5-11
厳つい銃を構えたキャロルが部屋に現れるや否や、ヴィルヘルム男爵はもちろんのこと、冷静なヘルガでさえも一瞬のうちに直感で悟った。
自分たちはキャロルには到底敵わない。
その構え、無駄のない動作、そして何よりも彼女が纏う黒のバトルスーツ――それら全てが、彼女が百戦錬磨の戦闘のプロであることを雄弁に物語っていた。
キャロルは笑みを浮かべながらも、冷静に銃口を彼らに向け、圧倒的な存在感を示していた。
「さて、運よく男爵も一緒だから一纏めに教えて貰いましょうか」
銃を軽く持ち替えながら、キャロルは楽しそうに言った。
彼女が一歩前に踏み出すたびに、男爵とヘルガは自然とあとずさる。
その姿に、二人は緊張感を募らせながらも、言葉を発することさえできなかった。
まるで、その銃口が少しでも揺れれば全てが終わるかのような重圧が、部屋の中に漂っていた。
キャロルは銃を構えたまま、部屋の中へと悠々と歩みを進める。
そして、ヴィルヘルム男爵とヘルガの前にあった椅子に堂々と腰を下ろし、足を組むと我が物顔で二人を見下ろした。
「さぁ、ここからは楽しい質問タイムよ。ちゃんと質問に答えれば、命は保証してあげる。けれど、反抗的な態度や言動をしたら痛めつけるから。
……
キャロルは軽く銃を下ろして、少し緊張を和らげるような仕草を見せた。
その動きを見た瞬間、ヘルガの目に閃きが走った。
隠し持っているパルスハンドガン。これを使えば、一瞬の隙を突いてキャロルを仕留めることができるかもしれない。
ヘルガは、決意を固めると同時に腰に右手を伸ばし、パルスハンドガンを素早く引き抜いた。
しかし、次の瞬間、キャロルが恐ろしいほどの速さでヘルガとの距離を詰めた。
「甘いわね」
キャロルの冷酷な声がヘルガの耳元で囁かれる。
彼女はヘルガの手をひねり上げ、パルスハンドガンを持っていた腕ごと強引に押さえ込んだ。
その痛みに耐えきれず、ヘルガの顔には苦悶の表情が浮かぶ。
「私さあ、ちゃんと言ったわよね? 反抗はダメって……あまり手間を焼かせないで欲しいわ。はい、それじゃペナルティね」
キャロルは冷淡に言い放つと、そのままヘルガの手をゆっくりと捻り上げていく。
あまりの激痛にヘルガは泣き叫ぶようにして喚くも、キャロルは一切力を緩めることなく、そのまま捻って手の向きを変えてしまう。
腕を捻じ折られたヘルガは思わずその場にしゃがみ込んで、痛みを堪えていた。
「よし、終わりっと……大人しくしてよ。次は切り落とすからね」
片や一連の凶行を目の当たりにしたヴィルヘルム男爵は、恐怖にかられて全身の力が抜け、思わず股の間に染みを作ってしまった。
自分の無力さに打ちひしがれ、完全に戦意を喪失した男爵の姿は、見るに堪えないほど情けなかった。
そんな男爵を鼻で笑いながら、キャロルは再び冷ややかな声で尋ねた。
「じゃあ、再開しましょうか」
苦悶の表情を浮かべるヘルガと、顔を青ざめさせた男爵。
二人は震えながらキャロルの質問に応じるしかなかった。
一方、キャロルはヘルガの苦痛に満ちた顔を眺めながら、内心でほくそ笑んだ。
まさに彼女の思惑通りに古典的な交渉術、リード・アンド・クラッシュ・メソッドで主導権を完全に握ったのだ。
あえて相手に反抗の機会を与え、それを即座に潰すことで心理的にも物理的にも支配下に置く。これで二人が自ら反抗する意志を持つことはないだろう。
男爵とヘルガは、キャロルの冷たい銃口と圧倒的な力によって完全に支配され、痛みと恐怖に縛られていた。
こうしてキャロルは余裕を持ちながらも、狡猾な笑みを抑え、静かに質問を開始した。
◇◇◇
一方、カイは外部からキャロルの行動をじっと見つめていた。
通信機越しに聞こえるヘルガのかすかな息遣い、キャロルの落ち着いた声。彼の心の中では、これが最善の方法だと理解していながらも、どこか落ち着かない気持ちが渦巻いていた。
尋問という行為自体、カイには経験が全くないため、今回はキャロルに任せることになった。
だが、彼女の一切容赦ない行動に思わず声を上げそうになっていた。
「これ以上は必要ないはずだ……キャロル、もう十分だろう」
