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「それで、こんな厄介者を拾って来たのか?相変わらずお人好しが過ぎるんじゃねえか烏哭」

 パーラー丸木戸まるきどの店主、佐渡さど晃司こうじが言う。

「仕方がないでしょ」

 溜め息混じりに言いながら、烏哭はパーラーの黒い革張りのソファに身を沈め、煙草に火を付けた。

 烏哭の前に現れた男は、三基の塔の南側――理想都市SAINTセイントの住人であった。

 暗闇から姿を現した男の、その泥梨6番街には似つかわしくない装いを見て、烏哭はすぐに理想都市SAINTの住人だと気付いた。あちら側の住人は、全員が白を基調とした同じ意匠の服を着ている。

 理想都市セイントと泥梨の住人は、表向き往来は自由な筈である。実際の所、お互いの往来は厳しく管理されており、逍遥する事は出来ない。監視員が付けられ、立ち入る場所も制限される。理想都市の住人が、監視員も連れずに泥梨6番街に現れて、空腹を訴えて食べ物を乞うている。幸い熊ではなかったが、別の厄介事に巻き込まれるのは明白であった。

 烏哭が男をこのパーラーに連れて来たのは、食事が摂れるのは勿論そうだが、何かしら揉め事が起きても佐渡と自分ならば対処出来ると踏んでの事である。


「おい、声掛けたのが烏哭で幸運だったな。この辺は泥梨でも一番治安が悪い。ここじゃ金と暴力が物を言うんだ。警察も当てになんねえからな」


 佐渡が男――スウと名乗った。に声を掛ける。

 今は、クミンと半熟玉子のトーストをかじっている。スウは何かを言い掛けたが、食事を優先する事に決めたようだ。

 

  魁偉な体躯に粗暴な口調の佐渡は、パーラー丸木戸の二代目店主である。彼が十四歳の頃にこのパーラーに出入りする様になり、その後先代店主が亡くなると佐渡がこの店を引き継いだ。この男の剃刀の様な双眸は危険な輝きを孕んでおり、隙のない物腰が不敵な気配を漂わせている。パーラーの店主と言うよりは、任侠映画の登場人物という佇まいである。

 6番街は泥梨で最も昏く治安が悪い。警察の目も届きにくいこの場所では、頻繁に起きる揉め事トラブルを収める存在が必要だ。それが佐渡晃司のもう一つの顔である。

 住人達はこの辺りで何かが起きたら大抵は佐渡の所に来る。烏哭は自分がここで給仕をしているというのもスウを連れて来た理由のひとつではあったが、騒動の気配を感じていたと言うのが本当の所である。


 佐渡は、その節くれだった指先には不釣り合いな繊細で優美なティーカップを乗せたトレーを運んでいる。烏哭の前に貝殻の形をしたプレースマットを敷き、その上に暖かな琥珀色の液体で満たされたティーカップと、綺羅星糖きらせいとう、生クリーム、ミルクポット、柄の先が王冠になっているティースプーンを並べた。これは、烏哭の必需品である。烏哭の談によると、自分の血液はミルクティーで出来ているという事らしい。烏哭は下戸なので飲酒は全くしないが、ミルクティーが酒ならば大酒飲みの類と呼ばれるに違いない。酒ならば、沢山飲める事が一種の賞賛を得る場合もあるが、これはミルクティーである。大抵は心配される。そういう時、烏哭は水だろうが酒だろうが大量に飲めば何でも毒になると言って飲み続ける。

 タコワサをつまみにミルクティーを飲み続ける人間が居たら、周囲は面白がるか不審がるかのどちらがであるが、烏哭は気にならない。

 もしも、誰かが烏哭に無理矢理にでも飲酒を勧めた場合「それを飲み干してから出直して来な。話はそれからだ」と、逆に3Lのミルクティーを勧められる。3Lまでは準備運動で、そこから先が本番だそうだ。

