しつと 

@knmatt

 如月さんはとてもかわいい女の子だ。少し癖があって、それでいてかわいらしい声。つやつやしていて、きれいに巻かれた黒髪には、蛍光灯の光を受けた銀色の天使の輪がくるりとのっている。にこりと笑うと浮かぶ涙袋は雪見大福を思わせる。丁寧にマスカラを引いたのであろう、規則正しく束感を持たせた長いまつ毛に、柔らかいピンク色のアイシャドウがよく似合っている。けれども、その下のうるんだ瞳は、少し大きめのカラコンに遮られて、だれにもその思考を読み取らせない。細い指先には、大ぶりのリボンパーツをあしらった、ピンクのスカルプネイルが輝く。




 誰とでもうれしそうに話す如月さんは、本当にかわいい。私は、心の底から如月さんが可愛いと思う。時に強く、守りたいとか、できるだけ長くそばにいて見つめていたいと思うこともある。もっとも、だれかと付き合ったことはないから、これが私の心情として際立って特異なものかどうかは、よくわからないのだけれど。だが、ある点において、私が彼女に抱くこの感情がほかのどの人間とも違っていて、もしかしたら気持ち悪いものかもしれないと疑い始めている。私が如月さんをかわいいと思うとき、同時に私は安心している自分に気づいたのである。何に対しての安心か。自分が、女性を純粋にかわいいと思えている女である事の安心だ。もしかしたら世間一般の女性は、そう簡単に女性をかわいいと思わないのかもしれない。数十年生きてきて、最近気づき始めてしまったことだ。口では簡単にかわいいと言える女の子たちが、本心からそう言っているときは、彼女たちが発したかわいいの全体の十パーセントにも満たないのかもしれない。けれども、女性をかわいいと思える私であることに勝る安心感を知らない私は、如月さんの存在に頼ることをやめられない。

 如月さんがこのスーパーで働き始めて半年と少しになる。はじめはチャームポイントとして計上していた黒い瞳が、先週からそんな私の下賤な安心感を見抜いて、「そんな目で私をかわいいと呼ぶな」と言っているように思えてしまって、その目を正面から見て話せなくなってから一週間になる。如月さんはそれでも私に話しかけ、話しかけられては嬉しそうに相槌を打ってくれる。だからといってその疑惑を拭い去ることはできない。そんなものは杞憂だ、と言ってくれる人は私にはいない。ただ貪欲にその安心感を追い求めて、自分が変化と感じた些細なものを、果てしない疑りの渦に巻き込んでいくたった一人の醜い何かしかいない。


                  -


 菅野さんは、かなり元気な女性で、私より一回り年上の、シングルマザーだった。さっぱりとしていて、必要以上に相手に踏み込むこともしないし、踏み込ませる会話をしない人だった。けれども、私にだけ、時々弱音を吐いた。先月からスーパーのシフトが減ってしまって、生活費が若干足りなくて、週一スナックでの勤務を始めたこと。もう数年したら小学生になる息子さんが、衝動的に友達にけがを負わせたことで、別れた元夫の片鱗が見えるようで怖くも、つらくもあるということ。

 はじめ、何とかこの女性社会に受け入れてほしかった私は、女性従業員と話すときはいつでも必死に反応をひねり出していた。あなたに興味がありますよ、あなたの話はとても面白いですということを表情と言葉で示そうと躍起になっていた。そうすれば受け入れてもらえる、というか溶け込めると思っていたからだ。そのくせ、彼女たちの話を覚えていられなかった。起伏なく、はっきりしない気持ちをキャッチャーお構いなしに投げるだけで、蝶のように飛び去って行く話題たちは、私の脳には引っかかってくれなくて、何度も同じ話を聞き返した。それでも、菅野さんの話だけは、全てかっちりと記憶に留められていた。どんな小さな出来事、ほとんどとりとめのない話でも。


