第3話 貴女、何か云いましたか?

 ある春の日のことです。枝の花達が八分咲きになるには、あともう少しの頃。いつものように、わたくしが朝日に向かって、身体中の枝をうんと伸ばしておりますと、突然男性の声が聞こえてきました。


「貴女とは、どこかで会ったことがありますか?」


 それは、雪で凍える中、太陽の光が差し込まれたような心地のする、大層優しいお声でした。どなただろうと思っていると、深い藍色の双眸が、わたくしへと向けられているではありませんか!


 ──え!? わたくし……!?──


 清三郎様が、間違いなく、わたくしに語りかけてこられたのです。ただの一本の樹に過ぎないわたくしにですよ? 先ほどまで枝の上で羽を休めていた雀達は、既に飛び去った後でしたし、他に誰もおりませんでした。一瞬、彼のただのひとり言かとも思いましたが、その視線は真っ直ぐわたくしへと向けられていたので、正直驚きました。最初はどんな酔狂かと! 危ない、危ない。うっかり、枝の先に咲いている花を、一気に何房も散らせるところでした。


「そのまま聴いていて下さい。貴女を眺めていると、思い出すのです。昔一緒に遊んでいた子がいまして。彼女はとうの昔に、原因不明の流行り病で、露と消えてしまったのですけどね。ひょっとして、彼女の生まれ変わりかなぁと、ふと思ってしまって……」


 濃紺の着流しに身を包み、縁側に腰掛けつつ、少し、伏し目がちになった彼は、どこか寂しそうな色をまとっていらっしゃいました。出任せではなく、本当に、過ぎ去っていった時を思い出されていたのでしょう。不思議なことを仰られる方だと思いましたが、逃げる理由も、動くのに必要な足も持たないわたくしは、そのままおはなしを聴いて差し上げることにしました。


「似ているのですよ。その凛とした雰囲気というか、元気で丈夫そうなところというか……ああ、言葉で表現するのって難しいですね」


 ──初めてですわ。そんなことを云われたのは……──


 そう、わたくしが心に思ったところ、清三郎様は目を大きく見開いて、こちらを見つめ返されました。一体どうなすったと云うのでしょう? 


「……え? 貴女、ひょっとして、今何か云いましたか?」


 ──え? ──


「〝そんなことを云われたのは初めて〟だと」


 ──わたくしの声が、お分かりになるのですか!? ──


 今まで生きてきて初めてのことに、嬉しいやら恥ずかしいやら、わたくしは思わず天にものぼる心地が致しました。独り言を聞かれた気恥ずかしさと云うより、わたくしの声が聴こえた・・・・という驚きの方が大きくて、どう申し上げたら良いのでしょうか? この気持ちを表す言葉が上手く見つからなくて、妙に苛立ったのを未だに覚えております。そんなわたくしを見た部屋の主様は、眉尻を下げ、視線をわたくしの根本へと下げてしまわれました。


「急に変なことを云ってすみません。ここのところ体調のすぐれない日が多いものですから。心の弱さからくる、ただの世迷い言と思って聴き流して下さい」


 この時、わたくしは彼の眸の奥に渦巻いている、薄黒い影のようなものを見た気がしました。底のない、沼のように広く深い闇。そのままにしておくと、ただでさえ線の細い彼が、その闇の中へと引きずられてしまいそうな予感を感じ、何とかこちらへ引き戻せないかと思ったのでございます。


 ──いいえ、いいえ、大丈夫ですわ。人から話しかけられたのが初めてだったので、驚いただけですから──


 恐る恐るそう申し上げてみると、藍色の眸の色が少し和らぎました。本当に、わたくしの声が彼に届いているようです。その時ひどく安堵したと同時に、何故か、太陽の光に優しく包みこまれたような、そんな温もりを感じました。

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