第35話


 ほーりっきほー

   りっきりっき

 ほーりっきほー

   りっきりっき


 合宿場の中、ガラガラと担架が進んでゆく後に志賀しが川端かわばたは続く。狭い通路の左右を格子の壁に挟まれていてその圧迫感たるや凄まじい。そして格子の奥は黒い。ひたすらに黒い。その黒い中からも「ほうりきほう、りきりき」の言葉が浴びせかけられてくる。湿気と冷気と異臭と異音で気が狂いそうだ。

 目の前をゆく良也りょうやは、先導する黒鶫くろつぐみと同様両手で口元を覆ったまま「ほうりきほう」と言い続けている。それがどこか楽し気に聞こえるのは志賀達の気のせいだろうか?

 建物の中に入ってから進む足取りには変化があった。リズムがあるのだ。「ほうりきほう」の時には淀みなく進んでゆくのだが「りきりき」のところで一瞬立ち止まり二度上下に軽く全身を揺するのである。「ほうりきほう」で三歩進み、「りきりき」で立ち止まって二拍の休符。

 普通に気持ちが悪い。

 長く細い地獄の廊下を突き当たりまでゆくと、左に折れた。先には更に暗い格子挟みの廊下が続いている。曲がっても景色は変わらない。ほうりきほう、りきりきと声が続く。いや段々その音量が増してゆく。

 志賀が小声で「俺二度とジャンケンやらねぇ」と呟いたのに、川端はもう何も返さなかった。内心同意だったからである。

 再び突き当たりに至った。左右に続く廊下はない。

天野あまのゆかりさま、お還りです」

 黒鶫が呟いた。突き当たりの格子がぎぎぎぎぎと左右に割れる。

 とたん、音が止んだ。

 担架が進む。黒鶫がゆく。良也が続く。その後に、躊躇いながら志賀と川端が続き――言葉を失った。

 だだっぴろい――凄まじくだだっぴろい空間の床に、中央に一線の通路を残して、揃いのせいへき色の作務衣をまとう信者たちが左右に割れ正座でひしめき合っていた。そして彼らの正面には祭壇があり、そこには巨大な化け物の姿絵と、その手前に立つ白衣の女の姿があった。

 おてんとうさまと、山路やまじあき――黒鶫くろつぐみ秋帆である。

 志賀と川端の背筋を怖気が走った。その場で秋帆一人だけが白く清浄な貫頭衣のようなものを纏っている。

 小学生の時の事故で目を傷めてから眼鏡が手放せなくなったと掲示板には書きこんでいたようだが今の彼女は裸眼だ。そして黒く長く真っ直ぐな髪がその背中に流されている。

 しんと静まりかえった大講堂のなか、そこに存在している力関係は明らかだった。教団設立の立役者は黒鶫で、その妻というのが秋帆の公的な立場なのだろうが、実際の彼女はおてんとうさまという御神体を内部に抱える言わば神憑き人。つまりこの教団内においては信仰対象そのものとも言える最重要人物なのだ。

 そして彼女をたらしこみ、夫としての立場を確保しながら彼女とそこに憑いているおてんとうさまを操り、実際の権力を握っているのが黒鶫なのだ。なんと周到なやり口をする男なのか。いっそ下世話な娑婆に似つかわしい。

 入口近くで志賀と川端が固まっているのをおいて、担架が祭壇前へと進んでゆく。それに黒鶫と良也がついてゆく。それが秋帆の前でぴたりと停止した。


「天野紫さん、お還りなさい」


 清く透明な声が、講堂の中にすっと響き渡る。秋帆の発した言葉だった。それに合わせて堂内の信者たちが「お還りなさいませ」と唱和する。

「天野紫さんは、長くおてんとうさまのために尽くされ、その生涯を通して祝子ほうりきはきりの請願を達せられました。これを讃えましてこれより紫さんの結縁けちえん回帰会かいきえを執り行います」

 途端、おおおおおおおおおおという地鳴りのような音が堂内に響き渡った。それがほうりきほうりきりきの声に搔き消されてゆく。ほうりきほうりきりき。

 祝子ほうりきはきり

 祝子ほうりきはきり

 祝子ほうりきはきり

 祝子ほうりきはきり

 空気が揺れる。臭気が異様な濃度となって立ち込める。

 志賀と川端がざっと後退あとずさった。揺れだ。明らかに揺れている。地震かと思ったが何かがおかしい。揺れている。ほうりきほう、りきりき。何が揺れている。震源はどこだ。志賀の目が――その一点を凝視した。

 正面祭壇。おてんとうさまの絵姿。

 揺れている。暴れている。蠢いている。何が。黒い闇が。黒毛玉が。〈怨恨〉が。


 ぞろりと、絵からそれが這い出でる。


 絵の中から、巨大なおてんとうさまが這い出でて、純白の秋帆を背後から包み込み守るように、覆いかぶさった。


          *


 地面の振動を察知し、マスターが顔を上げた。

「はじまったな」

 マスターが振り向いた先には滝沢がいた。険しい表情の彼女は萌黄色のコートを纏い、その腕にはタマエを抱えている。腕の中のタマエの視線は、眼下の天道会てんとうえ教、合宿場に注がれている。

