第5話 生き続けていて欲しい
楽しい日々は長く続かないと、世間では良く云ったものです。季節はあっという間に過ぎ去っていき、わたくしの枝の葉がほとんど落ちてしまった頃、傍の部屋の戸からお姿の見えない日々が、妙に増えたように感じました。枕元には、家族四人で撮られた白黒のお写真が、小さな写真立ての中で飾られておりました。彼はいつも眺めていらっしゃるのでしょうね、きっと。
ここ最近の清三郎様を見ていると、以前より更にお痩せになられたように感じました。わたくしの見間違いでしょうか? 布団から出てこられない日々が増えたような気もします。そう云えば、お食事も箸でわずかにつつかれただけで、ほとんど手付かずのままで、膳を返されるような有様です。前はもっと召し上がられていた筈だったのに。
ただでさえ細面だったお顔が、更に細くなられ、頬が尖ったように見え、肩の肉が薄くなったように感じられました。更に輪をかけて細くなった手首に、筋が目立つようになった青白い手の甲。唯一変わらないのは、その藍色の双眸だけでした。
そんなあくる日のことです。その日は少し体調が良かったのでしょうか、障子を開け、窓際に寄せるように敷いてある布団から、ゆっくりと身を起こした部屋の主様は、大きなため息と共に言葉を零されました。
「小百合。こんな状況なのに、お国のために働くことさえ出来ない僕は、とんだ穀潰しですよ」
──そんなことございませんわ──
わたくしは彼にそうお伝えしたかったのですが、気休めにさえならないと思い、心の中へと押し込みました。病状は一進一退を繰り返しており、回復の兆しは絶望的だと、わたくしでも明らかに分かる位でしたから。
「まぁ、おかげで将来兵にとられずに済むと思えば、良いのですけどね。貴女に会えなくなる方が、僕にとっては辛いですから」
当時、この国は戦争への道を歩み続けており、少しずつ空気が灰色に変わっているところでございました。兵役が義務付けられており、試験に合格した二十歳以上の男子は、三年間軍にとられるのが当たり前の世の中だったのです。清三郎様はほぼ毎日布団の下で、身動きすらあまり出来ず、ほとんど平らになっているため、さぞ後ろめたい気持ちでいっぱいだったのでしょう。
柱時計の振り子が静かに揺れ続ける中、どこからか現れた黒猫が、縁側からよじ登ってきて、くわわっとあくびをし、なーごぉと鳴き声をあげました。しっぽをふりふりさせつつ、廊下でお座りしたそれを、彼は節だらけになった手でゆっくりと愛おしげになでながら、そっと目を伏せ、大きなため息を苦しそうに吐き出されました。
「僕は一体何のために、この世に生まれてきたのでしょうね? 職もなせず家もなせず、お国のために生命をかけることさえ出来ない状態です。何も成し得ずに、このまま終わっていく自分の生命を、大変情けないと思っているのですよ」
清三郎様は、たったこれだけをはなすだけで、ごほごほと咳き込み、せいぜいと荒い呼吸をなさっておいででした。しかし、わたくしは、それをただ見ていることしか出来ません。小さくなったその背をなでて、少しでも苦痛を和らげて差し上げることさえ出来ません。自分からは触れることさえ出来ないやるせなさで、幹の中に流れてくる水が沸騰しそうな位に、上へ上へと、熱く込み上げてくるような感じが致しました。
そんなわたくしを、気にかけて下さったに違いありません。清三郎様は、すっかり落ち窪んでしまった双眸をわたくしに向けて、一言こう仰られました。
「貴女はひょっとして……泣いているのですか?」
零す涙は出てきませんが、これが泣かずにいられるでしょうか? こんなにお若く、お優しい方が、何故死なねばならないのでしょうか? まだ二十と、少ししか生きておられないというのに。
世が世なら、街中にあると聞くカフェーに行ったり、そこでご友人達と語り合ったり、大切な方と一緒の時間を過ごされたり、もっともっと楽しいことがある筈です。生きてさえいれば……。しかし、彼に時間がもうあまり残されていないのが、傍目で見ても明らか過ぎるだけに、もどかしくてなりませんでした。
誰か、誰か誰か誰か、誰か……。
お救い下さいまし、このお方を。わたくしは何一つ出来ません。土の上に根を張っているだけ。誰かのために枝一つ動かせないだなんて、ああ何て非力なのでしょう。手がないから、お身体を支えて差し上げることさえ出来ないのですから! わたくし自らが触れることも出来ず、あの時のように、触れて頂けることも叶いません。
「小百合。僕は、貴女に会えて良かったと思っていますよ。ありがとう。貴女に会えたから、この生は無駄じゃなかったと、思えるのですから」
──清三郎様、そのようなお言葉はまだ早過ぎます。このお家のためにも、まだまだ頑張られなくては──
「貴女には、申し訳ないことをしました。慰み者にしたと思われても、おかしくないでしょうね……」
──いいえ、いいえ、そんなことはございません。小百合は、小百合は清三郎様を……──
この時、〝お慕い申し上げております〟という言葉が、何故かすんなりと出てきてくれませんでした。静かに耳を傾けて下さっていた彼は、再び激しく咳き込み始め、そのまま床にぐったりと倒れ込んでしまわれました。
***
やがて、清三郎様は起き上がることもままならなくなり、障子越しのやり取りとなりました。それは小さく枯れたお声でしたが、空気の入れ替えのために、障子は少し空いていたので、かろうじて聴き取れる状態でした。どんなにそのお顔を見たくても、最早見ることさえ叶いません。
「小百合」
──はい──
「貴女にお願いしたいことがあります。僕のわがままと思って、聞いてくれますか?」
──何でしょう?──
「貴女は生き続けて下さい」
──え……?──
「生命力に溢れ生き生きとした、力強い美しさを持つ貴女には、生き続けていて欲しいのです。僕の生命を抱いて、生きて欲しい。貴女がいれば、僕が生きていた証になるし、いつか戻ってきた時に、また生き直せる。僕はそう信じていますから」
だから……と、彼はこう言葉を繋げました。
「いつか、あなたにまた会いに来ても良いですか?」
──はい。会いに来て下さるのを、心よりお待ちしております──
なす術もないわたくしには、そう返すしか、言葉が見つかりませんでした。深い寂莫を刻み込まれたわたくしの心は、それ以上の言葉を生み出すことが出来なかったからです。
そして、枝から最後の一葉が、ひらりと落ちていき……
程なくして、その優しいお声は、二度と聴こえなくなりました。
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