鬼子鬼退治
松 悠香
海上にて
禍々しい灰色の空が、海面を黒く染めていた。荒れ狂う波が容赦なく小舟を叩きつけ、船体は今にも崩れ落ちそうだった。冷たい雨が私の顔に打ち付ける。指先の感覚はとうになくなっていたが、それでも櫂を握る手を離せなかった。
「くっ……!」
必死に櫂を漕ぎ続けること、数刻。水を掻く音も、私の乱れた息も、暴風雨の中でかき消され、舟はほとんど進んでいる感覚がなかった。むしろ、波に逆らうたびに押し戻されているようだった。
忙しなく動き回る猿の隣で、犬は疲れ切った表情で濡れた毛を震わせていた。水を吸って、ずっしりと重くなった雉は、私の肩の皮膚を引きちぎるような勢いで必死でしがみついている。
このままでは、舟が沈んでしまう。折角奪い返した、この木箱ごと。
「こんなはずではなかった……」
私は思わず唇を噛む。荷物を乗せている分、行きより帰りの方が重くなるということも忘れ、船乗りに小舟を借りた自分の愚かさを悔やんでいた。頼めば村で一番立派な舟とまでは行かなくとも、それなりに丈夫で、大きな舟を貸してもらえただろうに。
大きな舟で来ればよかったと気がついたのは、島からたつときであった。あの島にあったあの大きな船なら、こんな嵐でも耐えられただろう。だが、鬼用の船を、自分が操れる自信は、私にはなかった。餅は餅屋ということで、鬼自身に運転させようとも思ったが、鬼は既に全て息絶えたあとであったため、それも叶わなかった。
櫂を握る手に力を込めるが、もうこんなことをしても無意味だと、私も薄々気がついていた。どれだけ必死に漕いでも、波は私たちを飲み込もうと迫ってくる。
もう限界だ。力尽きた私は、櫂を手放して頭を垂れた。波の打ち寄せる音と、舟が揺れるたびに宝箱が船底で立てる重い音が、私の頭を叩くように響いた。思わず顔を歪めると、肩に止まった雉が、不安そうにこちらを覗き込んだ。
そうだ、この舟を今何とかできるのは私だけなのだ。これ以上、共に鬼と闘ってくれた戦友たちを不安にさせるわけにはいかない。なんとかしなくては。
「これを捨てれば……少しは軽くなるかもしれない。これも、これも。」
食料の蓄えを入れた袋は、もう全て捨ててしまった。船を更に軽くするには、もう宝を捨てる他ない。
震える手で、宝箱の一つに触れる。木箱を開けると、その中で、人々から奪われていたきらきらと財が輝いていた。金貨や雛人形、それに砂糖まで。ああ、この木箱には、村の皆にとって貴重なものが詰まっているのだろう。だが私には、皆の財を捨ててでも、会いたい人が、帰りたい家がある。恨んでくれるなよと呟いて、箱を持ち上げたそのときだった。箱の蓋が少しずれて、そこから何かがこぼれ落ちたのは。
ころころころ…というかすかな音が鳴ったその瞬間、波の打ち付ける音も、仲間たちの憂いるようなうめき声も、止んだような錯覚に陥る。
咄嗟にそれに目を向けた私は、唖然とした。否…真逆、真逆、な。先程の決意はどこへやら、私は箱を舟の中にそっと置き直し、転がったそれを拾い上げた。ああ、やはりそうだったか。それは、幼い頃から何度も見た簪であった。桃色の簪――鬼に奪われるまでは、母がいつも髪に挿していた、あの簪だった。
「これはね、あの人が私のために作ってくれた、この吉備にたった一本しかない簪なの。」
母は、ことあるごとに嬉しそうに目を細めて、そう繰り返し語った。
「あなたを授かるよりうんと昔、まだ若い娘だった私にくれたのよ。山で拾った枝を自分で削ったんですって。そりゃあ、職人さんの作ったものには劣るかも知れないけれど、私にとっては一番の宝物なのよ。」
母が私にこの話をするたびに、耳を赤くして、そっぽを向いて寝たふりをしていた父は、もうこの世にはいない。この村が鬼に襲われ、鬼共がこの村の宝という宝を奪っていったあの日、鬼に持っていかれたこの簪を取り返そうと鬼に挑んだ父は大怪我を負い、その傷から入った菌が全身に回って熱を出して死んでしまったのだ。
「できぬ……」
私はあの桃色の簪を、箱の中にそっと置き直した。この箱に詰まっているのは、私を鬼子だと噂したあの人々の財だけではない。母の宝物も、一緒に詰まっているのだ。
そうだ、どうして忘れてしまっていたのだろう。鬼から全てを取り戻そうと海に漕ぎ出したのは、私の復讐心と、名誉の為だけではなかった。父の無念を晴らす為、母の笑顔をもう一度見るために、死にそうな思いをしながらも、この宝を取り戻そうと奮闘したのだ。
先程まで、戦利品としか捉えていなかった小さな木箱は、私にとって、命よりも大切な宝となっていた。
何があろうと、この箱は、村に持ち帰らなくてはならない。何を犠牲にしようと、絶対に。
私は目を閉じ、荒れ狂う波音の中で深く息を吸った。
手は震えていたものの、頭は妙に冴えていた。選択肢は一つしかない。村に帰るためには、この舟を、身軽にしなくてはならない。
私は重い腰を上げ、舟の反対側へと足を運んだ。忙しなく動き回っていた猿は、私の姿を視界に捉えると、ぴたりと動くのをやめ、少し首を傾げながらこちらを見上げた。更にもう一歩踏み出すと、草履からキュッと嫌な音が鳴った。猿の肩に、そっと触れた。
「お前の爪には、本当に助けられた。ご苦労。」
そう呟くと、私は猿を力強く突き飛ばした。猿の驚いたような表情が一瞬見えたかと思えば、次の瞬間には波間に吸い込まれるようにして消えていく。
次は、犬だ。隣に目を向ければ、犬はこちらをじっと見つめて、低く唸り声を上げている。
「お前も良い働きをしてくれたな……許せ。」
私は犬に近づき、その首を掴んだ。犬は抵抗するように後ろ足で踏ん張り、激しく頭を振って私の手を振りほどこうとしている。牙を剥き出しにし、私の腕に食いつこうとするその表情は、まさしく鬼に相対していたときと、同じものであった。
「やめろ……!」
私はその必死の攻撃を避け、渾身の力を込めて、じたばたともがく犬の躰を海の上に掲げた。
「お前ならば、犬掻きでどうにか、生きながらえることができるかもしれぬ。」
そんな自分自身に言い聞かせるような呟きは、雨音と波にかき消されてしまった。
「ええい、大人しくせい!」
私は最後の力を振り絞り、犬を波に押し出した。その瞬間、犬が短く吠えた声が嵐の音に混じり、海の闇に溶けるようにして消えていった。
肩の上で、雉がケーンと鳴いた。
「飛べ。」
雉は動こうとしない。
「飛べと言っているだろう、飛べ!飛ぶのだ!」
数回怒鳴ると、雉はようやく、ふらつきながらも、私の肩から飛び立っていった。
雨に濡れた羽根が、どれほど重かったか――それを知りながらも私は、その後ろ姿を見送るしかなかった。
鬼子鬼退治 松 悠香 @matsuharuka
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