第36話


 堂内に響き渡るほうりきほう、りきりきの声はまるで渦の如く空間を歪める。

 志賀しが川端かわばたは目の前に出現した怪異に、ただただ愕然としていた。

 巨大な怪物としか思えぬ〈怨恨えんこん〉の黒闇を全身に纏ったおてんとうさまと共に、白い貫頭衣をまとったあきが壇上から降り来る。彼女が向かったのは良也の祖母、天野あまのゆかりのもとだった。

 秋帆は静かに紫を見下ろしている。いつのまに誰がそうしたのか、紫の遺体は皆と同様にその口元を両掌で覆っていた。

「紫さん。さあ、おてんとうさまへお還りなさい」

 秋帆の両掌が、彼女自身の口元を左右から覆った。


祝子ほうりきはきり

 祝子ほうりきはきり

 天転伝儼てんてんてんごんごんごん

 因縁合呪卑呪卑いんねんごうじゅぴじゅぴ


 ほーりっきほー

   りっきりっき

 ほーりっきほー

   りっきりっき

 てんてんてんごんごんごん

 いんねんごうじゅぴじゅぴ


 秋帆の言葉に信者たちの大唱和が重なり建物全体を揺るがしてゆく。最早まともな神経でこの場に居合わせることなどできるはずがない。

 これを呪詛と言わずしてなんとしよう。


 おおおおおおおおおおおおおおおおおおん。


 それらを覆いつくすような怪音が響き渡った。志賀と川端の鼓膜と全身をびりびりと震わせたその異音は、秋帆の頭上のおてんとうさまが大口を開けて放ったものだった。

 次の瞬間、おてんとうさまの全身から黒の闇が爆発的に霧散した。いや、秋帆自体を取り込むかのような激しい勢いで前へ向けて拡大し、そのまま紫の遺体へ覆いかぶさったのだ。

 かっと紫の目が開く。黒目の失われた両の眼は黄色く濁りもはや人間のそれではない。紫の遺体が、ばっと両腕を大きく広げた。それと同時に両脚も大きく広げられその形が大の字になる。開け放たれた紫の口から、ゲルのような黒いものが真上へ向けて噴き出した。〈怨恨〉だ。まるきり吐瀉物の大噴射のようなそれを、まさかのおてんとうさまが自らの口で吸い上げてゆく。もはや紫の遺体が〈怨恨ゲロ〉を吐きだしているのか、それともおてんとうさまが紫の体内の〈怨恨〉を吸い込んでいるのか分からない。見ているほうの胸が悪くなりそうなその光景に志賀と川端は同時にその場で嘔吐した。二人の目にそれは場末の酔っ払いがしょっちゅう路上に拵えているもんじゃ焼きにしか見えなかったのである。

 が、それで二人冷静になった。

 あまりにその光景が思い起こさせたことが世俗に塗れていたことが、あにはからんや功を奏したのである。

「ちょっとこれは想像以上だぞ……アスラもマスターも、毎回こんなもん見てたのか?」

 口元を袖先で拭いながら言う志賀に川端も頷きながら口の中に残ったものを床に吐きだす。

「みたいですねぇ。見えた方がいいからって目に細工なんか許可しなきゃよかった……戻ったら必ず解除させないと」

「万一これこのまま戻せねぇって言われたら、どうする? 川端」

「絞める一択」

「だな」

 男二人顔を見合わせた次の瞬間、前方から悲鳴が上がった。慌てて目を向けるとそれまで以上の惨状がそこに展開していた。体内に溜め込んでいた〈怨恨〉を全て吸い切られてしまったのか紫の全身が骨と皮だけになり火に炙られた烏賊いかのように担架の上で踊りくねっている。それにおてんとうさまの両腕が伸びた。人ならざる巨大な両手がぐわしと紫の腕と脚を掴み、ブリッジ状にその身体を逸らせると黒い唾液を垂らした牙むき出しの大口で腹に齧り付いたのである。

 ぶしゃりじゅるりじゅずずぞぞぞぞぞぞそ。

 おてんとうさまが音を立てて紫の内臓を吸い上げてゆく様はさながら蟹の味噌を吸うがごとし。さすがにそれは信者達にとっても受け入れがたい光景だったのだろう。響き渡る悲鳴がそれを物語る。

 びくりと震えた川端が「しまった」と慌てて踵を返す。

「川端⁉」

 志賀が川端を目で追う。彼ら二人は最後列にいた。だから川端が向かったのはつい先ほど彼等が通ってきた廊下だということになる。つまり、それとこの大講堂を隔てる格子扉だ。