 これには酒豪達もお手上げだった。アルコールに強い者がミルクティーにも強いとは限らない。


「食い終わったらさっさと行きな。これからどうするつもりか知らねぇが、泥梨に留まるつもりならもう少し危機感を持て。ここは理想都市セイントとは違う」

 スウが最後の一口を嚥下したのを見て佐渡が言う。

「乗り掛かった舟だと思って少し話を聞いてもらえないか」

 スウは空になった皿を脇に避けると、桃花心木マホガニーの猫脚テーブルの上で祈る様に手を組み、組んだ指先を見つめた。

「他に客も居ねぇから、話したきゃ話しな」

 佐渡が無骨な口調で応じた。烏哭は、自分がどうぞと勧めるのもおかしく思ったので、態度だけで同意を示した。


「私は理想都市から逃げ出して来たんだ」


 スウの話によると、理想都市はまさに文字通りの理想都市・・・・である。人々は『須く善人』であると言う理念の元暮らしている。

 それ自体は泥梨の住人にも周知の事実である。しかし、詳細までは伝わっていない。


 理想都市では、幼少期から徹底的な教育が施される。

 これは『人道的愛情教育』と呼ばれ、大半が規則と道徳に費やされる。

 例えば『人に迷惑をかけてはいけない』という規則である。ごく当たり前の価値観に思えるが、これは標語に対する道徳的な心掛けの話ではない。

 理想都市の住人は『蜘蛛の糸』によって常に監視されている。善い行いをすれば得点・成績になり、当然悪い行いをすれば減点される。それだけでなく減点内容は記録され、住人達は桃色の蜘蛛ピンクスパイダーと呼ばれる情報端末を介してお互いの情報集積海容データベース接続アクセスし、内容を確認する事が出来る。総合評価が高い人程『善人』という事になる。その一方で、一度記録された減点内容は基本的に削除されない為、住人達は常に強い圧力に曝され、他人の視線と評価に怯えて暮らしている。

 理想都市は閑静を通り越し、死の静寂に支配されているとスウは言った。人に迷惑をかけると思われる事柄を全て避けようとすれば殆ど出来る事がない故である。

 公共施設である公園は、芝は綺麗に刈り込まれ、透徹した水の張った池も美しい。いかにも住人達の憩いの場に最適な場所にも関わらず、利用者の影は無い。景観維持の役割のみを果たしており、子供の遊ぶ声も聞こえなければ、シートを広げてお弁当を食べる人も、犬の散歩をしている人すら見当たらない。理想都市内にて、これらはいずれも他者への迷惑行為と見做されている。

 情報端末桃色の蜘蛛ピンクスパイダーは、情報集積海容データベース接続アクセス以外に、減点行動の報告という機能が備わっている。これは、住人が別の住人を告発出来るシステムである。

 規律違反、不適切と思われる行為及びその対象者を桃色の蜘蛛ピンクスパイダーを用いて動画または画像で撮影し報告する。その情報は蜘蛛の糸の通信網を使用して公開・共有される。住人達はその情報を閲覧し各々が自分の裁量で意見を入力出来る。集まった意見を人工知能AIが解析し、出された結果を住人の総意と見做し、減点するか、するならばどの程度減点するかの処遇を決定する。衆人自治しゅうじんじちと言う。

 報告されても住人達に迷惑行為と見做されなかった、何らかの理由で海容された場合は減点にならないのだが、殆ど前例がない。報告された者はまず減点される。


 烏哭は、話を聞くだけで息が詰まると思った。

 そう言うと、スウは「まさに息が詰まって、嫌気が差したから逃げたんだ」と答えた。


「私には、あの潔癖が性に合わなかった。理想都市セイントの人々は皆、立派で素晴らしい事ばかり言うが、完全無欠の"良い人"なんて、本当に居ると思うかい?」

「居ない」

 烏哭は即答した。

「でも、理想都市では常にそう振る舞う事が求められるんだ。いや、違うな。振る舞うのではいけない。それでは、本当は違うのにそう見える様に取り繕う、見せ掛けると言う様な意味になってしまうね。心底良い人、当然の如く考える余地のない善人であるべき――そんなのは無理だ。あそこは、善人を演じている人々の集まりだ」

 しかし、そう思って居るのはどうやら私だけだった。とスウは言った。

「あそこの人々は、自分達が疑う余地のない完全無欠の素晴らしい人間だと信じているんです。信じているというのは語弊があるかな。彼らの日々の善行は、全て厳しい規則と監視で成り立っているに過ぎないのに、誰もそれに気付いていない」

 生まれながらに根っからの善人が居たとして、その人は自分が善人であるかの如く振る舞う事などしない。あるがままの状態で既に善人なのだから、取り繕うも何もない。良い人に見える様に振る舞うと言うのは、その時点で何かが破綻している。

「何かをして貰ったら礼を言いますよね?」

 スウの問い掛けに佐渡と烏哭が肯く。

「しかし、心底感謝して出た有り難うと、そういう決まりだから出た有り難うと、人に見られて居たから出た有り難うでは意味合いが違ってくる。理想都市では、そういう決まりだから・監視されているから有り難うと言っているに過ぎない。感謝の気持ちは無い」

