第26話


 母の運転する中古の軽自動車の後部座席で骨壺を抱いた信絵のぶえは、吐き気と涙でいっぱいになりながら、父を嫌悪しさげすんだ。

 こんなに何にもならない物ばかりを残した男を、そして父をそう変えてしまったあの不気味な教団を呪った。

 十二歳の少女の手で抱えるには重すぎる感情だった。



 父が家から出て行ったのは半年前のことになる。そして昨日の夜、自発的に始めた断食業のため餓死したという通達が信絵のぶえの自宅へ届いた。

 そして今日、信絵は父のわずかな所持品を引き取ることを許されて、母と共にこの不気味な教団の合宿場へ出向いたのだ。

 合宿場は、M県の山間部にひっそりと建設されていた。

 信絵には見知らぬ土地だったが、母の運転に迷いはなかった。なぜ母に土地勘があったのかと思っていると、母がまだ未就園児であったころに、祖父の転勤の都合でその近隣に住んでいたことがあったのだと答えた。

 幼稚園に上がる前なのに、土地勘など残るものだろうか? と、信絵は一瞬訝しんだが、母はそれ以上何も答えなかった。

 母は、最近よく目を眇めるようになった。瞬きをくり返し、その表情は胡乱だった。信絵自身も、日に日に自分の家族がおかしくなっていっていることには気が付いていたし、生活が傾いていることも察していた。真面目で優しかった父は狂い、母もそれに付随するようにして、心身を消耗していた。

 車が山を上りはじめたあたりから、周囲の騒めきが酷くなった。細く、また舗装の傷んだアスファルトは走る車体を揺する。信絵も、自分が今どこへ向かっているのかは理解していたから、全身を覆うような焦りと恐怖と嫌悪感に吐き気がしていた。

 道路の左右から覆いかぶさってくる木々が黒くてうるさかった。ざわざわと、ざわざわと、枝葉がじっと信絵達を見降ろしている。


 気持ちが、悪い。


 車を降りた先に見えたのは、異様な建物だった。

 見える全面の壁が木造の格子でできていて、その上に切妻型瓦屋根が乗っているという巨大な平屋だった。

 信絵と春絵の前には、すでに案内が一人出迎えに立っていた。

 信者と思しき僧形のその男は、穏やかで幸せそうな微笑みを浮かべながら合掌している。左目の下にある、その小さな泣きぼくろが、やけに目障りに感じられた。

 男は建物を指し示し、信絵と母を導いた。駐車場の砂利を踏み進む足がやがて建物へとつながる敷石に乗る。進んだ先にたどり着いたのは、まるで牢屋の入り口のような、やはり格子戸だった。彼はそれを開くと信絵達を中へ引き入れた。

「ぐっ……」

 思わず信絵は喉を鳴らして鼻と口元を手で押さえた。

 開かれた先を目にして真っ先に感じたのは「生臭い」という感覚だった。そこで信絵達を待ち受けていたのは、まるで化け物の内臓のような薄闇だった。

 入り口から続く一本道の細い廊下も、やはり左右が格子となっていて、その奥の空間は、なぜかひたすら闇の底のように黒い。ぞっとして一瞬信絵は足をとめたが、案内の男も母も躊躇することなく先へ進んでいる。慌ててその後ろに続いた。

 そして、それらの格子の、壁も戸も見分けのつかぬ一か所で男はとまり、格子の一部分に手をかけた。

 ぎい、と音を立てて、戸が開いた。

 父親に与えられていた、そのたった三畳ほどの個室には、一枚の絵が飾られていた。青く黄色く赤く染まった、傷だらけの顔面を持つ化け物のような男性の絵だった。特に、その右目が激しく損傷していた。つまりそれが信仰対象の何かだったらしい。そのあまりの不気味さに、信絵はぞっとした。

 男の説明から、大部分の金銭になりそうな物はすでに団体に吸収されていたとわかった。残っていたのは分骨された骨壺と、家族あての手紙と結婚指輪一つ。手紙に記されていたのは、如何いかにこの教団の教えが素晴らしい物であるかということと、それを受け入れてくれなかった妻と娘に対する恨み節だけだった。

 泣きぼくろの男は、口を開く。

 彼は強い意志の元、おてんとうさまとの結縁けちえんに至ったのです。素晴らしいことなのです。それも全てはおてんとうさまの慈悲深いお導きによるもの。それにつけても無念なのは、ご家族の皆様がこの素晴らしい輪にいまだ加わっていらっしゃらないことで云々――と、延々と悪夢のようなBGMを続けた。