 知り合って半年を過ぎるころ、お互いに飲みに誘いあうようになった。ここで知ったのは、菅野さんが自身の言葉以上に強肝臓の持ち主であったということだ。もともとシフト中の会話で飲める方であるとは聞いていたが、前日朝まで居酒屋で飲んでスーパーでのバイトをこなした後も、なんともなさそうにハイボールをいくつも流し込む。時折ふにゃふにゃと言葉にならない何かを吐きながら、「何これおいしー!」と言ってまた新しい杯を空ける。そして私が話し、彼女の口元が空く合間に、スナック勤務で覚えたというメビウスのスーパースリムをくわえる。熱くなって「でもそれはね…」と言いながら人差し指と中指の間でプラプラと揺らす吸いかけのそれを、灰がどこかに落ちて燃えやしないかとひやひやしながら見ていると、「あっ、だめだよぉ、成人してたってタバコは覚えちゃだめよ、おあずけ!」という。臭いのは嫌いだからしませんよ、と言いながら、そんな菅野さんがたまらなくなくかわいいと思う。そしてそのかわいいにだけ、忌々しい独りよがりな安心感と罪悪感は付いてこなかった。そうしたらすねた菅野さんが、ひっどぉい私臭いってことぉ、と漏らすから、もう肝臓をいじめるのはやめて帰りましょうと声をかけるのだ。




 私がスーパーで働きだしてあとすこしで一年になるというあたりで、菅野さんがシフトをすっぽかすことが増えた。はじめは寝坊しましたとか、息子が熱出しちゃいましてとか店長に言っていたのを聞いたし、きちんと事前連絡をよこして申し訳なさそうにてきぱき仕事をこなしていたのが、連絡もせず遅れるようになった。そうして、悪びれることも少なくなった。当然そんな勤務状態では、菅野さんのシフトはだんだんと削られていった。週四、五日が週一、二週に数日、ひと月に数日、容赦なく削られていく。気になったし心配になったので、何とか話しかけようとしたが、シフト後の飲みはおろか、毎回していたシフト中のおしゃべりも応じてくれなくなっていって、避けられるようになった。挨拶には応じてくれるが、そのうちちょっとした会話にも応じてくれなくなってしまった。初めて、心に穴が開くというか、心の嫌な隙間をうすら冷たい風が、こちらの様子をうかがいながら通っていくような感覚がした。ある日公開された翌月のシフトを見ると、菅野さんのシフトはなくなっていて、その日の夜、スーパーの業務連絡用のグループメッセージに菅野さんから「今月で辞めることになりました、残り数日の勤務ですがお世話になりました」という、さっぱりしたメッセージが送られていた。




 メッセージの送られた日の翌日が、菅野さんとのシフトが被る最後の日だった。挨拶だけは応じてくれるから、シフト前の待機室でお菓子でも渡そうと思った。その夜、久しぶりに長めの散歩に出かけた。自宅の最寄りのコンビニに向かった。アスファルトの地面を踏む足が何となくねばついて、夜の暗がりと一緒に沈み込みそうな気がしながら、数分程度のはずのその道がやけに遠く感じた。色とりどりのパッケージの並ぶ商品棚に向かって始めて、菅野さんが何のお菓子が好きか聞いたことがなかったな、と思い出した。息子さんの話だって散々していたから、軽く叔母さん気分でいたのに、彼の好きなお菓子だって知らない。何をしているんだろう。こんな時間に、こんなところで。不思議と、別に血迷った行動というわけでも、何も責められるようなことをしているわけでもないはずなのに、我に返った。気づいたらチロルチョコ三個を大事に抱えて、背中に「ありがとうございました」を受けていた。ここで本当に我に返って、慌ててポケットをまさぐったら、チロルチョコと印字され、雑に押し込まれたレシートを見つけて安心した。そして来た時より少し軽くなった足で、半分スキップしながら家に帰った。ぼろぼろと涙がほおを流れた。そしてすごくおかしかった。あんなに仲良くしていたのに明日でおしまいだ、それにセンベツがチロルチョコ三個とはなんとも薄情だ、明日は晴れてたらいい、とかそんなことを考えて帰った。行きにぐにゃぐにゃ足を取られたアスファルトの道は、軽快なステップを踏むたびに気持ちのいい音がした。




