第27話


 いつから世界はこんな風に変わってしまっていたのだろうか。

 早退を頼んで頭を下げる春絵の前で、パート先の上司がくどくどと説教を垂れる。急いでいるのに終わらない文句に焦燥ばかりが湧き出てくる。俯いたままそれを聞いていた春絵は、ちらと視線を上げて、その黒い毛玉に飲みこまれそうな醜怪な物体を見た。

 早く、早くここを出なくてはならないのに。

〈怨恨〉が、湧く。



 この世には、はじめから真っ当な人間は存在していなかったのかも知れない。

 いや、そもそも春絵が生きてきたこの世が地獄だったのだ。

 今や春絵が目にする全ての人間は、その身体のどこかに必ず黒毛玉をくっつけている。多い少ないはあっても、全くない人間などほぼいない。テレビを見ても皆そう。写真を見ても皆そう。著名人なんか特にそう。

 たまに見かける、毛玉をファーのようにまとった母親が押すベビーカーの中にいる赤ん坊だけが、まっさらの人間だった。

 賢介の死後、遺骨を受け取ってから、しばらくのあいだ春絵は、ただ茫然とベッドに横たわって過ごす日々を送った。

 どうしてこんなことになったのか。

 自分の人生は、いったいどこからおかしくなってしまったのだろうか。


 ――馬鹿なんだから。


 姉の声が聞こえた。

 そうだ。高校の時部活に熱中し過ぎて成績を落とし、両親に部活を辞めさせられた春絵は怒りを持て余していた。自室で怒りくるっていた春絵は、友人に会おうと部屋を出た。あまりに頭に血が上っていたから、部屋から出た瞬間、春絵は足をすべらせて――転んだのだ。

 背中を廊下で、頭を壁で打った。すごい音がした。息が止まるかと思った。

 ぎい、と音がした。

 薄目を開けてみると、姉が自室の扉を薄く開けて、そこから春絵のことを見下ろしていた。眼鏡の奥から冷たく暗く淀んだ目で。醜い顔と身体と。

 真っ黒な影を背負って、狭い四角い隙間から。


「転んだわね。馬鹿なんだから」


 寝台の上から、ちらりと寝室の端の机の上のパソコンを見た。力尽きてベッドに横たわるまで、春絵は古い写真データを消去していた。あの小峰との写真を。

 並ぶサムネイルは、まるで、障子の向こう側に過去が並べられているように見えた。

 小峰の写真を消し去り、残ったのは家族の写真だ。賢介が、信絵が、春絵が笑っている。

 どうしてこんなふうになってしまったのか分からなくて、ふと、結婚前のことを思いだした。

 地下のバーで相談にのるという、ネイビーブルーの猫耳パーカーの少年のことを。

 そうだ、とがばりと起き上がった。アイツだ。アイツにあの時、春絵は代金を払わなかった。

 そのせいかと気付いて、急いで金を下ろしに行った。あの日言われた金額は、一度でATMで下ろしきれない額だったから、数日にわけて用意した。今回も相談になるだろうからと、倍の額を用意していった。

 そして、異様なものを見せられた。

 もう、どれだけ怨んでも小峰に関わってはいけない。あの男に直接怨みを晴らそうとしてもいけない。そんなことをしたら、また小峰と関わらなくてはいけなくなる。来世であんな男の妻になんて絶対なりたくない。

 それで――どうしたら善い行いをして、これまでのことを帳消しにできるか考えたのだ。そうしてアスラが春絵の背後をフォークで指して言ったのを思いだした。賢介が、春絵の後ろにいると。小峰の妻に――もしかしたら、来世の自分かも知れない小峰の妻にとり憑かれてそこにいるのだと。

 賢介。けんちゃん。あなたの思いに応えられたら、あたし、あなたに許される?


 そう思った春絵が向かったのは、あの教団だった。

 奇しくもあの教団は幼少期の春絵が暮らした地区にあり、それは現在の実家からも一時間ほどの距離にあった。それで都心郊外に買った家を売り払い、信絵と共に実家へ移り棲むことにした。

 仕事を辞めたのは痛手だったが、教団の近くに行くことが最優先だった。碌な職場が見つからず、今のパート先に落ち着かざるを得なかったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 あの日、春絵達を出迎え案内した信者の男は、春絵を手厚く迎え入れてくれた。真っ黒な毛玉の塊なのは相変わらずだったが、それもどうでもよかった。

 賢介に見えていた救いと自分も一緒になれたら、救われる気がした。彼を理解してあげたかった。赦しを請いたかった。

 信仰対象は、おてんとうさま、という名で呼ばれていた。

 出家信者達は、春絵の予想よりも多かった。二百人近くが、あの格子に囲まれた建物の中で暮らしながら、おてんとうさまを篤く信心して暮らしていた。皆揃いのせいへき色の作務衣を纏っていた。

 在家の形をとった春絵は他の信者達に混ざり、あの、青く黄色く赤く染まった、傷だらけの顔面を持つ男の姿絵を拝み続けた。

 拝むためにしなくてはならないことは、ただ一つ。正座をして姿絵に向かい、両手を口の前で左右から重ねて口を覆い、こう唱えて、ころりと横に転がるのだ。

「ほうりきほう、りきりき」

 意味は知らない。そういうだけでいいとあの男に言われた。

 簡単だから、何回でもくり返せた。

「ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき」

 何度でも繰り返して、絵姿に向かって、右に左に転がった。

 ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。

 ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。

 ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。ほうりきほう、りきりき。

 そうすると、なぜだか心が軽くなる。背中を覆っていた冷たくてざわざわとしていた蠢きが消える。顔を上げると周りの信者達を覆っていた黒毛玉が外れてゆく。そしてそれが祭壇の絵の中へ吸い込まれてゆく。

 ああ。それでかと合点がいった。春絵の頬を涙が伝う。わかった。賢介は本当にこのおてんとうさまに救われていたのだ。

「けんちゃん……あたしのこと怨んでるよね。ごめんね。分かってあげられなくて、ごめんねぇ」

 あたしも、おてんとうさまといっしょになるからねぇ。



 ――そしてこの日、信絵の通う中学校から春絵のパート先へ電話がかかってきたのだ。

 信絵にそそのかされたクラスの子供達が、ひとりの女子生徒にカッターで襲いかかって怪我をさせたのだという、担任からの電話だった。

 どうしてそんなことになったのか。

 なんとか上司の説教を切り上げて、慌てて駆けつけた春絵が校長室に通されると、そこに信絵はおらず、担任と名乗る毛玉の塊と、毛玉のヅラを被った校長が待ち構えていた。

 信絵は母が連れ帰ったという。

 担任いわく、ケガをさせられた女子生徒には妄想癖に近いものがあったらしく、実在しない神らしきものを信じているという発言が度々あり、これに信絵は過度なストレスを感じていたそうで、周囲の人間を先導して、この女子生徒を苛めに苛め抜いていたらしい。

「あの、お父さんが亡くなられた経緯について話を伺いまして、おそらく信絵さんはPTSDのようなものを発症しているのではないかと私には思われました。それから……あの、こう言ってはなんですが、お母さんが現在、その、お父さんが亡くなられた教団に入信してらっしゃることが信絵さんのストレスに拍車をかけていたようで」

 担任の言葉に、春絵は頭の中が白くなった。

 次いで、ごぼりと噎せた。

 息ができない。喉の奥に何かが詰まっている。吐く。そう思った瞬間、口の中から、全身から、黒毛玉が湧いて春絵の全身と視界の全てを覆いつくし――気を失った。


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