痛みと愛だけ....
廊下へ出るとさっきまでいたはずの扉を叩いていた男がいなくなっていた。
私は布に詰められた赤ちゃんを抱え持ちながらさっきより薄暗くなった廊下を歩み始めた。
少し進んで左にコの字の下り階段があった。赤ちゃんを落とさないように、私が足を滑らせないように慎重に下りた。
下りた先は台所だった。台所内もかなり荒れていて腐敗している。物は散乱しなによりガラスの破片が床一面に広がっていた。そして天井から沢山ガラスコップが紐で吊られていた。
前後に広い台所で床一面にガラスの破片。私は裸足で足を防げるような物は周りに無い。他の部屋に何かあるかもしれないと思い後ろを向いた。
階段の向こうが真っ暗になっていた。背筋にびりびりと鳥肌が立った。怖いけど、ゆっくり階段に足をかけると。
「おいで、ほら、こっちだよ」
ありえないくらい低く唸るように男の響く声がくらやみから聞こえた。
あまりの恐怖に身体が動かなくなってしまった。だけどぶるぶると脚が震えている。
何かがいて、何かが見ている。
すると、暗闇からうっすら毛が生えて灰色の巨人のような大きなぶよぶよした手が私を掴もうと近寄って来た。
私は後退りガラスの破片の手前まで来た。次の瞬間には大きな手はいなくなっていた。でも静かな階段の先の暗闇からは何かが私を見ている気がした。決して見えはないなにかが。
「行くしかないよね….」
「あうあうー」
赤ちゃんが優しく返事するかのように反応してくれた。
バリバリ、ジャリ!
「うっ!いたっ!」
足の裏にびりっとぞわぞわと痛みが這い上がってくる。布を落とさないようにきゅっと握りしめ、もう片手で下から支え持った。
「大丈夫だよ!ダド!わたしが、わたしが一緒に….」
バリッ!グジャッ!
「ダド….」
ジャリジャリ
「うぅ、ひっく!ダドォ…..」
袋を抱きしめてゆっくり、ゆっくりガラスの破片の海を渡る。足の裏から血が吹き出してもう痛み以外の感覚なんてなくなっていた。触れる、離れるだとかもう分からない。
いたい いたい
つらいよ こわいよ かわらない どうなっちゃうの
刺さり破いて切り開いて痛くて痛くてどうしようもない。思考がまとまらなくなる。他の事が考えられなくなる。ただ残るのは
痛みと愛だけ。
台所の反対側にたどり着いて扉を開けると、薄暗い廊下が真っ直ぐ続いていた。長い廊下の天井には点々といくつもの赤い電気がついていた。それを見た瞬間、私の心臓はより高鳴り体中に緊張が走った。
だけど歩き続ける。この赤ちゃんのために、ダドのために……。
突然勢いよく扉が閉まる。
全身でびくんと震わせて振り返るけど、誰もいなかった。でも誰かがそこにいる気がした。嫌悪、殺意、復讐。何か敵対する感情で扉が私の目には渦巻いて見えた。ぐゔゔゔゔゔゔと渦巻くように感じた。
布に詰められた赤ちゃんを抱いたまま、赤薄暗い廊下を歩く。後ろから誰かがついてきている気がするけど誰もいない。私は歩く。まだ歩いている。ぴち、ぴちと血の赤い足跡を残しながら歩く。
すると左右に扉がついていた。先へ進みまた左右に扉があった。どうやらいくつもの扉が左右にずっとついている。同じ廊下に同じ扉に同じ間隔に同じ痛み。同じ風景をずっと歩き続けている。
突然布に詰められた赤ちゃんが泣き出す。
泣き出したことに驚き、どうしようかと焦る。そして後ろからつけてきている奴に位置が確実に分かる。泣き止ませないとどこに逃げ隠れしても見つかってしまう。
敵の位置も知れないのに、自分の位置は敵に確実に知られている恐怖。圧倒的不利の恐怖。
考える余裕もなく走り出した。さっきよりも足への負担が大きくすごく痛い。痛みと恐怖に涙しながらも左の扉を開けて中へを入る。
勢いよく扉を閉めた。痛いけどすごく痛いけど、安堵感から足の力が抜けて扉に背中をつけて座り込む。赤ちゃんはひっぐ、えっぐと静かに泣いていた。ゆっくり優しく赤ちゃんを布から出してあげた。
!