 なおおおおん、と、タマエが低く鳴いた。

 次いで滝沢は足元に視線をやる。そこには猫のような体勢でアスラがしゃがみ込んでいた。らんらんと目を光らせて、同じく異音と共に揺れ出した合宿場を見ている。

 三人と一匹は、建物から程近い山の断崖に待機していた。それはかつて小学生の秋帆が見上げた山だった。上級生に命じられてブランコの下で砂の山を作らされ、授業に遅れることが怖くて泣いていたら放り出された苦い思い出。そうしておいてきぼりを食らった時に騒めくのを聞いた山だった。

「滝沢」

 アスラの呼びかけに滝沢は「やるわよ」とタマエをマスターに手渡した。鞄の中からノートパソコンを取り出し、近くにあった石造り椅子の上に乗せる。作業の邪魔と言わんばかりにコートを地面に脱ぎ捨て、ピンク色のワンピース姿を露わにした。インカムをセットして画面に向かう。


「Individual name, Asura Yoinoguchi. Individual name, Tamae.

(個体名、宵口アスラ。個体名、タマエ。)

 The two temporary bodies and the recognition of each body are severed.

(二つの仮体と、各々の本体の認識を切断する。)

 The first step, "material helix" is released.

(第一段階、〈物質のらせん〉 解除。)

 Asura, unlock successfully. Tamae, unlock successfully.

(アスラ、解除成功。タマエ、解除成功。)

 The second step, "intelligence helix" is released.

(第二段階、〈知能のらせん〉解除。)

 Asura, unlock successfully. Tamae, unlock successfully.

(アスラ、解除成功。タマエ、解除成功。)

 ――二人とも準備は良い?」


「おけまるー」

「なおおおん」

「Go ahead!」

 滝沢がエンターキーを叩いた次の瞬間、 アスラの顔面に、しゅうかいなまでの笑みが浮かんだ。

 次の瞬間、アスラの身体がふわりと倒れた。それが地面に崩れ落ちる目前でマスターがタマエを抱えたまま「おっと!」と支える。

 それと同時に、アスラの中から滝沢の目には映らぬ何かがゆらりと立ち昇った。

 それは、まるでさなぎから蝶が羽化するかのごとく。

 その身にまとうのは銀の刺繍を散りばめた濃紺の上下。軍服にも似たその上衣は裾が長い。ばさりとひるがえる長い白金の髪と人並外れた長身。こうこうと輝く瞳の色は濃紺の闇に金砂を散りばめた大宇宙。左右の側頭には鹿角を携え、臀部からは身長の二倍近い竜尾を伸ばし中空に跳ね上げる。尾の全体を取り巻く鱗は光沢を帯びたどんじきで、その特徴は人域を外れた美貌の竜顔の肌にも及ぶ。鋭い牙持つ口元に邪悪なまでの笑みをたたえると――高くたかく跳躍した。

 実体を持たぬその本性が、容易たやすくマスターと滝沢の頭上へと駆けあがっていく。

 天高く満月が浮かんでいる。

 それを視界の片隅に、アスラは右手首に下げた小さな銀の鈴を、ちりりん、と鳴らした。


たま‼」


 満月を背景に宙を飛ぶアスラは、この現世うつしょを渡るための借りの身体――仮体かたいをマスターのかいなの内に脱ぎ捨て、その本性をさらし、自らの乗獣の名を叫ぶ。

 その声に呼応するかの如く、マスターの腕中のタマエからも何かが躍り出、中空に飛びあがった。その小さな身体に収まっていたとは思えない、虎の如き巨大な一頭のけだものが姿を現す。白と黒のもうに覆われた金の目を持つ美しいそれは、明らかにこの世のものではない。

 魂餌がその背に乗せるくらは特殊な形状をしていた。あぶみの代わりに、まるでスノーボードのバインディングの如きものが設置されている。アスラは迷いなくその背に降り立つと、そこに両足を押し込み、ばちんばちんとストラップを嵌めた。

「アスラー! 《青の連弩れんど》リリース!」

「おけまるー!」

 眼下から届いた滝沢の叫び声に対し、彼女には聞こえない返事を返すと、アスラは自身の右手の鈴を再びちりんと一振りした。とたん、鈴がぐにゃりと光を放ちながら形状を変える。それは瞬く間に質量を増し、文字通り真青色のクロスボウへと形を変えた。

〈アスラ〉

 アスラの足元から甘く優しい声がアスラの名を呼ぶ。たまのその声に「うん」とアスラはうなずきながら、ボードを駆るように重心を下げた。

「行くぞ!」

〈抜けますよ〉

 アスラの実体を持たない本性に巨大な圧力がかかる。膝と足に力を入れながら、右手につかんだクロスボウを前方へ向けて構えた。たまは中空で更なる飛翔をし「がっ」と大きく吠える。

 その先の中空がゆがんだ。

 わずか三メートル四方程度の丸い波紋である。生み出されたばかりのその歪みの中へ、アスラとたまは一瞬の躊躇いもなく飛び込んでいった。


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