第4話 小百合と呼んでも良いですか?
「ところで、貴女、名前は何ですか?」
名前。
ただの樹に過ぎないわたくしは、今まで特に気にしたこともなかったので、名前はないとお答えしますと、清三郎様はちょっと小首を傾げ、まるで美しい蝶が羽ばたいたかのような動きで、瞬きを二・三回されました。
「それでは〝小百合〟と呼んでも良いですか?」
小百合。
それを聞いたわたくしは、どうお答えして良いのか分からず、一瞬言葉を失いました。それを見た清三郎様は、口元に優しげな弧を描きつつ、下駄を響かせながら、わたくしの元へと歩み寄って来られました。そして、わたくしの枝先に咲いている小さな白い花に、そうっと触れながらこう仰られたのを、良く覚えております。
「貴女とはなしていると、心の中で美しい百合の花々が咲き乱れる心地がするのです。だから〝小百合〟はどうかと思いましてね。ああ、でも貴女がお気に召さないのでしたら、止めておきます。僕の苗字の漢字違いというのもおかしいか……」
そこでわたくしは、消え入るような声ですけど、即座にお答えしました。
──嬉しゅうございます──
と。
だって、嬉しいではありませんか。今まで誰一人、わたくしのことを気に留めて、はなしかけてくださる方など、いらっしゃいませんでしたから。春が来れば鴇色の花を咲かせ、夏が来れば青葉を広げ、秋が来れば葉を紅く染め、冬になれば白雪の寒さに耐え──それをただ延々と続けているだけの日々。それを何年も何年も単調に繰り返すだけの日々。そんなわたくしに「名」をつけて下すったのですよ。しかも、お苗字の「由利」と読みが一部一緒だなんて! 一瞬、この身体に稲妻が落ちてきたのかと思いましたわ。
わたくしの言葉が届いたためか、彼の青く澄んだ眼は、かすかに笑っていました。そして、わたくしの幹に、そっと手を触れて下さった時のその温もりといったら! 嬉しい気持ちと、少し恥ずかしい気持ちがない混ぜになって、彼の周囲に、白雪のように花びらが、大量に舞ったのでございます。その美しさと言ったら、言葉で一体どう表現すれば良いのでしょう?
あの頃の清三郎様はきっと、さぞお寂しかったのだと思います。ご実家に戻られても、家族に病を感染すわけには参りませんから、離れのお部屋で一人寝たり起きたり、気の慰みに書物を読まれたり。お医者様に止められていたこともあったのでしょうけど、ご自身で意識してなさっていたようですが、そればかりの毎日では、気が滅入ってしまうでしょう。人間の病とは無関係のわたくしでよければ、はなし相手位、お安い御用です。心配無用ですからねぇ。互いに寂しい者同士、釣り合っていて、ようございます。こんなわたくしでもお役に立てて、嬉しゅうございます。ええ、本当に。
──小百合……──
──清三郎様……──
それから、わたくしと彼のやり取りが幾度か続き、一見穏やかに見えた幸せな日々は、緩やかに過ぎ去っていきました。
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