うきゃーうー!
赤ちゃんが嬉しく笑い出した。
「小さくなってる?」
さっき見た時よりも明らかに赤ちゃんが小さくなっていた。指の形が成っていた手が今では丸に近い歪な形になっている。
笑っていたはずの赤ちゃんが気付けば動かなくなっていた。
「そんな!死んじゃだめだよ!いなくならないで!」
わずかに鼓動を感じ取れた。手のひらに収まる小さな赤ちゃんからトクントクンという背中を軽く叩いてもらってるかのような安心する音を聞いた。
部屋はベッドが一つ置けるくらいの小さな部屋で、正面に鏡と洗面台があった。
鏡には小さな汚れた布袋を握りしめる私が立っていた。洗面台の蛇口を捻り、水を出した。その水はダドが浸かっていた風呂の水と同じく薄黒く汚れていた。
水が貯まり、そこに赤ちゃんを浸からせた。赤ちゃんは、うー?と不思議そうな声をあげていた。水遊びを一緒にして、赤ちゃんも楽しそうにしていて私も楽しくなった。
ダン、ダン、ダン、ダン。
廊下から足音が聞こえた。はっと気づいて赤ちゃんを水から抱き上げると、赤ちゃんが泣き出してしまった。
おぎゃああああ!うぎゃああああ!
「大丈夫!大丈夫だよ!」
泣き止ませないと、廊下にいる誰かに見つかる。見つかってしまう。見つかる。
赤ちゃんがいきなり首を噛んできた。歯がないので摘まれるような痛みがあった。
それに驚いて赤ちゃんを洗面台に落としてしまった。
ぽちゃん
慌てて手を水の中に入れるけど赤ちゃんが見当たらない。赤ちゃんがいなくなった。
いない。どこにもいない。
突然扉が開いた。
いきなり入ってきたそれは私をすぐに捕まえた。それは、高身長のあり得なく細い腕、脚、胴体にスーツを纏った頭が縦に長く鼻や耳や口がなくて、その代わりに目だけが頭の至る所にある。見えないけど後ろにもありそうなくらいたくさん頭のあちこちに目があった。頭頂部からは薄ら数本髪が生えていた。
それが私を床に押さえつけると私の脚を捕み、股を開かせてそれの後ろからなぜかいなくなっていたはずの赤ちゃんを持っていた。
そして、赤ちゃんを……。
言いたくないよ。聞いてほしくないの。
……聞いても、愛してくれる?
赤ちゃんを私の股に押し付けた。力強く押し付けている。
おぎゃあああああああああ!
「いやだ!いたい!いたい!いたい!いやだあ!」
赤ちゃんの苦しそうな泣き声、私の痛いと訴える悲鳴が廊下まで響いていた。
無理矢理私の股に押し込んで、ついに赤ちゃんが中に入ってきた。
いたい、けどいたい。それにいたい。
それは赤ちゃんを押し込み続けて自分の手も入れてきた。股が痛い、お腹も痛い、全部痛くて怖くてどうしようもない。
いきなり、それは手を抜いたが赤ちゃんはその手にはもう握られていなかった。
私は痛みで涙が目いっぱいになりだんだん気が遠のいていった。
そしてそれが私を跨いで鏡に入り込んで消えてしまったのが見えた。私は泣きながらも痛みながらもゆっくりと立ち上がる。手を壁につけて体を支えながらもゆっくりと部屋の外へ出た。
そしてまた廊下を歩き続けた。その時、遠くから赤ちゃんの泣き声がかすかに聞こえた。
私の髪は私から生えていなかった @11277loxy
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