カイは通信を通じてそう言いかけたが、キャロルの確信に満ちた行動を見ると、その言葉は飲み込まれた。
実力不足なのは自分自身も認める所で、それを代わりに行ってくれている彼女に止めろというのは、身勝手が過ぎるのではと考えたからだ。
カイは一連のキャロルの行動が最適なのだと自分に言い聞かせながら、事の成り行きを見守るのだった。
◇◇◇
「さて、改めて確認するけれど、あなたがヴィルヘルム男爵で合ってる?」
「い、如何にも! 私が、ヴィルヘルム男爵だ」
キャロルは男爵の怯えた表情を楽しむかのように見つめ、軽く肩をすくめながらさらに問いかけた。
「立派なお返事ね。あなたはバルタザールを通して海賊たちに好き放題させ、混乱する星系に私財を投じて救済する英雄になる――それが計画だった。
けど、その資金、どこから持ってくるのか曖昧なのよね。リゾート惑星とはいえ、所詮は男爵家よね? そんな大金を持っているとは思えないのだけれど」
惑星メーレスクローネは有数のリゾート惑星として名を轟かせている。
このヴァルデック侯爵星系の中では勿論、他星系からも客が来る程度には賑わっており、それによるアクティビティ収入は十分な収入源であった。
加えて、惑星の大半を海が占めることから海洋資源にも恵まれており、星系全体を支える台所としても機能していた。
こうした事情からシュタインシュマル家は低位貴族である男爵ではあったものの、伯爵家にも劣らない財力を有していた。
本来、そうした実態と共わない事情もあって、長らく惑星統治を導いてきた功績を持って昇爵する予定だった。
だが、シュタインシュマル家が相次ぐ不幸に見舞われた為、ヴィルヘルムが継いだ段階で話は先延ばしとなっていた。
その事にヴィルヘルムは不満を抱いていた。
「そ、それは……略奪の一部を受け取って……」
「へぇー、領民から奪った財産を使って英雄様になる予定だったんだぁー?」
キャロルの言葉を聞いて、ヴィルヘルムは苦虫を嚙み潰したかのように顔を歪ませる。
さすがにシュタインシュマル男爵家といえども、悪化した星系経済に影響を及ぼすだけの資金投入は、身の破滅を意味する。
だが、それでは意味が無い。
そこでヴィルヘルムは、バルタザールと裏取引をしていた。彼は自分の地位と権力を利用して、星系内の地図や防衛隊の活動情報をバルタザールに流した。
バルタザールはその貴重な情報を他の海賊たちに売りさばき、彼らに効果的な襲撃を行わせて利益を得ていたのだ。
一方で、ヴィルヘルムもただの傍観者ではなかった。
彼はバルタザールが略奪した品々の一部を分け前として受け取ることで、自らの資金を捻出していた。略奪品は資源や貴重な物資であり、これらを密かに売りさばくことで、男爵家の資金を補強していたのだ。
確かにキャロルが指摘したように、経済を建て直すために投入する資金の多くは、元々は領民たちの財産だ。
そのことにヴィルヘルムも心を痛めてはいたが、最終的には全員に還元させることで許されると考えていた。
「た、確かに領民の財産ではあるが、経済復興は最終的には領民たちの生活も豊かに出来る! 決して、一方的な搾取などではない!」
「ふーん、まあ私は領民じゃないから正当性を訴えなくても別にいいわよ。絵に描いたようなマッチポンプだけれどもね。それで、管理と処分はあなたが担当したのよね? ヘルガ」
キャロルから視線を向けられたヘルガは思わず身体を緊張させる。
先ほど捩じ折られた片腕の鈍痛が続く中、脂汗を滲ませながらもヘルガは逡巡する。
ここですべてを話すべきか、それともチャンスを待つべきか。
「早く答えてくれない? それとも、片手……要らなかったりする?」
キャロルの冷酷な言葉に、ヘルガの身体が強ばる。
恐怖が体を駆け巡る中、ヘルガは一瞬、言葉を失った。しかし、彼女はキャロルに視線を合わせ、震える声で問いかけた。
「……一つ、教えて。バルタザールはどうなったの……?」
「んー? 船員は皆殺し。バルタザールも死んだわ。彼の船も爆破されて、今はもう宇宙の塵になってる」
その端的な答えを聞いた瞬間、ヘルガは一瞬呆然とし、やがて唐突に高笑いを始めた。
キャロルが無表情のまま彼女を見つめる中、ヘルガの笑い声は響き渡った。
