第一幕 拾われた少女

少女、神を名づける

 目を覚ますと、小夜は布団の中にいた。

 まどろみに溺れそうになった瞬間、一気にこれまでの行動が濁流のように脳内に流れ込む。ばっと布団から起き上がった。

 

──布団?

 

(まさか、連れ戻された!?)


 最悪の想像が過り、周りを見渡す。しかしそこは見知らぬ和室だ。思わず安堵のため息を漏らす。


 小夜が再び顔を上げると、すぐ隣に座りこちらを覗き込んでくる男と目が合った。

 あの時、祠にいた男だ。


「っ!? なっ……だ、誰!」

「私? 神だよ」

「はぁっ!?」


 勢いよく声を出して喉を痛めた小夜は、けほけほと酷く咳き込んだ。

 あの屋敷ではまともに人と会話をすることもなかったのだ。大きな声を出すことになれていないせいもあった。


「大丈夫? はい、どうぞ」

 

 驚いたような声と共に、どこから取り出したのか、適度に暖かいが入った湯呑みが差し出される。途端に喉の渇きを思い出し、小夜はごくごくと飲み干したのだった。


「それで、神って」


 小夜を興味深そうに見ながら、彼は口を開いた。


「君たちの言う、土地神さまってやつかな」


 飄々と男は言い放った。


 よく見ると彼は大変な美丈夫だ。今までの生活から美醜に疎かった小夜ですら、本能的にその美しさが肌で分かった。暗闇では不明瞭だったその姿も、日の光の差す今ならよく見える。


 彼の絹のように艶やかな長い銀髪は後ろでゆるりと結ばれている。

 左右に分かれているこれまた長い前髪は、その涼しげな目元を神秘的に見せていた。

 長い銀の睫毛に縁取られた瞳は、赤とも朱とも紫ともつかない色だ。それはどこかで見たことがあるような、不思議な色合いだった。

 

 髪も瞳も、今まで小夜が見てきたような人間の色とはかけ離れている。その人智を超えた美しさは、“神“という名乗りに説得力を与えていた。

 

 うーんと小さく唸った小夜は、この男の言っていることを一旦信じてみることにしたのだった。


「ねぇ、神さま。神さまって何の神なの?」

「色々あるが……そうだね。私の司る中で最も美しいのは、朝焼け」


 瞳の色の既視感の正体が分かった。この瞳はまさに、朝焼けの色だったのだ。

 

 思わず見つめると、吸い込まれそうな感覚がしてくる。頭を振ってその感覚を振り払うと、小夜の中に好奇心、そして少しの不安が湧き上がって来た。


「ここは、どこ?」

「私のやしろだよ。君のいた現世うつしよとは、少し違う場所にあるけれど」


 社というのは神社のことだろうか。しかし「現世とは違う」というのは、どういう意味だろう。

 浮かんだ小夜の疑問は先回りされることとなる。


「分かりやすく言えば、神の空間ってこと」

「え……も、もしかして、私の頭の中、覗けるの?」


 目の前の男は、祠を壊した時に聞いたのと同じ、くつくつとした笑い声を上げる。


「いや? 君の表情が分かりやすすぎるだけだよ。思考も覗こうと思えば出来るけど……私は好まないから、しない」


 そんなに分かりやすい表情だったかと、頬を触ってみる。あの屋敷では人と話すといっても、説教を堪えるか雑用を押し付けられるか嘲られるかだったから、表情を動かす機会は無かった。


 そのせいか今、心なしか表情筋が痛む気がする。小夜が頬を揉んでいると、彼は口を開いた。


「色々と質問したいのは分かるが、今度は私の番でいいかな。君の名前は?」

「小夜」

「小夜か。可愛らしい名だ」


 可愛らしいだなんて、思ったこともなければ言われたこともない。何だか居心地が悪くて身体を捩らせる小夜とは対照的に、彼は機嫌が良さそうにくすくすと笑う。


(この人……じゃなかった、この神。なんで笑ってるんだろう)

 

 土地神というのが本当なら、小夜はその祠を壊した不届者、その張本人のはずだ。

 それなのに布団に寝かせて、何でもないように話しかけているこの男の感覚が、小夜には全くわからなかった。


「私、祠壊しちゃったんだよ。神さまは何で怒ってないの?」

「えー? 良いよ、そのくらい」


 それは寛大というよりかは、どうでもいいというような口調だった。

 そしてもう一つ疑問が湧き出る。小夜は先ほど名乗ったが、この神にも名前はあるのだろうか。

 