「あっクソ! やられた!」

 その格子扉に齧りついて川端が揺さぶるもびくともしない、完全に意図して閉じ込められたのだ。志賀が両手で頭を抱えて叫んだ。

「あ――――っ! ジャンケンのクソがあああ!」

「志賀テメェうるっせぇんだよ!」

 普段かぶっている猫をかなぐり捨てた川端は口汚く返した後「ああもうクソッタレがあああ!」と扉を靴裏で蹴り飛ばした。

「黒鶫の野郎、俺等ごとバケモンの餌にする気かよ!」

「でしょうね!」

「あれちょっまてよ、良也ってヤツの孫だろうが⁉ アイツ巻き込む気か⁉」

「黒鶫にそんな頓着あるわけないでしょうが!」

「だよなあああ⁉ ってそうだ良也は⁉」

 慌てて二人が前方へ目を向ける。そして目にしたものは想像通りというかあってはならないものだった。

 良也は満面の笑みを浮かべて目前に迫る怪異と、恐慌状態に陥っている信者達を見回していたのだ。今正に、自身の祖母の遺体を折り曲げて貪り食った怪異を目前にしてである。

「うわあ、すごいなぁ。ばあちゃんほんと〈怨恨〉詰めだったんだなぁ。よくもそれだけ他人に興味もてたもんだねぇ。どんだけ他人が大事なのさ。人間なんて死んだら腐ってなくなるだけじゃん。ねぇ?」

 言うなり良也は手近なところにいた信者の前にぴょんと飛びより、ぐいんと腰を曲げてその顔を覗きこむ。やられた信者の方は腰を抜かして「ひいっ」と悲鳴を上げていた。

「ねぇねぇ今どんな気持ち? あんたもこうなりたいんだよねぇ?」

「はっ、そんなっ、まさか――わ、わたしは苦しみをおてんとうさまに取り除いていただきたかっただけでこんな……」

「えー? 人生の不具合の不平不満で勝手に自家中毒起こしてみゃーみゃーしんどいくるしいにゃーたちゅけてにゃーラクにしてほちいにゃーこの厭な黒いヤツとってとってぇって」

 がっ、と良也が目の前の信者の薄くなった頭髪を掴んだ。元々淋しかったその毛の数十本が少年の指に絡めとられて、ぶちぶちと抜ける。


「そんなもん吸い上げるようなのにまともなヤツいるワケねぇだろ。脳味噌茹で上がってんの? ぷるんぷるんしてんの? それ白子よりうまいの? ねぇねぇ」


 志賀と川端は絶句した。

 酷い。あまりに酷すぎる。

 愕然とした二人を前に、我に返った信者達が駆けつけてきた。逃走経路を求めてのパニックだ。慌てて二人は扉前から離れて左右に割れた。先に駆けつけた者から扉が開かないことに気付いて悲鳴を上げるも、後から押し寄せる信者達に押しつぶされて悲鳴を上げてゆく。これでは圧死を免れない。

 阿鼻叫喚だ。

 右手に逃げた志賀が刮目かつもくする。間一髪の避難が送れていたら自分達が潰されていた。川端の姿は信者達の山に阻まれて見えない。無事であると祈るしかない。

 志賀が信者をかき分けて前方へ進むと、隙間から良也が見えた。彼の目の前には黒鶫が立っている。

 叫喚の中、なぜかその声ははっきりと聞こえた。

「はじめまして。あなた僕のお祖父さんなんですよね?」

 指と指の間に絡まった儚い抜け毛を振り払いつつ見上げて問う良也に、黒鶫はにたりと笑みを浮かべた。

「ああ、そのようだね」

「不義の子の子だなんて、なんだか不思議な気持ちですよ僕。あなた、子供まで産ませた祖母に母親役を演じさせてまで本命との結婚を実行するって、人の心とかないんですか?」

「それはお前も同じなんだからわかるだろう?」

「ええまあわかりますけど」

「だったら、私がこの化け物の餌にするべくお前をおびき寄せたのだとしても不思議はないことはわかるな?」

「あれー? これってやっぱりそういうことなんですか?」

「私の肉を受け継いだお前が良質な餌となることは当然だろう?」

「やだなぁ皆。僕A5ランクみたいな扱いしかされないんだもの」

「おしゃべりはこれくらいで十分だろう。――秋帆、こいつを転倒させてテンゴに食わせるんだ」

 黒鶫は良也を見据えたまま彼自身の背後に控える秋帆にそう告げる。

 志賀と川端が講堂後方の左右から駆け付けようとするも信者に阻まれて進めない。

 いけない! このままでは良也が食われる!

「良也逃げろおおおお!」

 志賀が叫んだ直後、その作務衣姿が転倒した。



 ――黒鶫の身体がである。



 床の上に仰向けで転倒した黒鶫の目が、まさかと見開かれて秋帆を見上げる。

 志賀と川端は確かに目撃していた。彼女自身の顔の前に左右から両手を運んでいた秋帆が、黒鶫の背後から彼に足払いを掛けるところを。

 秋帆の両手は彼女の口元ではなく、彼女の目許にあった。

 両の手は少し放して重なりあっている。広げた指先が重なって格子様が形作られている。

 そして秋帆の目がその隙間から黒鶫を見下ろしていた。


「私、ずっとこの日をまっていたの」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る