それは狂気に満ちた笑いであり、長年の抑圧された感情が一気に噴出したようなものだった。
「……そう……バルタザールは、もういないのね……!」
ヘルガは天を仰ぎ、笑いの中に涙が混じり始めた。
彼女の目には安堵とも諦めとも取れる感情が浮かび、止まらない涙が頬を伝った。
これまで自分を縛り続けていた鎖――バルタザールの存在、その命令――それが今、完全に消え去ったことを実感したのだ。
「もう……何もない……」
ヘルガは呟くように言った。
これまでの苦しみが消え去ると同時に、彼女は自らの命運が尽きたことを悟っていた。
自分を縛るものはなくなったが、同時にもう逃げ場もなければ、戦う理由もない。ただ全てを受け入れるしかない状況が彼女を取り囲んでいた。
彼女は静かに肩を落とし、力なく笑みを浮かべた。
「……いいわ。全部話すわ……どうせ私の命も、ここで終わるんでしょう?」
その言葉には、もう抵抗する意思はなかった。ヘルガは最後の力を振り絞り、全てを語る決心を固めた。
「……そうよ、私が全て管理していた。バルタザールが運んできた略奪品は、全て私の手を通して処理されていたわ」
キャロルは依然として無言のまま、ヘルガを見つめ続けていた。
その静かな眼差しと沈黙が、ヘルガの焦燥をさらに煽り、彼女の言葉を絞り出させる。
「密かに倉庫に集められた略奪品は、私が手配したルートを使って外部に売りさばかれたわ」
バルタザールから受け取っていた略奪品は予め、彼らの手によって選別され、価値ある美術品などが大半を占めていた。
またその中には、拉致した人間も含まれていた。
海賊たちが奴隷として捕まえて良いとされる人間は、
この帝国において労働階級の中で最上位に位置する上級国民は、"一般的な国民"とされており、彼らを捕まえても奴隷として捌くのは難しい。
そうした人間は手違いとして、秘密裏に解放される流れとなっていた。
「そういえば、帝国では奴隷売買が合法なんだっけ。上級国民は解放されて、名誉国民以下は奴隷として売られる……同じ名誉国民として何か感じることはなかったの?」
ヘルガはキャロルの問いに、目を閉じて深いため息をついた。
彼女の肩は力なく垂れ下がり、圧倒的な静けさの中で、ようやく口を開いた。
「……そうね、何か感じるべきだったのかもしれない。でも、感じたところで何になるの? 帝国にとって、私たち名誉国民は便利な存在に過ぎないわ……」
キャロルは無言でヘルガを見つめ続けた。
彼女の無表情な瞳は、ヘルガをさらに追い詰め、沈黙の中で彼女の焦燥が少しずつ滲み出していく。
「私は……難民だったのよ。帝国に辿り着いた時、何もなかった。名誉国民になれた時は、救われたと思ったわ。でも、結局……」
ヘルガは言葉を詰まらせ、ふと遠くを見るように虚空を見つめた。
「父は目の前で殺された。そして、私はその亡骸の隣で……名誉国民として、私も何か価値があると思っていたけれど、海賊にとってはただの玩具だった……」
彼女の声は震えていたが、次第に感情が溢れ出し、吐き出すように言葉を紡ぎ出す。
ヘルガは海賊に親を殺された後、彼らに連れて行かれた。
そこで長い間、ただの愛玩動物として飼われていた。自由もなく、抵抗もできなかった……だが、ある日、船長が――バルタザールが彼女の能力に気付いた。ただの奴隷ではなく、もっと役に立つ存在だということに。
ヘルガは拳を握りしめ、怒りと悲しみが入り混じった表情を見せた。
「それからよ、私の人生が少し変わったのは。バルタザールは私を工作員として使うことを思いついた」
言葉にせずとも、彼女の内心の苦しみは深く刻まれていた。
ヘルガはその後、様々な場所で海賊たちのために働いた。彼女は二重生活を送り、名誉国民としての表の顔と、バルタザールに情報を流す裏の顔を使い分けていた。それは、彼女にとって生きるための唯一の方法だった。
その企みの一貫として目を付けられたのが、この惑星メーレスクローネだった。
メーレスクローネ――ヴァルデック侯爵星系で最も有名なリゾート惑星。その青く広がる海に惹かれ、星系内外から多くの富裕層が訪れていた。
