幸福の尺度

百合瀬紫煙

1

 真夜中の6番街には、この世の憎悪と羨望が同居している。


 聖都の中心に聳える3基の塔がある。

 その塔を境界に北側には湖があり、その向こうに広がる395km²の薄汚れた町『理想都市聖国務行政区・北AINTエイント特別地区』――通称泥梨ないり

 泥梨の6番街とは、地獄の様なこの場所にはお似合いの呼び名だと八咫烏哭やたうこくは思っている。しかし、6番街と言う割に、他に1から5が割り当てられた場所は存在しない。これは、秩序立った理由で命名された訳ではないという事である。加えて、ここは、元々は圡野はのという地名である。と言うより、今でもここは圡野であるが、何時頃からか、誰かが呼び始めた6番街という呼称が浸透した結果、泥梨6番街と言えば集落の入り口から『圡野神社』の門前までの約300mの区間を指す言葉となった。つまり、いい加減なのだ。


 圡野神社の巨大な白い鳥居の前には圡野堰が流れ、その上に石造りの太鼓橋が掛けられている。その門前から集落を真っ直ぐに道路が通っており、左右には宿泊施設が立ち並んでいる。

 圡野町は、かつて圡野神社の祭事を行う人々の為に作られた集落である。圡野町の住人は年貢や賦役を免除されていたと伝わっているが、それも約350年も昔の話である。時代は変遷し、現在では妖しいネオンが明滅する宿場町に姿を変えていた。安っぽくて殺伐とした灯りなのに、どこかいかがわしい。

 集落の入り口は四つ角になっており、神社に向かって左側に大きな石がある。この大石は、圡野神社の後方に聳える馬梯山ばていさんが明治時代に噴火した際に飛んで来た物だと烏哭は聞いていた。石の上には慰霊碑が建てられ、噴火で亡くなった人々の名前が刻まれている。

 烏哭は、猫石を通り過ぎ、6番街の坂を登って行く。烏哭の住まいは、坂の途中の廃ガレージである。元は『ガレージくれない』と言う名で営業していた中古車販売店であったが、廃業して久しい為か、外観は荒廃している。

 殆どの家が宿泊業を営む6番街で、このガレージ紅は異質であった。烏哭がここを住処にしている理由のひとつは、その異質さを気に入っているからかもしれない。

 烏哭は、人と違う事には慣れていた。

 それがある種の誇りであるかの様に、時には誇張してまで吹聴して歩く者も居るが、烏哭の場合は、人と違う事に対して自分の中で折り合いを付けていた。人と違うという疎外感をまったく気にしていないと言えば嘘になるが、己がいかに特別であるかを自ら申し出たり、または「自分はまとも・・・です」と殊更に主張するのも愚かしい行為に思えた。強がりとも少し違っていた。

 これは思春期に抱く無根拠な万能感や、道徳の否定と言う意味では無い。

 個人の特性の相違を自慢気に語る事と、自分がいかにまともで、普通であるかを熱弁する事は、結局の所同じ事である。


 住居兼ガレージの玄関先は暗かった。

 道路沿いの少し離れた場所に街灯があるが、どうにも光量が乏しい。 鄙びた宿場町のネオンは明滅を繰り返し、極彩色の残光を振り撒いている。ただし、足元までは照らしてくれない。

 広大な天蓋に浮かぶ恒星の光も、凍てついた月明かりでさえも、烏哭が立つ場所を照らし出すには不十分であった。だが、烏哭はそれで良いとも思っている。自分には、日輪が持つ一種の健全な活力は似合わない。暗闇が相応しい。


 烏哭は、夜の色をしたスキニーパンツの尻ポケットから煙草を取り出した。

 ガスライターの蓋を開ける小気味良い音が辺りに響く。

 烏哭は吸い込んだ煙を1〜2回咀嚼・・した。これは烏哭の癖である。もう少し正確に言えば、咀嚼と言うより、前歯で煙を切るというイメージに近い。飲み物でも同じ事をする。液体や煙が切れる訳でもないのだが、無意識に行ってしまう。

 肺に落とした煙をゆっくりと吐き出す。もうひと吸いして、続いて香ばしい香りが鼻から抜けて行くのを楽しんだ。

 烏哭がここに住むよりも前――この店がまだ伽藍堂になる前――に設置された灰皿に、長くなった灰を落とした。


 鼻歌を歌いながら二人仲良く肩を組んで歩いていた男達が、ガレージの壁に寄り掛かって煙草を吸っている烏哭に気付いて足を止めた。男達は千鳥足で烏哭に近付く。男達のどちらかが、良い物を見付けたと言わんばかりにひゅう、と掠れた口笛を吹いた。

