第一幕 拾われた少女
少女、神を名づける
目を覚ますと、小夜は布団の中にいた。
まどろみに溺れそうになった瞬間、一気にこれまでの行動が濁流のように脳内に流れ込む。ばっと布団から起き上がった。
──布団?
(まさか、連れ戻された!?)
最悪の想像が過り、周りを見渡す。しかしそこは見知らぬ和室だ。思わず安堵のため息を漏らす。
小夜が再び顔を上げると、すぐ隣に座りこちらを覗き込んでくる男と目が合った。
あの時、祠にいた男だ。
「っ!? なっ……だ、誰!」
「私? 神だよ」
「はぁっ!?」
勢いよく声を出して喉を痛めた小夜は、けほけほと酷く咳き込んだ。
あの屋敷ではまともに人と会話をすることもなかったのだ。大きな声を出すことになれていないせいもあった。
「大丈夫? はい、どうぞ」
驚いたような声と共に、どこから取り出したのか、適度に暖かい
「それで、神って」
小夜を興味深そうに見ながら、彼は口を開いた。
「君たちの言う、土地神さまってやつかな」
飄々と男は言い放った。
よく見ると彼は大変な美丈夫だ。今までの生活から美醜に疎かった小夜ですら、本能的にその美しさが肌で分かった。暗闇では不明瞭だったその姿も、日の光の差す今ならよく見える。
彼の絹のように艶やかな長い銀髪は後ろでゆるりと結ばれている。
左右に分かれているこれまた長い前髪は、その涼しげな目元を神秘的に見せていた。
長い銀の睫毛に縁取られた瞳は、赤とも朱とも紫ともつかない色だ。それはどこかで見たことがあるような、不思議な色合いだった。
髪も瞳も、今まで小夜が見てきたような人間の色とはかけ離れている。その人智を超えた美しさは、“神“という名乗りに説得力を与えていた。
うーんと小さく唸った小夜は、この男の言っていることを一旦信じてみることにしたのだった。
「ねぇ、神さま。神さまって何の神なの?」
「色々あるが……そうだね。私の司る中で最も美しいのは、朝焼け」
瞳の色の既視感の正体が分かった。この瞳はまさに、朝焼けの色だったのだ。
思わず見つめると、吸い込まれそうな感覚がしてくる。頭を振ってその感覚を振り払うと、小夜の中に好奇心、そして少しの不安が湧き上がって来た。
「ここは、どこ?」
「私の
社というのは神社のことだろうか。しかし「現世とは違う」というのは、どういう意味だろう。
浮かんだ小夜の疑問は先回りされることとなる。
「分かりやすく言えば、神の空間ってこと」
「え……も、もしかして、私の頭の中、覗けるの?」
目の前の男は、祠を壊した時に聞いたのと同じ、くつくつとした笑い声を上げる。
「いや? 君の表情が分かりやすすぎるだけだよ。思考も覗こうと思えば出来るけど……私は好まないから、しない」
そんなに分かりやすい表情だったかと、頬を触ってみる。あの屋敷では人と話すといっても、説教を堪えるか雑用を押し付けられるか嘲られるかだったから、表情を動かす機会は無かった。
そのせいか今、心なしか表情筋が痛む気がする。小夜が頬を揉んでいると、彼は口を開いた。
「色々と質問したいのは分かるが、今度は私の番でいいかな。君の名前は?」
「小夜」
「小夜か。可愛らしい名だ」
可愛らしいだなんて、思ったこともなければ言われたこともない。何だか居心地が悪くて身体を捩らせる小夜とは対照的に、彼は機嫌が良さそうにくすくすと笑う。
(この人……じゃなかった、この神。なんで笑ってるんだろう)
土地神というのが本当なら、小夜はその祠を壊した不届者、その張本人のはずだ。
それなのに布団に寝かせて、何でもないように話しかけているこの男の感覚が、小夜には全くわからなかった。
「私、祠壊しちゃったんだよ。神さまは何で怒ってないの?」
「えー? 良いよ、そのくらい」
それは寛大というよりかは、どうでもいいというような口調だった。
そしてもう一つ疑問が湧き出る。小夜は先ほど名乗ったが、この神にも名前はあるのだろうか。
「神さまって、お名前あるの?」
「名前? 名前か。はて、何だったかな……」
男は手を顎に当ててみる。土地神として人間が勝手に名前をつけていたような気もするが、思い出せない。
