第37話


 まだ小学生だったころ、集合住宅の裏に住んでいた親戚がヨーロッパ一周旅行で買ってきてくれたお土産が私の宝物だった。

 二つあったそれは、ふわふわと手触りの良い熊のぬいぐるみと、木製のオルゴールだった。姉妹でどちらか好きな方と言われたので、最初私はぬいぐるみがほしかったのだけど妹が先に掴んで「これあたしの!」と離さなかったので諦めた。正確には親に「お姉ちゃんでしょ」と一言で制されたので引かざるをえなかったのだ。残っていたオルゴールは、確かにぱっと見は木製で地味だったのだけれど、もらった後で開いてみると中はビロード貼りで、蓋裏には小さな鏡と共にきらきらと綺麗な石がはめ込まれていた。

 吸い込まれるように夢中になった。

 だが、後からそうだと気付いた妹は駄々をこねた。お姉ちゃんずるい! 自分ばっかりいいの取った! わあわあ泣き叫ぶ妹に手がつけられず困り果てた母親が私にこう言った。

「お姉ちゃんには何か違うの買ってあげるから、それ譲ってあげたら? それか熊のぬいぐるみと交換したらどう?」

 熊のぬいぐるみはすでに飽きられて、棚の上に放り上げられていた。

 三つしか年が違わないと見るべきか、三つも違うと見るべきか。でも当時の私もまだたった七歳だった。私にとって妹は横並びの存在で、そのたった数年の違いでどうしてこうあらゆるものを譲らされなければならないのか理解ができなかった。心が受け入れられなかった。だけれど親のいうことと示すことは絶対で逆らうことなどできない。そんなことをしたら小さな私は家から放り出されて生きていけなくなる。

 そう。親という庇護者に逆らうなどありうべからざることだった。

 それは幼子にとって死への直結を意味する。

 私にとって親とは生殺与奪の権を握る支配者であり恐怖であり、偏った庇護を妹に与える妹の権力のバックボーンに過ぎなかった。

 後年になって両親とも第二子以降であることに気付いてから察した。第一子以外の冷遇の重さを知る世代の彼らは第二子以降の悲哀を身に染みて知っている。だから妹のほうに肩入れしていたのだろうと。

 だがこの時の私は譲らなかった。どうしてもそのオルゴールだけは手放したくなかった。人生で「絶対嫌!」と言ったのは恐らくあれが最初で最後だ。

 だが数日後オルゴールは姿を消した。小学校から帰宅してすぐに気付き、血相を変えて母親にどこにあるか知らないかと聞くと、妹がリビングで泣き喚いた。

「だってぇ! お姉ちゃんがあああ! くれないからああああ!」

 あああん! うわあああああん!

 妹はそれを捨てたのだと言った。どこにと問い質しても口を割らなかった。さすがに母も妹を叱ったが泣き喚くのが隣近所の迷惑になるのであっという間に妹をなだめるのに切り替えた。帰宅した父は「そうか」とだけ言って、後日子供のおもちゃのようなオルゴールを買ってきた。プラスチック製でアニメの女の子の絵が描かれたものだった。

 そういうことじゃない。

 そういうことじゃないのだと。

 ずっと無言で顔を険しくしていた私に、母親は凄まじい顔で「ありがとうは?」と詰め寄った。お父さんがあなたのことを可愛そうに思ってわざわざ買ってきてくれたんでしょう? うれしくないの?

 私は、私の宝物を奪われて捨てられて、別に欲しくもなかったものを与えられたら笑顔で満足して喜ばなくてはならないのだ。

 あの瞬間に、私の心は家庭と断絶したのだと思う。

 小学校は好きな場所ではなかった。担任と折り合いが悪すぎた。事故で目を傷つけられた後眼鏡が手放せなくなり、妹やクラスメイトたちからはメガネザル、ぶさいくと馬鹿にされるようになった。

 私は家出することばかり夢想するようになった。自由になりたかった。全て捨てて行きたかった。私の心を蔑ろにする全てから解き放たれたかった。誰のことも信じていなかった。

 そんなある日、夢を見た。

 おてんとうさまという化け物にとり憑かれる夢だった。

 最初は怯えた。夢の中で必死に走って逃げた。ついに転倒してとり憑かれた。だけれど背中に貼り付いた彼が、どうしてそうなってしまったのかの経緯を聞いて、私は彼に同情したのだ。辛かったろう、痛かったろうと。お家に帰ったらお父さんとお母さんに頼んでお水をあげるね、と。盛夏のころに亡くなったならば、たいそう暑くて喉も乾いていただろうと。