 その日、若干腫れた眼もとで、少し早めに待機室についた。のろのろと上着を脱いで、制服をハンガーから外す。朝礼までに着替えをゆっくり済ませたが、菅野さんはまだやってこなかった。途中で渡せるタイミングが来るだろうと思って、エプロンのポケットにチロルチョコをしまった。みんな眠そうな顔でバックヤードに集まり、始業十分前に朝礼が始まる。何枚か業務書類の挟まったバインダーを手にした店長が、集まった従業員の顔を二三回さらりと確認し、腕時計、壁掛け時計に目をやる。そしてすこししかめっ面になって隣の社員に菅野さんは、と小声で尋ね、社員が何も聞いてませんというと、ふうっとため息と呼吸の中間みたいなものを出して、それでは朝礼始めますという。淡々とセール情報、クーポン案内、前日までの引継ぎ業務の説明、トラブル報告と対策の説明が進む。では今日もがんばり…といったところで、「遅れました」と菅野さんの声が滑り込んできた。目前に掲げていた資料から目だけをあげて、店長が「おはようございます」と声をかけて、それに「おはようございます」と菅野さんが返すと、また店長は資料に目を戻し、ばさりと紙をまとめ直して小脇に抱え直す。そして「では改めて、今日もがんばりましょう。よろしくお願いします。」と言い直した。レジ担当者に鍵が渡され、業務別に従業員が散っていく中、すこしぼうっとした顔の菅野さんに「おはようございます」と声をかけると、少しびっくりした顔をして変に力んだ「おはよう!」を返してくれた。少し面白くて、おもわず顔がほころばせながら、「辞めちゃうんですよね。今日でシフト被るの最後みたいなので、これ少なくて申し訳ないんですけど……ありがとうございました。」とチロルチョコを差し出す。すると、文字通り拍子抜けした表情で、菅野さんは「あ……りがと……う?」と、語尾に疑問符を含めて小さな三粒を受け取る。それ以上の会話はこの日も見込めないと思ったので、にっと笑って見せて、品出しのためのUボートを取りに、向かいの倉庫扉へ向かった。漫然と業務をこなしていると、あと一時間で上がり、というタイミングで向こうから菅野さんがやってくるのが見えた。軽く会釈して見せると、久しぶりに見たさわやかな笑顔でにこりと笑いかけてくれた。すれ違いざま、小さくたたんだ紙片を渡される。言葉はない。すっと去ってゆく菅野さん。近くで作業する従業員に見えないように渡された紙を開く。入れ替えたPOPの裏に、「早上がりするからたばこつきあって」と書いてある。目の前で吸うくせに私にたばこを禁止していた菅野さんは、これまで喫煙所に誘ってくれたことがなかったので、すごく珍しく思ったのと、また、見覚えのない温かみで頬のあたりが緩んだのを覚えている。


 お客がまばらになってきたころ、先輩従業員にもう上がり時間だから上がっちゃおう、お疲れ様、と声をかけられて、キリのいいところで品出しを終えて、じゃあお先にと声をかけて休憩室に向かう。その道のりの途中で、ばったり菅野さんに遭遇する。「おっ、お疲れ」とほほ笑んで、どちらかが提案するでもなく、なんとなく一緒に休憩室に向かった。久しぶりに、休憩室更衣スペースのカーテン越しにとりとめのない話をする。しばらくまともに話をしないうちに少し、菅野さんの声は酒やけしているようだった。ときどき咳払いをしながら、本当になんてことない話をする。そうしてお互いが着替えを済ませた後、「じゃあ行きますか」と菅野さんが先導して、スーパーの従業員専用喫煙所へ向かう。黄ばんだつるつるの床を見つめながら、それまで久しぶりに和気あいあいと話していたのに、今度は一言も交わさず黙々と歩いた。何となく話すことが思い浮かばなかったのか、話せる雰囲気でもなかったのか、とはいえ、この日まで菅野さんに避けられていた時の雰囲気とは違っていて、静かなその時間に全く気まずさはなかった。


 この時初めてやってきた喫煙所は、まあ、きれいではなかった。雨のシミでひどくくすんだコンクリートの模様が、暗幕のように見えた。銀色に鈍く光る円筒の灰皿の周りに、日焼けした青と白のプラスチックの座面のベンチが三つ、囲むように置かれていた。いつのまにかピンク色のライターでスーパースリムに火をつけた菅野さんが、ぷかりと煙を吐く。その横顔に漂う、菅野さんの洗剤の匂いにつられるようにして、「いやあお疲れさまでした」と声をかける。