この惑星は、海賊たちにとっては格好の標的となった。富裕層が集まり、資源が豊富な惑星は略奪の宝庫だった。海賊たちはこの惑星をターゲットに定め、その尖兵として送り込まれたのが、ヘルガだった。
ヘルガは表向きは名誉国民として惑星で暮らしながら、裏で彼らに情報を提供する役目を担わされた。
そんな中で、彼女はヴィルヘルム男爵と出会った。
当初は、彼も他の貴族の坊ちゃんと変わらなかった。金持ちで、何不自由なく育った青年。だが、彼が男爵の地位を継いだ瞬間、ヘルガの運命は再び変わり始めた。
ヘルガの報告により、ヴィルヘルムが無知で無能な貴族であることがバルタザールに伝わった。
その報告を受け、ヴィルヘルムを単なる貴族の一人としてではなく、利用価値のある「駒」として見るようになった。
そうしてバルタザールは彼の地位と権力を利用し、星系全体に影響を与える壮大な計画を企てる。
「私は……ただの駒だったのよ」
ヘルガは再び苦々しそうに呟いた。
彼女に拒否権などなかった。海賊たちの命令に従い、ヴィルヘルムを篭絡し、彼を傀儡として操る役目を果たすしかなかった。
彼女が望んだことではなかったが、それが生きるための唯一の方法だった。
だが、真相を聞かされたヴィルヘルムは、全てが偽りだったことに動揺を隠せなかった。
彼は自分が本当の愛を得たと信じていた。しかし、その"愛"が作り物であり、ヘルガにとっては単なる任務だったと知った時、彼の心は崩れ落ちた。
「そ、そんな!? ヘルガ、私との愛は……嘘だったというのか!!」
「……私にそんなものがあると思っていたの?」
ヘルガの声は冷たく響いたが、その目には、長い間抑えてきた感情が滲んでいた。
彼女の声が震える中、積もり積もった感情が一気に爆発した。
「私はただ命令に従っていただけよ! あなたに感情なんて抱く余裕なんてなかった……私はずっと、ずっと操られてきたのよ! 親を殺され、自由を奪われて……!」
ヘルガの叫び声が部屋中に響き渡った。彼女の拳は白くなるほどに握り締められていた。
これまで耐えてきた全ての痛みや屈辱が一気に表面に噴出したのだ。
「ヴィルヘルム! あなたみたいな無能がどうして統治者なの? 血筋だけで座っているだけじゃない! 領民の苦しみなんて、何も知らないでしょう!」
彼女の声には怒りが満ちていた。
「高度な教育を受けていながら何も学ばず、何もできないのに、権力だけは持っている。そんな人間が統治しているから、みんなが苦しむのよ! 封建制度のせいで、あなたみたいな愚か者が上に立ててしまう。制度があなたを守り、領民を苦しめているの!」
ヘルガの言葉に、ヴィルヘルム男爵は口を開こうとしたが、言い返す言葉が見つからなかった。
彼の顔には動揺と混乱が浮かんでいた。
自分がただの駒に過ぎないこと、愛だと思っていたものが偽りだったこと、そして何よりも、自分の無能さが星系を危機に陥れていたという現実が、彼の心を強く打ちのめしていた。
「……私は……そんなつもりじゃ……」
ヴィルヘルムの声はか細く、震えていた。
しかし、ヘルガの冷たい視線は、彼を容赦なく追い詰め続けた。
「そんなつもりじゃない? 笑わせないで! あなたが無知で無能だからこそ、バルタザールや私が好き勝手できたのよ! あなたの弱さが星系全体を混乱に陥れたの! 全てあなたのせいよ!」
ヘルガの声は激しさを増し、彼女の目には怒りと絶望が渦巻いていた。
彼女はヴィルヘルムの姿を見つめ、心の中で湧き上がる感情を抑えきれなかった。
彼女自身もまた、この腐敗した封建社会の犠牲者であり、その怒りが男爵への憎しみとなって爆発していた。
一方、キャロルは無言のまま二人のやり取りを見守っていた。
彼女はヘルガの感情が爆発するのを予想していたかのように、冷静に状況を見つめていた。
キャロルはヘルガから語られた話を整理し、一連の事件の真相をほぼ完全に把握する。ただ一つだけ、どうしても腑に落ちない謎が残っていた。
「大体わかったわ。でも、まだ一つだけ分からないことがあるのよ」
キャロルは無表情のまま、ヘルガを見つめる。その冷たい視線がヘルガを再び緊張させた。
