第2話 由利家のご長男

 かつて、この国が大日本帝國と呼ばれていた時代──わたくしの傍にある建物が、もう少し大きかった頃のことです。そのお屋敷に、そのお方は住まわれておりました。彼の名前は由利清三郎ゆりせいさぶろう様。わたくしは、そのお姿を今でもよおく覚えております。


 艶やかな黒の御髪。色白で陶器のようなすべらかな肌に、一重の切れ長の眼。その眸は、深い藍色にほんのりと翠を滲ませたような、電気石のような色。笑顔がとても爽やかで、だけどどこか影を帯びたところのある、不思議な魅力をお持ちの方でした。あの眼差しでじぃっと見つめられると、それはもう、年頃の娘達は揃って頬を薔薇のように、ほうと赤く染めていたと、雀達がさえずっていた位。


 清三郎様は由利家のご長男でいらっしゃいましたから、出先からお屋敷に戻られたと知るやいなや、是非我が家の娘を娶せたいと、しかるべき家柄の娘を持つ親はこぞって、縁談催促の手紙をこのお屋敷に送ってきたものです。それはまるで山のように……嘘じゃあありませんよ。聴いたまま、見たままを申し上げております。

 

 ***


 由利家がこのお屋敷に引っ越して来られたのは、一年ほど前でした。最初はご主人様と奥様、そして高等小学校二年生の、元気そうなご子息、住み込みで働く女中さんが家中をあちこち動いていました。そんなものですから、わたくしは最初、由利家はてっきり三人家族とばかり思って、眺めておりました。後から聞けば、もう一人ご令息がいらっしゃって、勉学のために東京に下宿しているとのことで……そのお方こそが清三郎様、その人でございます。


 その方が急にご実家に戻ってこられると、女中さんがどなたかにはなしているのを、わたくしは聞いておりました。まだ見ぬご令息は一体どんなお人だろうと考え、ふと枝先に目をやってみますと、蕾が一つぷっくりと膨らんで、ほんのりと薄い茜色に輝いているのが見えましたの。あらあらまあまあ、わたくしったら……時期的にはまだ少し早いのに、もう花を咲かせる準備をしてしまったようです。


 清三郎様のお部屋は、最初は母屋の方にあったそうです。しかし、数日経ってからこのお屋敷の離れ、つまり、わたくしがいる場所の近くへ移動となりました。それまでお屋敷内に聞こえていた、賑やかな声が失われてしまい、まるで、火の消えたような静けさです。事情を知らなかったわたくしは、嫡男ともあろう方が、何故母屋から離れている場所に、急に部屋をあてがわれたのだろうと、不思議でなりませんでした。


 由利家のご長男様は、生来お身体があまり丈夫ではなく、住み込みの女中さん曰く、小さい頃から熱をお出しになっては、伏せっておられることが度々あったとのこと──わたくしがそのことを知ったのは、清三郎様にお会いしてから暫く経った後でした。

 

 数日前に突然肺を病まれてからは尚更。

 弟を可愛がり、女中さんに対しても穏やかでお怒りになることもなく、お人柄も大層素晴らしいお方だと云うのに。


 天は二物を与えずと、良く云ったものです。

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