「だったらお前が死ねばいいのに」

 思わず本音が口からこぼれたかと信絵は慌てたが違った。かっと見開いた目からぼろぼろと涙を零しながら、母が彼を睨んでそう言っていたのだった。

 しかし、その泣きぼくろの男は、相も変わらずにっこりと微笑むばかりで――その不気味さに、信絵のぶえは総毛だった。



 急にがたんと車体が揺れた。あわてて信絵は父の骨壺を胸に引き寄せる。

 帰路を下る車中。頭がぼうっとしてうまくものを考えられない。ただただ直前までにあったことをリフレインするだけで手一杯。母も何も言わない。静かな車中には音楽も流れていない。

 ――いや、何か言っている。運転の振動で揺すられながら、母が小声で何か言っている。ぶつぶつぶつと、ほんのり身体を左右に揺すりながら。

「おかあさん……?」

 小声で信絵が呼びかけるも、母は反応しない。

 道路の左右から木々が覆いかぶさっている。ざわざわと、ざわざわと、枝葉がじっと信絵達を見降ろしている。母が呟いている。



「ほうりきほう、りきりき」



 ざわりと寒気がした。

 常識が、当たり前の日常が崩れてゆく音がした。


 まだ生活が順調だったころ、自分達の家族は仲が良くて思いやりに満ちあふれていて、本当に絵に描いたような親子だったと思う。

 都心から二時間の住宅街に一軒家を持ち、両親は共働きで普通車を二台所有。一人っ子ゆえの我儘さは多少あったかも知れないが、それでも両親を困らせるようなことは一切しなかったと思っている。平均より上の成績を維持してミニバスケットチームでも花形選手だった。

 それがこんなにも簡単に崩れ去る。

 あのリストラ以降の生活の中で、信絵のぶえは自分という人間の器の小ささを、その本質的な卑怯さを嫌というほど思い知らされた。絶望した。優しさや寛容さなど自分は何一つ持ち合わせていなかったのだ。あれは単に、父とその会社から与えられていた金銭的余裕があったからこその仮初のものだったのだ。

 失望したのは世界に対してだったか。

 それとも信絵自身に対してだったか。

 母の呟きが止まらない。


 ほうりきほう、りきりき。


          *


 それから信絵のぶえは、母と共に母方の実家に身を寄せることになった。母の実家には、祖父母が存命だったが、決して母とも相性がいいようには思えなかった。そこからの生活は、それまで以上に肩身の狭いものとなった。父の遺骨は、母の部屋の学習机の上に乗せられたまま納骨される気配もなく数カ月が過ぎた。きっと母は相変わらず毎晩父を見つめてベッドで眠りについているのだろう。だろうというのは、信絵は母の姉が使っていた部屋を使わせてもらうことになったからだ。母と同じ部屋で病んだ母の様子を見続けているのが耐え難かったから、頼みこんで部屋を分けてもらったのだ。

 現在の信絵は、十三才。公立中学の一年生だ。

 父の終の場所を見て以来、信絵のぶえは宗教的なものや非現実的な妄想に拒絶反応を起こすようになった。終末論も大戦争も、ハルマゲドンも預言の聖者も、とにかく父の記憶に繋がる全てのものを拒絶した。

 そんな内心を、信絵は転校して間もなく親し気に話しかけてくれた一人の男子生徒に吐露した。

 二学年上だった彼は、気の毒そうに同情を浮かべて微笑みつつ、「わかるよ」と信絵を抱き寄せた。

「――気持ち悪いよね。辛かったね。僕もああいうものは嫌いだよ。無責任な父親もまっぴらだ」

 その男子生徒もまた親に恵まれなかったのだと零した。彼は早くに母親を亡くし、一人では育てきれなくなった父親によって、その母親、つまり父方の祖母の下に姉と共に預けられていた。

「勝手な父親だよ。外にね、女性を作って、母はそれを苦にして自殺したんだ。あんな男みたいにはなりたくないし、心底軽蔑する。相手の女にもね」

 きれいな少年の横顔に、信絵は胸がしめつけられるような気がした。

「そうね。あなたのお父さんのことだけど、そんな人も、相手の女の人にも、罰があたればいいのに」

「ありがとう。そう言ってくれて。ほんと、あんなやつら死ねばいいのに。その女の家庭も、うちみたいにぐちゃぐちゃになってしまえばいいんだって、そう思ってるよ」

 放課後の夕景の中、彼はそっと信絵の手をにぎり、にっこりと甘やかに微笑む。

 少年の名を、小峰こみね良也りょうやと言った。

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