 酒の匂いがした。


「おねーさん、俺達と一緒に遊ばない?」


 ここには民宿も多く存在する為、酔って徘徊する宿泊客も少なくない。

 烏哭は男達の声掛けに動じる事もなく、左手の人差し指と中指に挟んでいた煙草を、その魅惑的な紅い唇に再びくわえた。そのぞっとする程の美しさに男達が息を呑んだ。烏哭は、気怠げな仕草で紫煙を吐き出してから、自分の左側の、その先の暗闇を指差した。

 店舗として使用していたガレージは、道路に面して建っている。その横の空間にはかつて売り物の車が並べられていたのであろうが、今は車が1台停められる程度のスペース以外、景観維持には役立ちそうもない植物に侵食されている。

 ガレージと、繁茂した植物の奥に平屋の家が建っている。家の側面、ガレージの後ろに当たる部分は中庭になっていて、さらにこの家の後ろは小さな畑になっていた。畑の横には細い川が流れており、人が渡れる様に板が何枚か掛けられている。その川を渡った先にもう一軒家が建っている。所謂分家である。こちらは現在誰も住んでおらず、廃墟とかしていた。そして、この廃墟のすぐ後ろは一帯がスギ林になっていて、昼間でも薄暗く、殆ど人通りのない林道が通っている。この林道を登って行くと、圡野神社前の圡野堰にぶつかり、さらに道なりに進めば馬梯山に繋がっている。山の麓である6番街は、出る。

 ――熊が。


「ここは出ますよ、お兄さん方」


 敢えて何が出るとは明言しなかった。が、その時、烏哭が指差した先の闇が――動いた。

 がさり。

 充満した闇が、風もないのに動いている。何かが居る。

 その音は酔っぱらい二人にの耳にも届いていた様で、俄に男達の表情が硬くなる。

 音が聞こえたのは、おそらく中庭と裏の畑の中間辺りからだろうか。その辺りには桜の木や梅の木が生えていて、木陰に潜まれると例え周囲が明るくてもこちらからは姿を確認し難い。更に、烏哭が居る場所から裏の畑までは一本道であるものの、建物の配置に沿って緩く折れ曲がっているので、見通しはそれ程良くない。 


「で、出るって――何が?」


 男のどちらかが、恐る恐る聞いた。

 烏哭は、その問い掛けには答えず、唇に人差し指をあてて静かにする様合図した。それから、烏哭は暗闇に光る目が見えないか確認した。

 以前、夜中でこそなかったものの、暗くなってから同じ場所で煙草を吸っていたら、突然背骨に悪寒が走った。何か気配を感じたのである。咄嗟に気配がした――と感じた方向に顔を向けると、数メートル先、中庭の闇の中に光る目が浮かんでいた。

 山麓にある6番街には、狐も狸も猿も猪も出るが、これらの野生動物にしては目の位置が高過ぎる。烏哭は、後ろ手に探りガレージの扉を開けて、まるで逃避行中の犯罪者の様に素早く中に滑り込み、扉を閉めて鍵を掛けた。ガレージは造りが頑丈なので、一先ずは安心出来るだろう。

 昔から、裏の林道は熊の通り道なのだ。この辺は熊がよく出没する。と言うよりも、あまりに山が近いので、居ない方がおかしかった。何時だったか、圡野堰に熊の死骸が流れて来た事があった。熊は泳ぎが得意だと聞くが、圡野堰は見掛けよりもかなり流れが速い。何かの拍子に落ちて上がれなかったのかもしれない。

 真夏に2階の窓を開けて寝ていて、明け方にトイレに起きてみると、窓の下を熊が歩いていたという話も聞いた。

 とにかく、6番街は熊がうろうろ・・・・しているのである。住人達はそれに慣れずには生活出来ない。

 とはいえ、いくら山里に住んでいても、熊に出くわして喜ぶ者は勿論居ない。生活している以上、出歩かないという訳にも行かないので、早朝と夕方以降は山に近寄らないとか、畑仕事の時に鈴やラジオを持ち歩く。つまり、この辺りでは出くわしたら「運が悪い」という事になる。

 住人達はともかく、宿泊客は熊が彷徨いている事を知らない場合がある。

 なので、烏哭は男達が熊でもお化けでも勝手に勘違いして怖がって宿に戻ってくれれば良いと思い以前熊が出た辺りを指差した。何も知らず熊に襲われるよりは良いだろうという烏哭なりの親切心である。しかし間が良いのか悪いのか――何かが居る。

 再びがさり、と音がした。

 男達は小さく飛び上がり、蛙が潰れた様な悲鳴を上げて(烏哭は蛙が潰れた声を聞いた事はなかったが)走り去って行った。

 烏哭も、すっかり灰になった煙草を灰皿に入れて、すぐにガレージの扉を開けようとした。

 その時。

 暗闇から声がした。

「君」

 獣の唸り声には聞こえなかった。

「すまないが」

 だんだんと声が近づいてくる。

「何か食べる物を貰えないだろうか」

 暗闇から烏哭の前に姿を現したのは、熊ではなく男であった。


つづく

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