第10話 はじめてのお出かけ(1)
セルゲイから屋敷内なら自由にしていいと言われても、これまで朝から夜まで働き詰めだったエヴェリには何も思いつかなかった。
(旦那様の逆鱗に触れるようなことをしてしまうかもしれませんし……)
例えばうっかり飾ってある品物を壊してしまったら……想像するだけで恐ろしい。
使用人達には相当嫌われているようで、食事のために廊下に出た際、すれ違う度に「お疲れ様です」と声をかけるとぎょっとした顔をされる。
そんな人間がうろついていても邪魔でしかないだろう。なら部屋に閉じこもっていようと、食事以外はひたすら部屋の中で時間を潰していた。
備え付けられていた書棚から本を取りだし、難しい単語は辞書を引きながら読み耽る。飽きてくるとエルゼに頼んで持ってきてもらった白い布と糸で黙々と刺繍をする。
部屋の中に居れば誰にも迷惑をかけなくてすむ。エヴェリの目的は身代わりが露見せぬよう、息を殺して殺されないようにひっそりと生きていくことだ。けれども、エルゼは消極的なエヴェリが不満のようで、あの手この手で外に連れ出そうとしてくる。
三日、一週間……三週間ほど経ってくると、熱心に仕えてくれるエルゼにだけは少しづつ心を許せるようになってきた。なので思い切って尋ねてみた。「私の噂を知っている?」と。
「噂ですか? 存じ上げていますよ」
あっけらかんにエルゼは答える。
「ならどうしてわたくしに良くしてくれるの? こんな人間に仕えたくないでしょう?」
エルゼは笑った。その瞳はやっぱり温かい。
「噂は噂です。私も最初は奥様は怖い方でわがままなお方なのかな? と思いましたけど、お会いしたら全然雰囲気が違ったので、噂は誰かが悪意を持って流し、本来の奥様は違うんだなと自分の直感を信じただけです」
エルゼの言葉がじんわりと心に染み込んでくるが、次の瞬間エルゼは核心を突く。
「ただ奥様って時々『噂通りの奥様』を演じようとしますよね。噂も訂正しませんし、そのままにして……本来の奥様はこんなにも可愛らしいお方ですのに」
ドキンっと鼓動が早くなり、ひゅっと掠れた呼吸音が耳についた。そんなエヴェリの異変に気づかず、エルゼは勿体ないですよと唇を尖らせる。
「…………演技なんてしてません。どちらもわたくしです」
「ですが奥様の素はこちらですよね? 廊下で他の使用人とすれ違う際も、挨拶する日があれば、たまに何か堪えながらツンっと無視して通りすぎる日もありますし……わざわざ無理して噂通りに振る舞う必要性ありますか?」
不思議そうな眼差しに心が痛い。本当はエヴェリだってしたくないのだ。少し前まで使用人と同じ立場で仕事をしていたから、主人にそういう風に当たられるのは辛いと知っている。
(身代わりが露見しないよう、無理やりでも、ちぐはぐでも、たまには噂通りに振る舞って、わがまま姫なのだと思ってもらわないと……そうしないと殺されてしまうから──)
偽物の姫だと周りにバレてしまったら、約束が違う! ヴォルガを愚弄している! と殺されてもおかしくない。そんな不安定な地盤の上にエヴェリは立っている。
態度をコロコロと変えたり、姫としておかしな言動を取っている自覚はある。だがどう足掻いても、王族として育っていないエヴェリはシェイラを完璧に演じることは出来ない。一挙一動に品のなさが出てしまっているはずだ。そこはもう諦めていた。
(でも私には固有魔法があるから。別人だと見破られずにすんでいる)
きゅっと指にはめた指輪を握る。これはエヴェリの変身魔法を助けてくれる古代の魔具だ。
普通なら変身魔法を一日中、いや、どの魔法であっても長時間行使し続けていると魔力が枯渇する。その魔力不足という問題を解決するのがこの魔具なのだ。
この魔具は魔法を使うことで消費した魔力が世界に溶けきる前に回収し、体内に戻す。そうして半永久的に魔法を発動することが出来る。
よって、エヴェリは魔具の力に助けられて一度も本来の姿に戻らず生活ができている。
「今は言えないけれど、色々あるの。演技だと感じるその考えは胸に秘めておいてくれると嬉しい」
(いつか本当のことを伝えられる日は来るのかしら)
きっと来ないだろうな。そう思うと少し悲しくなった。
◇◇◇
そうやって比較的穏やかな日々を過ごし、今日も今日とて窓際にイスを置いて刺繍を刺しているとノックがかかった。
「はい、ただいま開けますね」
内側から鍵をかけていたので針を針山に刺し、丸枠を置いてからドアに向かう。
「お待たせしました……──」
カチャリと鍵を回す。開けたその先にいたのは予想外の人物だった。
「旦那さま?」
婚姻の日からほとんど顔を合わせていないセルゲイが無愛想な顔をして立っていた。
「何か御用でしょうか」
「出かけるぞ」
「お出かけ……ですか?」
「ああ」
わざわざ伝えに来てくれたのだろうか? 珍しいこともあるものだとエヴェリは受け取った。
「そうですか。気をつけて行ってらっしゃいませ」
そのままドアを閉めようとするとセルゲイに妨害された。
「おい、貴女のドレスを仕立てに行くのに、私だけで何処に行くというのか」
「えっ」
(私のと仰った?)
「ドレスなら旦那さまにいただいたものがありますので不要かと」
苛立たしげにセルゲイは説明する。
「それは間に合わせで一応用意したものだ。私は貴女が自国から好みのものを大量に持ってくると思っていたから。ただ、侍女からの報告ではあまりドレスや宝飾品を持ってきてないようだな」
「えっと……その」
ドレスは嫌がらせでボロボロ、宝飾品なんて「お前にくれてやるものはない」と持たせてくれなかった。
目を逸らすエヴェリにセルゲイは呆れを隠そうともしない。
「ならばこちらで見境なく購入し、渡してやったお金を浪費するのか? と思いきや、支度金には手をつけていない」
(まあ、お飾りの妻ですし…………着飾る場面はありませんから)
日常的に着用する服はセルゲイが事前に複数着仕立ててくれていた。それで十分であるし、あとは着回しすればいいだろうと新たなドレスを買うつもりがなかったのだ。
「ヴォルガの夏はハーディングよりも長い。肌寒い時期に合わせて仕立てたものは暑くて着れなくなるぞ」
「ですが……」
躊躇するエヴェリにセルゲイは吊り上げていた眉を下げた。
「言っただろう。常識の範囲内であれば費用は出すと。ほら、行くぞ」
「あっ」
セルゲイは躊躇なくエヴェリの手を握り、廊下に引っ張り出した。
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身代わりの人質花嫁は敵国の王弟から愛を知る 夕香里 @yukari_ark
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