第32話


「どうぞ」

 マスターが供したカフェオレを前に、良也はにっこりと微笑んだ。

「ありがとうございます。すごくおいしそうです」

 同席した面々は、それぞれカウンターに腰を落ち着け、少年と相対するアスラの様子を見守る。

 アスラの表情は、明らかに普段と異なっていた。

 アスラはネイビーブルーの猫耳パーカーを着用している。そして本人自身も猫に似ている。しかし普段はそれなりに人間らしく見えるよう振る舞っている、彼なりに。

 しかし、今のアスラは違った。明白に何かを刈り取ろうとしている獣の目で目の前の少年を見据えているのだ。

 滝沢はカールの掛かった色素の薄い髪を耳に掛けつつ、ちらりとソファの上に座るタマエを見た。こちらもまた、無言のままじっと少年を見据えている。

 良也少年が来店した瞬間、アスラが「最高の苗床が自分で歩いてきた」と発言したのを全員が耳にしていた。つまりこの少年からは良質な〈悔恨〉が得られると見なされたということだ。

 アスラの目の前にはドリアが供された。湯気を立てた出来立てのそれに普段の彼ならば間髪入れずフォークを突き立てたことだろう。しかし今の彼はテーブルに両肘をつき、組んだ手指の上に顎を乗せたまま動こうとしない。

 ちりりん、と少年の胸で鈴が鳴った。

「それで、どういった相談かな。相談に来たんだろ?」

「はい」

 良也はにこりと微笑むと、カフェオレを一口飲んでからことりとソーサーの上に戻した。

「相談を受ける場合のルールは知ってるよな?」

「はい。支払いですよね。近くお金は入る予定なんですが、今はまだ手元にありません。後払いではだめでしょうか」

「いいよ。特別に許可する。で?」

「僕、今彼女がいるんですけど、その子で仲良く楽しく暮らしたいんですが、今の状態で問題はありませんか? 邪魔とか障害になりそうなものは排除しておきたいんですけど」

 アスラの喉の奥から「くくっ」と笑いがもれた。

「じゃあ結論からいくけど、それはムリだね」

「えー、だめですかぁ? なんとかなりません?」

 いかにも残念そうな上目遣いでアスラを見る良也に、「ダメっすねー」とアスラの返答は軽い。

「彼女さあ、母親から引き継がされた因果の負債がデカすぎるのよ。寿命も半減で末代確定だし、進学借金苦からのお水落ち、からの客との不倫が奥バレして慰謝料払えず無理心中ルートに矯正かかっちゃってんだわ。それでようやくチャラなのよ」

 ぱちくりと良也は瞬いた。アスラは心から満足そうに笑って俯いた。それから顔を上げて奥の面々にちらと目を向けてから再び良也を見据えた。

「君がきてくれたおかげで大半の謎が明らかになったから、それも支払いの一部に充当するものとして扱うけど、ここにいるのは全員ぼくの仲間だから、皆にもわかるように説明するけれど、いいね?」

「はあ、それがルールなら構いません」

「結構。まず、君がぼくの相談のことを知ったのは、その彼女の母親からだね」

「はい。故人ですから直接ではありませんが」

「それが桑名春絵だね」

 奥で誰かが「は⁉」と声を発する。

「はい、そうです。僕の彼女は桑名信絵さんです。亡くなった母親の後始末……あの亡くなったことを各所に連絡しなくてはならないというので、その手伝いをする時に日記を見ました。そこにあなたとの間であったことの経緯が書かれていたんです」

「こんなヘンな話、疑わなかったんだね」

「亡くなる直前に春絵さんが、僕の顔を見てあんまりに怯えていたから、おかしいなとは思ったんですよね。でも日記のおかげで納得できました。春絵さん、あなたから来世が僕の母親になると聞かされていたから、僕に『お母さん』って言われて絶望したんでしょうね。行いを正しくすれば父と結婚する来世は回避できると思ってたのに、クリティカルヒットで僕にお母さんって言われちゃったんだもの。僕、顔だけは父にそっくりだから。僕は、信絵さんのお母さんっていう意味で言ったんですけどね」

「君、信絵の部屋に残されていた、山路秋帆のPCの中身見たね?」

「はい。秋帆さんが残されていた小説とかイラストを見ました。自分を悲劇のか弱いヒロインにして、それが最強の化け物に溺愛されるっていうエロ小説がいっぱい残ってて気持ちが悪かったです」

「その化け物の名前は」

「おてんとうさまでした。大昔に掲示板? とかいうのにその化け物と出会った経緯の書き込みをしていたのも、それを切っ掛けに知り合った黒鶫っていう旦那さんとのことも、二人の間でのやりとりのことも全部データにして残してありました」

「黒鶫、それ全部消せって指示してなかった?」

「はい、していました。でも秋帆さんにはエロいラブなメモリーだったらしくて、もったいなくて消せなかったみたいです」

「謀らずのファインプレーだぜ秋帆ぉ」

 アスラの表情が輝く。

「それで、その黒鶫って人に、貴女は特別でおてんとうさまに愛されていて貴女自身にも特別な力がある、たくさんの人に崇められるべきだ。ついてはおてんとうさまの御力を世間に周知させて宗教団体を設立しようと」