そもそも神同士であれば神力の気配でそれぞれを把握できるため、己の名前に頓着などは無いのだ。
「えぇ……」
首を捻り続けている彼に向かって、小夜は(そんなことある?)と言いたげな視線を向ける。
最初は驚いている様子だったとは言え、神に向かってこの眼差し。肝の座った娘だと男は思った。
「忘れた。そもそも名前などどうでも良いし、好きに呼んでいいよ」
「好きに?」
好きに呼べとは、意外と親しみやすい神様なのかもしれない。小夜はそう思った。偉ぶるわけでもなければ、脅かしてくるわけでもない。ただにこやかに話しかけてくるだけだ。
(神さまって呼び続けても良いけど、神という言葉を連呼するのも疲れるような)
小夜は先ほどの彼を真似するかのように、手を顎に当てて考える。ばさばさと音が聞こえそうなほど豊かな銀の睫毛に囲まれた、彼の瞳をじいっと見つめた。
「──
「ん?」
「朝焼けの神なんでしょう? 朝焼けのことを、暁って言うらしいの」
いつだったか、まだ老婦と暮らしていた頃、早く目が覚めてしまった日があった。
「老人は朝が早くてね」なんて言う老婦と一緒に朝焼けを見て、その時に教えてもらったのだ。
あれを、暁と呼ぶのだと。
「暁……人間の言葉か。うん、別に構わないよ」
男──暁は妖しく微笑むと、布団の中で座る小夜に近づき、その顎を掴む。
彼の朝焼けの色で瞳を覗かれると、何だか身の奥まで見透かされるような心地がした。村長や領主の値踏みするような不快な視線とはまた異なる視線。柔和なはずの暁の笑みに、ぞくりと背筋が震える。
小夜の顎を離したかと思えば、彼はおもむろに右手で今度は、小夜の左腕を取った。手首の内側が、暁の長い親指でゆっくりと撫でられる。
一体何がしたいのだろう。
困惑した小夜がただ自らの手に注視していると、突然暁は、撫でていた小夜の手首に──噛みついたのだった。
「いたっ……!」
鋭い歯が皮膚を突き破り、血が流れる。振り払おうにも腕を掴んだままの彼の力は強く、びくともしない。
暁は流れ続ける鮮血に口を付けた。痛みの中、ざらりとした舌の感触が肌を撫でる。
「痛い! 嫌、やめて……!」
突然の暁の行動に、小夜の頭は恐怖と痛みで支配される。
力を入れても離してもらえなかったが、荒げた声で抗議すると彼はようやく動きを止めた。
「痛いか……いや、そうだね、すまなかった」
先ほど一瞬でも(親しみやすい神様なのかも)なんて思った自分を殴りたい。
急に噛んできたくせに、申し訳なさそうな顔をする目の前の男が小夜は理解できなかった。
魚のように口をはくはくとさせていると、暁はさらに信じられない行動に出る。
──ちゅ。
なんと彼は、自分でつけた小夜の傷口に軽く唇を当てたのだ。呆気に取られた小夜がやっと放された腕を見ると、なんということか。噛み傷が無くなっていた。
「な、な……! どういうこと、なんで、消えっ」
「治したんだよ」
それが神の力だ。
そう言わんばかりに彼は肩をすくめる。傷ひとつない手首を見て、噛まれたことすら幻だったのかと一瞬思った。しかし布団には先程垂れた赤い血が残っている。やはり幻ではない。
「何で! 噛んだの……?」
極度の緊張から急に解放されたが故に、小夜の瞳からは生理的な涙がつうと零れ落ちる。それを慰めるように、暁は自らの袖で拭った。
「いや……美味しいのかな、と」
「は、はぁ!?」
反省しているんだかしていないんだか、よく分からない表情だった。恐ろしい一つの考えが小夜の頭に浮かぶ。
(──まさか)
「私を食べるために、連れて来たの……?」
しかし怯える小夜に暁はぱちくりと目を瞬かせ、首を横に振った。
「いや、そんなことはないよ。単純に美味しいのか気になっただけ。もう噛まないから」
「はぁ……?」
訳がわからないままだが、どうやら食べるためではなかったらしい。だけど、それなら。
(この神は……暁は、一体何の目的で私を連れて来たの?)
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