「感謝の気持ちと、規則だからの区別が付いていない、考えても居ないって事ね?」

 烏哭が後を引き受けると、スウは肯いた。

「万が一、そういう規則が無ければ、蜘蛛の糸の監視が無ければ、誰も有り難うなんて言わないでしょうね。何故なら、規則に無いから。誰にも咎められる心配がないから。そんな馬鹿らしい事があるかと思うだろうが、理想都市はそういう場所なんだよ」

 スウはそう言うと一旦言葉を切った。

 佐渡がスウの前に珈琲を置いた。

 スウはその珈琲を暫く眺めた後で「有り難う」と言うと一口飲んだ。

「桃色の蜘蛛で行われた告発に意見を入力する時も、匿名と実名を選択出来るんだが、実名を選ぶ人は誰も居ない。実名にすると、他の住人が自分の情報データを閲覧出来るんだが、この時に総合評価の低い人間や、減点行動の内容が悪質な人間が居ると、それ自体が更に告発の対象になり得る訳だ」

「目糞鼻糞って事ね」

 烏哭が投げやりに言った。

「?――すまない、それがどういう意味か私には分からないが」

「ああ。こういう言葉遣いもしないんだろうね、そっちじゃ。気にしないで」

 烏哭は、いかにもやさぐれた仕草で短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「私が子供の頃は、ここまで厳格な規則はなかった。まず『須く善人』という理念があり、住人はその為に善い行いをしましょうという心掛け程度の話だった筈。それが、十年程前に桃色の蜘蛛が導入されてから、おかしくなり始めた」

 スウの、元々あまり血色の良くない顔が更に陰った。

「初めは、皆が理念を尊重し、暮らしをより良くしようというという一心だった。それがその内、粗探しや足の引っ張り合いになって行き、今では隣人同士で監視している」

 陰影の濃く刻まれた顔に疲労の色が浮かぶ。

「あくまでも、普段は善人の顔をして、本心では隣人が失敗するのを待ち構えているのさ。幾ら匿名でも、隣人しか知り得ない様な告発はされた側も察する訳だし」

 そうなれば後はもう――例えば隣人に生活音を告発されたが、向こうもうるさい、自分ばかり告発されたのでは堪らない。と言う様な告発合戦に発展し埒が明かなくなっていく。

 人は自分の中にあるものと同質の背徳うしろめたさを嗅ぎ取った時、不都合な部分は見て見ぬふりをして、自分を正当化するのではないかと烏哭は考えている。それが自分にとって不都合な事実であればある程に頑なに否定する。誰だって、己の昏い部分を正面から覗き込むのは嫌だと思う。それを認め、受け入れるのも楽しい作業ではない。

 まず自尊心が傷付く。程度の差はあれど、誰でも自尊心プライドを持っている。自分の非を認める、未熟さを受け入れる、自分は『大した事ない』人間だと認める事は、苦痛を伴う作業である。自分がまるで無価値な人間に感じられてしまう。それでは立ち行かなくなってしまうので、本能的に不都合な事実からは目を背け、自分を正当化するのだろう。

「それでも顔を合わせればご機嫌ようと平然と挨拶をするんです。そう言う規則だし、挨拶をしなければ減点になり、表立って揉め事を起こせばそれこそ告発されてしまう」

 群衆は『我こそは善良な市民なり、今悪を正す』とばかりに自ら進んで告発を繰り返し、その度に禁止事項が増えて行き、規則はより複雑で厳格になっていく。しかし、これらは住人達が自ら告発し処遇を決めた事であり、善人ならば須く守るべき常識である為、批判の声は上がらない。

 ――上げられないというべきだろうか。

 上手く出来ているな、と烏哭は思った。自分で自分の首を絞めている。批判する者が現れたら、その者は非常識という烙印が押されるので誰も声を上げられない。

 聞くだに目眩を起こしそうな話に、烏哭は小さな溜め息を吐き再び煙草を取り出した。その細く白い指に挟まれた煙草をスウが物珍しそうに見つめる。

「先程から気になっていたのだが、それが煙草と言うものですか?」

「そうだけど」

「知識としては知っているが、本物は初めて見た。ひとつ試させて貰えないだろうか」

 理想都市では酒と煙草は禁忌とされている。

「構わないけど、健康は損なうよ?」

「望むところだ」

 先刻とは変わって何かから開放された様な表情のスウに、烏哭は煙草を差し出す。

 ガスライターの蓋が開く小気味良い音がパーラー丸木戸に響き渡った。


つづく

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幸福の尺度 百合瀬紫煙 @yao800

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