「やっぱりそれが天道会てんとうえ教か」

 奥で愕然と呟いた志賀に、アスラは「ああ」と頷いた。同じくちらりと視線を志賀へ向けた良也だが、すぐに椅子を引きつつ姿勢を戻して「実は」と切り出す。

「僕の父方の祖母も、このおてんとうさまを信仰していたんですが、どうもわりと早い時期から黒鶫さんて人と関りがあったみたいで」

「だろうな。黒鶫が秋帆との結婚の挨拶に来た時に、その横についてた母親ってのが小峰っちのばあちゃんだ」

「へ?」

 マスターがシンクの中でごとんとグラスを取り落とす。アスラは「春絵の記憶で見た顔と、小峰っちのばあちゃん、同じ人間だ。母親のフリしてたんだよ」と繋いだ。

「そもそも、小峰っち、あんたのばあさんがだったんだよ」

「はあ⁉」

 奥で全員が声をそろえるのに、アスラが顔を苦く歪めた。

「さっき川端もさ、おてんとうさまは秋帆にたどりつくまでに乗り継いでたって言ったじゃん? 小峰っちのばあちゃん、他の家族はみんな死んでんだろ?」

「はい。祖父も、父の兄も、姉も、祖父の弟も、曾祖母も、皆死んでました。仏壇にも痕跡が残っていません。だから生き残っているのは今のところ、祖母と、僕だけです」

「そいつら全員、おてんとうさまの餌になってんな」

「ああ、そうなんですか? じゃあ、父はなんで死ななかったんだろう?」

「黒鶫の子だからだろう」

 ひゅっと音を立てて、マスターが息を吞んだ。他の面々も愕然としている。

「え、僕のお父さん、祖母が不倫してできた子なんですか?」

「ああ。だから殺されてないんだろうよ。ばあさんよっぽど嫁ぎ先の小峰で酷ぇ扱い方されてたんだろうな。仏壇空にして乗っ取るぐらいだから相当だ」

「ああ、なるほど」

「黒鶫からしたら、小峰っちのばあちゃんからは獲れるもんは全部取ったってとこだったんだろうな。だから、その次に移った」

「次ですか」

「小峰っち、自宅は天道会てんとうえ教の合宿場の近くだろ?」

「はい。昔はそこに小学校が建っていて、その建設時によく現場作業員の人が祖母の作る弁当買いにきてたって言ってました。祖母は店やってたんで」

「その出入りしてた中に日向某がいたんだろう。そいつは事故に見せかけて黒鶫に殺されて、魂に直接おてんとうさまを憑けられ学校の中に安置された」

「安置って、どういうことですか?」

「建物の為の人柱魂にされたってことだ。黒鶫は、なるべくたくさんの人間から〈怨恨〉を集めることにしたんだろ。小学生なんか、よく転ぶからな」

「転ぶ、ああ、転ぶといいんですか」

「転ぶというか、転ばせることができたらそいつは自分のものにしていいっていうルールがあるからな、おてんとうさまには。ただ、それも無差別にじゃない」

「どういうことですか?」

 背後から「ああ」と声がもれた。川端のものだった。

「格子を通してみること、ですか」

 アスラは頷いた。

「ああ。それがテンゴの見ていた景色だからな。認知していた状態がルールの中に組み込まれたんだろう」

 川端が眼鏡の奥の表情を曇らせる。

「小峰さんのお婆様のことは分かりませんが、日向某の場合は建設現場ですからね。格子状のものなんかいくらでもあったでしょう。コンクリートを流す時に、鉄筋を格子に組んでいたりもしたでしょうし。それから秋帆さんの場合は女子トイレだ。その時代の壁なら、タイル貼りになっていただろうから、それも見た目は格子様になる」

「なあ」と志賀が口をはさんだ。

「秋帆がおてんとうさま憑きだったなら、春絵が毛玉付きだったのは」

「うん。あれ自発〈怨恨〉じゃなく、おてんとうさまを憑けられていたんだろうね。姉妹だもん。格子状じゃなくても、四角い隙間ごしに転ぶところを見る機会なんていくらでもあったろうし」

「じゃあ、死んだ旦那も」

「それは、ぼく確かに見たの思い出したよ」

 アスラはピンクの前髪を掻き揚げると、にやりと笑った。

「賢介が春絵のパソコンの中に見つけた、小峰っちのパパとの愛のメモリーの写真。格子状にきれいに並んでた」

 格子格子格子。

 全ては、格子だったのだ。

 おてんとうさまが、いや、テンゴが笑う。口の中いっぱいに何かを貪って、それを落とさないように、左右から両手で口元を覆って。もごもごと呟く。


 ほうりきほう、りきりき。


「なあ小峰っち」

 アスラの呼びかけに、良也は「はい」と答えた。

「お前さっき、生き残ってるのは祖母とお前だけって言ったな?」

「はい」

 アスラの目の瞳孔が、縦に狭まった。

「お前、父親と姉、殺したな?」

 良也は明るい表情で「はい」と間髪入れず頷いた。

「だって僕を置いていこうとするから。でも事故ですよあれは。その保険金であなたへの支払いをしようと思っていたので、一応受け取り手として祖母にはまだ生きててもらわないといけなくて。だからまだ殺してません」

 くすぐったそうに笑うと、良也はカフェオレを手に取り嚥下した。


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