 そうしたら彼はこう言ったのだ。


「ありがとう、俺が助けてやるからな」


 そして、目が覚めた。

 おてんとうさまは確かに化け物のような姿をしていたけれど、誰よりも私の言葉を聞いて理解してくれた。彼が一番優しかった。彼だけが私の味方だった。小学校が失火で焼失したあとしばらくして父の仕事の都合で転居し、数度の移転を経て再びその地の近くに舞い戻った。

 おてんとうさまは人の悪意のようなものを栄養源としていた。だが食べるためには条件があって、何かの囲いを通して見たそれが転んだ場合に限られた。そして私にとり憑いたおてんとうさまがそれを見るためには私の視覚を通さなくてはならない。

 都合がよいことにその格子状の役割を果たしたのが私の眼鏡だった。といっても他人の中にある悪意などそうそう見極められない。学校にいる子供たちが無邪気な悪意の塊であることは分かっていたけれど、そう都合よくターゲットが転倒する場に居合わせられるものでもない。

 状況が一変したのは、両親が買ったPCを自室に置くことに成功してからだった。

 基本的には家族共用なのだがリビングには置き場所がなかった。よって設置部屋には家人全員が自由に出入りすることが前提になる。妹はこれを嫌がって自分の自室に置くことを拒否した。

 結果的に両親は大して使わないし妹も部活に夢中で興味を示さなかったことでほぼ私の専属機のような扱いになった。しかも当時はPCを利用するのは気持ちの悪いオタクだというのが世間一般の常識だった。

 私はネット上で氾濫していた掲示板に入りびたり、そこで悪意を吐き散らしている人々の情報を探した。PCの枠と液晶もまた格子の役を果たしてくれた。


 そして彼らの文章は「横書き」で綴られていた。

 彼らは初めから転倒していたのだ。

 横書きで記された悪意や怨詛は格子越しでおてんとうさまに目され次第即書き手と結縁する餌下えげの誓約となる。悪言を晒すという愉楽は正に香餌こうじであり、その下には死魚しぎょが潜む。〈怨恨〉の発動条件に知らなかったは通用しない。


 ネットの掲示板を私が閲覧するだけで、おてんとうさまは餌を集められる。大きく強くなってゆく彼と私は最早一心同体。他の人間なんてどうでもいい。いや人間なんてどうでもいい。彼と一緒にいられたらそれでいい。

 彼は高度経済成長期に、博打と酒で身を持ち崩し、家族も失った社会不適合者だった。そして本質的に彼と私は似ていたのかも知れない。だから彼は私にとり憑いたのだろう。


 社会とうまく関われない。

 語りかけた言葉が、誰にも届かない。

 私たちは、他者に失望していたのだ。


 進学と同時に実家を離れるのに成功した。

 大学在学中はまだよかった。だが就職で完全に私は敗北した。ギリギリで引っ掛かった職場は職種とも職場の人間とも適合できず、心身を壊して帰郷した。

 進学と同時にうまく決別できたはずの両親の元に舞い戻らなくてはならなくなった苦しみは重かった。彼らから浴びせかけられる侮蔑の眼差しはずいぶんと応えた。

 そんなある日、ふと気が向いて、おてんとうさまとの出会いの経緯を掲示板に匿名で書きこんだ。それに対してレスポンスがきた。

 それが黒鶫だった。

 彼はおてんとうさまの大元――テンゴのことを教えてくれた。そして私がおてんとうさまとくっつく以前には彼がおてんとうさまを守って〈怨恨〉を与えて育てていたのだと言った。


「今はもう貴女と切っても切り離せないような状態になっている。どうでしょう? 私と組みませんか? 彼をより大きく育てるためにおてんとうさまを信仰する教団を設立するというのは」


 黒鶫の言い分に嘘が多分に混じっていることは、おてんとうさまが教えてくれた。黒鶫は見込みのある人間を依り代にしてこれにおてんとうさまを憑けて〈怨恨〉収集の道具としていたのだ。彼、つまり日向の時には建設時の事故で亡くなる直前だった彼の魂を依り代にし、学校そのものにおてんとうさまを憑けた。


 ――この男、俺に〈怨恨〉を集めきったら次はお前を依り代にしてお前を俺に獲り殺させる気だ。厭だ。俺はそんなことはしたくない。


 彼の言葉で私の心は決まった。

 依り代が得られたなら、彼と私は二つに分かれることができる。

 彼と私は、正面から向き合えたことがない。

 顔を見たい。抱きしめたい。

 一緒に生きていきたい。

 だから黒鶫の結婚と教団の設立の申し出を受けた。

 黒鶫の身体を奪い取るために。



 黒鶫を見下ろしながらそう説明した秋帆は、ゆっくりと微笑んだ。

「貴方の身体も人に用意してもらった仮の身体なんでしょう? 二十年も我慢して待ってたんだから、いい加減それちょうだい」


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