 「ありがとう。にしても素敵なセンベツ、ありがとね」

 「気に入ってもらえたならよかったです。みすぼらしくって申し訳ないですが」

 「これはこれで、予想外でおもしろいよ。あなたらしい」

 「わたしらしい?」

 「いやね、悪い意味じゃないから変に考えないでほしいんだけどね、なんかやっとほんとの〇〇〇ちゃんを見せてもらえたような気がするっていうか」

「……」

「取り繕ってない、素直な感じ?すごくうれしいの、ありがとね、本当に」

「いいえ……そんな」

「……」

「ていうか、珍しいですね。喫煙所に誘ってくれるなんて」

「ああ……ここの喫煙所使ったことなくて、どうせなら今日、〇〇〇ちゃんと行くのがいいかなって思って」

「そうだったんですね。選んでもらえて光栄です」

「ふふ、そう?」

「はい。寂しくなります、本当に。最近は挨拶くらいしかしてなかったし、菅野さん来ないときも多かったし」

「やあ、申し訳ない。この場を借りて、ごめんなさい。」

「遅刻を謝るならまずは店長に、ですよ。私じゃなくて」

「ま、それはそうね」

「そうですよ」

歯切れ悪いような表情で、菅野さんはまた一口吸う。ほとんどふかすような吸い方を二三度繰り返した後、唇からたばこを離して、軽く深呼吸をした後に、

「わたし再婚するの」

といった。わたしさいこんするの、と音だけ受け入れた脳で、さいこんを再婚と変換するのに、少しだけ時間がかかった。相槌しなきゃと思って私が何か音を発する前に、それに気づいてか、気づかずか、菅野さんは続けて

「とっても優しい人。息子もすごくなついてくれてて。私にはスーパーでもスナックでも働かなくていいから、ただそばにいてくれたらいいって」

と、しだれ柳みたいにまつ毛を伏せて、聞いたことのないやさしい声で言った。書面に名前を連ねて、名実ともに一緒にいる約束。その理由も、気持ちもわからないくせに、私がその時ひねり出せた相槌は、素敵ですね、だけだった。それを聞いた菅野さんは、まつ毛を少し上げて、すっとまっすぐに私の顔を見つめた後、これまでにないくらいさみしそうな顔で笑って見せた。灰だらけになったたばこを灰皿に落とすと、しゅっという音がした。そして新しいスーパースリムをくわえて、火をつける。はじめのひと吸いをふわりと吐き出すと、おもむろにそれを唇から外して、

「これが私からのお返しね」

と、やさしく私の唇に挟む。むせそうになるのを何とかこらえて、見よう見まねで吸ってみる。安い駄菓子のガムみたいなブドウ味でおいしくない。その中にきっとタバコではない甘い味が潜んでいた。できる限り逃さないように、吸える限りの煙を吸い込んだ。最後はやっぱり耐えられなくて、カッコ悪くむせた。それを見て菅野さんがけらけらと笑う声が聞こえた。むせながら、涙目でにらんだ菅野さんは、西日の逆光の中で、どんな表情でいるのか分からなかった。


                   -


 多分この時、飛び出した私の感情の一つが勢い余って崖を飛び降りてしまった。これが取り戻せるものなのか、もしくはまたどこからか生まれ変わって出てきてくれるものなのかわからない。しかしその意味は大きかったようで、私が如月さんをかわいいと思うことで得ている安心感はこの感情の代用のようである。しかしながらそれは崖から飛び降りた感情そのものではないから、その安心感はみじめさに襲われる。それで帳尻を合わせているのだろう。必死につくろった言葉も表情も、最近偽物感が増してきて、いつベロリとはがれるかわからなくてびくびくする日が増えた。対峙する如月さんは、相変わらずかわいい黒く沈んだ瞳で、私のほころんだ相槌の隙間の、真皮の下の赤黒い醜さをてらす、その瞳のもつ強い力と意味を理解しながら、かわいさの他には気づいていないようでもある。ほんとうはそんな手放しの可愛さが、わたしは憎らしいのだろう。うらやましいのだろう。手に負えない自分の劣等感を棚に上げて、依り代を持っておくということでしか何かを、自分を愛せない。

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