「なぜ、あなたは武器を欲しがったの? そして、どうしてそれをご主人さ……カイに頼んだのかしら?」
ヘルガはキャロルの問いに少し戸惑った表情を見せたが、次第にそれは薄れ、疲れたように深いため息をついた。
「……武器が欲しかったのは、単なる自己防衛のためじゃないわ。バルタザールの計画の一環だったのよ……」
ヘルガは無気力な瞳で、語っていく。
星系全体が海賊による略奪で苦しんでいる現状では、その被害が増えれば、当然領民たちは自分たちを守るために武器を求める。自己防衛のために。
だが、それこそがバルタザールの狙いだった。
領民が武装すればするほど、バルタザールはそれを利用してさらなる利益を得られる。武器の密売、混乱の中での支配、全てが計算されていたのだ。
しかし、領民の武装化を海賊であるバルタザール自身が直接主導することは不可能だった。
そのため、間接的に協力する者が必要で、その協力者として選ばれたのがカイだった。
「……カイが使えると思ったのよ。最近、精力的に活動していると話題になっている彼なら武器を調達できるだろうし、彼自身が海賊に利用されることなく独立しているからね。
外部の力として使うのに最適だった。私がカイに頼んだのは、彼をただ利用したかっただけ。それ以上でも以下でもないわ」
バルタザールの計画は順調に進んでいた。だが、ここで致命的な誤算が生じた。
ヘルガを通してカイに領民の武装化の手伝いをさせる。たった、それだけのはずだったのに、そこから全てが崩壊した。
「けれど、笑っちゃうわよね。お涙頂戴の身の上話をして、武器が欲しいと頼んだだけなのに……それで、バルタザールまで辿り着いて計画が全てバレるなんてね」
ヘルガは計画通りに動いた。
自らの素性の一部をカイから同情を買うことに成功し、あとは武器が運ばれてくるのを待つだけだった。
しかし、代わりに送られてきたのは独立パイロットによる定期巡回だった。
予想外な行動に困惑していると、僅かな期間でカイはバルタザールまで辿り着いて、計画のほぼ全てを知られるに至ってしまった。
ヘルガは虚ろな瞳で遠くを見つめ、肩をすくめた。
「私の役目は終わったわ。もう、何も残っていないわ……」
キャロルはその言葉を聞いて少しだけ息を吐いた。
ヘルガが背負ってきた運命は、彼女自身の選択の結果でもあった。しかし、その中には、バルタザールや海賊たちの策略に巻き込まれた哀れな犠牲者としての姿もあった。
だが、同情は一切していない。
「うん、必要な情報はすべて聞けたかな。それじゃ、一緒に来てもらいましょうか」
キャロルはヘルガの言葉を聞き流し、感情を動かすことはなかった。
ヘルガがどれほどの過去を抱えていようとも、彼女がカイを利用しようとしたという事実は、キャロルにとって許し難いものであり、万死に値する行為だと考えていたからだ。
キャロルがヘルガとヴィルヘルム男爵を連れて事務所を出ると、外は深夜にもかかわらず、湿気を帯びた暖かい空気が彼らを包み込んだ。
事務所の周囲には、熱帯特有の植物が鬱蒼と茂り、わずかに葉が揺れる音が聞こえる。
遠くからは、海の波が静かに打ち寄せる音が耳に届き、空には輝く星々が散りばめられ、月の光が薄く道を照らしていた。
カイは、そんな静かな熱帯夜の中で腕を組んで彼らを待っていた。
その顔には、複雑な感情が浮かんでいる。
事務所内での会話を通信を通して聞いていたことで、ヘルガに対するわずかな同情心が芽生えていたのだろう。しかし、キャロルはそれを見逃さなかった。
彼女はカイに近づき、冷静な声で釘を刺すように言った。
「ご主人様、彼女はどんな理由があれ犯罪者よ。そんな人間に情けをかける必要はないわ」
その言葉に、カイは小さく息を吐き、軽く頭を振って感情を抑えた。
「……わかってる」
カイは深呼吸して心を切り替えると、再び冷静さを取り戻した。
彼はキャロルの言葉に従い、余計な感情を押し殺す。
静かな熱帯夜に、二人を白鯨号へ連れていくための足音が響いた。
温かく湿った夜の空気の中、彼らは目的地へと向かって歩みを進めていった。
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