顔をした少女だった。

 

 走って来たのか髪はぼさぼさで、衣服は異様な重ね方をしている。おまけに死にたいから祠を壊した、なんてのたまう始末。

 何だか愉快そうだったので、社に連れて来て布団で寝かせてやることにした。


 起きてからも表情をころころ変える娘が面白かったが、大声を出しては辛そうに喉を抑え、咳き込んでいる姿は少し可哀想に映った。

 

 そんな自分にも驚きながら、親切心から神力で出した茶を渡してやる。

 人間を憐れむなんて私も優しいじゃないか。なんて自分で思っていたが、湯呑みの中身を飲み干した彼女を見て、あることを思い出した。


(あ、やらかした)


 それは不注意だった。自らの額に手を当てたいような心地になる。

 神力の込められた物を飲み食いしてしまったら最後──人間が自然に老いて亡くなることは、不可能になるのだ。


 言い訳をすると暁も寝起きで、そんなことはすっかり忘れていたのだ。こうなればその人間の最期は、神の手で消滅させるくらいしかなかった。


 人の生に干渉して良いことなど、基本的に無い。

 まず面倒なことになるというのが、神の間でも常識となっていた。


 神力を与えた人間が調子に乗って神に迷惑をかけたり、争いを生んだりというのが、この数千年の中で起こって来たことだ。

 そんな中でわざわざ人間の生に干渉するのなんて、快楽主義者か人間と添い遂げようとするごく僅かな酔狂者くらいしか存在しない。

 

 まぁ、過ぎたことは仕方ない。

 暁は開き直ることにした。いざとなれば神力で、この娘の存在ごと消して仕舞えばいいのだ。


 そんなことを考えながら適当に話していると、この娘から朝焼けの名前で呼ばれることになったのだった。


(血の気の多い神が相手であれば、この娘も身の程知らずだと殺されたかもしれないね)


 しかし暁にとって人間の言動など、大したことではない。故に、気に触ることもなかった。


 そのはずだった。


 だというのに、好奇心のまま噛みちぎって見ようかと手首を食んでみれば、痛いと泣く小夜の姿を見て、らしくもなく動揺してしまった。


 人間などどうでも良い、つまらない存在だと思っていたのに。しかし彼女の漆黒の瞳から涙が溢れるのを見ると、心が騒めくのだ。


 神と人間は対等ではない。

 人間に悪いと思う必要など微塵もないのに、泣き止んでほしいと思ってしまった。袖で頬を伝う雫を拭いながら、そんな感傷に浸っている自分がおかしくなる。


(私がこんなことをしてやるなんてね。まだ寝惚けているのかな)


 そんなことをぼんやり考えた暁は、その傷を神力で治してやっただけではなく、自らへの供え物まで食べさせてやったのだった。

 

 人間からの供え物であれば暁の神力が入っているわけでもない。我ながら無難な選択だと思った。


 神は食事をとらなくとも死なない。

 飲食物は言わば単なる嗜好品だが、暁はさして食に興味がなかった。それに何百年と稲荷寿司やら領の特産物やらを出されれば、誰だって飽きるに決まっている。

 

 なのに小夜は、きらきらした目で一心不乱に供え物を頬に詰めていった。こんなに美味しいものは初めてだ、と。夢中で食べる彼女から、目が離せなかった。

 

 小夜の肉付きははっきり言って悪い。発育不全とすらいえる。着膨れした不審な身なりといい、彼女は訳ありなのだろう。


 神力で頭の中を覗けば一発で事情など分かるのだが、暁はそのやり方を好む性質たちではない。よって彼は、とりあえずと静観することにした。


(すぐに全てを明かしては、つまらないじゃないか)


 食べ終わった小夜が、何やら決意したように拳を握っているのが見える。


「ねぇ......しばらくここに置いてくれないかな」


 もとより神力のこもった茶を飲ませてしまった時点で、監視下に置かなくてはならないと考えていたのだ。断る理由もない。


 口を開こうとした瞬間、まともな礼儀も知らなそうな小娘ははっとした顔をする。そのまま慌てて床に頭をつけて言い直した。


「しばらくで良いんです、ここに置いてください。何でもするから……お願い、します」


(必死だな)


 最低限の礼儀は尽くし、身の程も弁えられるようだ。それにしたって、「何でも」とはいただけない。


「構わないよ、私も暇だったからね。祠を壊された分、働いてもらおうかな」


 顔を上げさせて是と答えるも、祠という言葉に小夜の肩がぴくりと震える。罪悪感がありありと見てとれた。やはり、賽子さいころのように転がる表情は見ていて面白い。

 

「でもね」


 暁は長い人差し指で、小夜の薄い唇をそっと塞ぐ。栄養を摂取したばかりで色付きの良くなった唇は、見た目より柔らかかった。


「女の子が何でもするとか、気軽に口にしてはいけないよ」


 物好きな男神、あるいは女神であれば、これを言質に手酷く享楽を教えかねない言葉だ。いくつかの快楽主義かつ奔放な神たちが頭に浮かび、顔を顰めたくなる。


 神に向けた言葉は決して撤回することは叶わない。目の前にいる神が自分だった幸運に、この娘は感謝すべきだろうとすら思う。

 無論人間相手だったとしても危うい言葉には違いなく、本当に何も知らずに生きて来たのだろう。


 神力など使わなくても、神には人間の本質が分かる。それは単純な善悪で分けられるものではないとはいえ、食事をとって憑き物の取れたような雰囲気に変わったこの娘は、ただただ純だった。

 

 きっとこれまでは自らを殻の中に入れ、外界から心を守って来たのだろう。

 彼女の黒い瞳には意志の強そうな光が戻っていた。

 

(──退屈しのぎくらいには、なってくれるといい)


 どうせ起こされて暇なんだ。

 気まぐれな神は、こうして少女を拾ったのだった。

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