「神さまって、お名前あるの?」

「名前? 名前か。はて、何だったかな……」


 男は手を顎に当ててみる。土地神として人間が勝手に名前をつけていたような気もするが、思い出せない。

 そもそも神同士であれば神力の気配でそれぞれを把握できるため、己の名前に頓着などは無いのだ。


「えぇ……」


 首を捻り続けている彼に向かって、小夜は(そんなことある?)と言いたげな視線を向ける。

 最初は驚いている様子だったとは言え、神に向かってこの眼差し。肝の座った娘だと男は思った。


「忘れた。そもそも名前などどうでも良いし、好きに呼んでいいよ」

「好きに?」


 好きに呼べとは、意外と親しみやすい神様なのかもしれない。小夜はそう思った。偉ぶるわけでもなければ、脅かしてくるわけでもない。ただにこやかに話しかけてくるだけだ。


(神さまって呼び続けても良いけど、神という言葉を連呼するのも疲れるような)


 小夜は先ほどの彼を真似するかのように、手を顎に当てて考える。ばさばさと音が聞こえそうなほど豊かな銀の睫毛に囲まれた、彼の瞳をじいっと見つめた。


「──あかつき

「ん?」

「朝焼けの神なんでしょう? 朝焼けのことを、暁って言うらしいの」


 いつだったか、まだ老婦と暮らしていた頃、早く目が覚めてしまった日があった。

「老人は朝が早くてね」なんて言う老婦と一緒に朝焼けを見て、その時に教えてもらったのだ。

 

 あれを、暁と呼ぶのだと。


「暁……人間の言葉か。うん、別に構わないよ」


 男──暁は妖しく微笑むと、布団の中で座る小夜に近づき、その顎を掴む。

 

 彼の朝焼けの色で瞳を覗かれると、何だか身の奥まで見透かされるような心地がした。村長や領主の値踏みするような不快な視線とはまた異なる視線。柔和なはずの暁の笑みに、ぞくりと背筋が震える。

 

 小夜の顎を離したかと思えば、彼はおもむろに右手で今度は、小夜の左腕を取った。手首の内側が、暁の長い親指でゆっくりと撫でられる。

 

 一体何がしたいのだろう。

 困惑した小夜がただ自らの手に注視していると、突然暁は、撫でていた小夜の手首に──噛みついたのだった。

 

「いたっ……!」


 鋭い歯が皮膚を突き破り、血が流れる。振り払おうにも腕を掴んだままの彼の力は強く、びくともしない。


 暁は流れ続ける鮮血に口を付けた。痛みの中、ざらりとした舌の感触が肌を撫でる。


「痛い! 嫌、やめて……!」


 突然の暁の行動に、小夜の頭は恐怖と痛みで支配される。

 力を入れても離してもらえなかったが、荒げた声で抗議すると彼はようやく動きを止めた。


「痛いか……いや、そうだね、すまなかった」


 先ほど一瞬でも(親しみやすい神様なのかも)なんて思った自分を殴りたい。

 

 急に噛んできたくせに、申し訳なさそうな顔をする目の前の男が小夜は理解できなかった。

 魚のように口をはくはくとさせていると、暁はさらに信じられない行動に出る。

 

──ちゅ。

 なんと彼は、自分でつけた小夜の傷口に軽く唇を当てたのだ。呆気に取られた小夜がやっと放された腕を見ると、なんということか。噛み傷が無くなっていた。


「な、な……! どういうこと、なんで、消えっ」

「治したんだよ」


 それが神の力だ。

 そう言わんばかりに彼は肩をすくめる。傷ひとつない手首を見て、噛まれたことすら幻だったのかと一瞬思った。しかし布団には先程垂れた赤い血が残っている。やはり幻ではない。


「何で! 噛んだの……?」


 極度の緊張から急に解放されたが故に、小夜の瞳からは生理的な涙がつうと零れ落ちる。それを慰めるように、暁は自らの袖で拭った。


「いや……美味しいのかな、と」

「は、はぁ!?」


 反省しているんだかしていないんだか、よく分からない表情だった。恐ろしい一つの考えが小夜の頭に浮かぶ。


(──まさか)


「私を食べるために、連れて来たの……?」


 しかし怯える小夜に暁はぱちくりと目を瞬かせ、首を横に振った。


「いや、そんなことはないよ。単純に美味しいのか気になっただけ。もう噛まないから」

「はぁ……?」


 訳がわからないままだが、どうやら食べるためではなかったらしい。だけど、それなら。


(この神は……暁は、一体何の目的で私を連れて来たの?)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る