第22話


「ありがとうございましたー」

 マスターの声に重なるように、かららん、とドアの鐘がなる。

 春絵の背中がドアの向こうへ消えてゆくのを、アスラは頭だけ向けて見送った。その胸元で、ちりりん、と小さく鈴が鳴る。

「アスラー、店の中ではあんまり派手にやらんでくれよー」

 奥からマスターがぼやく声がした。

「うるっさいなー、わかってるって」

 投げ捨てるように返すと、アスラは椅子に座り直した。そんな少年のもの憂げかつ、だらしない様子に、マスターは眇めた目を向けてから、水滴を拭い終えたグラスを、かたりとトレーの上に置いた。

「なぁアスラ。ところでお前さ」

「うんー?」

 アスラが小首を傾げると、ちりりんと鈴が鳴った。


「さっき、なんであんな嘘ついた? 今世で反省して行いを改めりゃあ不倫相手の死んだ嫁さんには生まれ変わらずに済むって。――どう足掻あがいたって?」


 マスターの言葉にアスラは薄眼で鼻白はなじろんだ。

「まあ、ちょっとした優しい嘘ってヤツ? 僕さあ、あのオバさんには今世のやらかしを反省して真っ当に生きなきゃだめだよ、じゃないと来世エグいことになるよって、基礎ルールはちゃんと教えてあげたじゃん?」

「そこはまぁ」

「来世まで見せてあげたのは特別大サービスだよ。まあ、見せたのはのほうだから、実際はもっとエゲツない人生になるんだけどさ、そこまでハッキリ教えちゃったらかわいそうじゃん? あのオバさん、ほんと頭悪すぎなんだもん」

「ひっでぇ言い草」

 片頬を引きつらせながら、マスターはステンレス製の大鍋を流しにおいた。じゃーっと勢いよく水が流し入れられる。

「あっ、なに作んの?」

「ベーコンとほうれん草のパスタ」

「デザートはー?」

「茹でたさつま芋とホイップクリームをライスペーパーで巻いたやつ」

「でたー、マスターの謎創作料理!」

 アスラはだらしなく全身を投げ出すような座り方をしてから、唇を尖らせた。

「本来はさ、何をやらかしても、やらかしたことの意味を自覚して心底反省してれば、罰は今世のうちに自然とめぐってくるもんなんだよ。その始末を自力でつけられれば、予定されている来世を生きられる。――でもさ、僕に相談をもちかけて、らどうなるか、マスターだって知ってるじゃん?」

 しかめっ面をしたマスターは、口の端を苦く歪めた。

「因業因果は巡るもの。今世の不始末解消不足は満額そのまま来世に持ち越し。宵口頼れば阿修羅が招く。横紙破りの強行突破は転生利息で倍のツケ――全く、この世のことわりってのはエグいもんだな。あの人、今世も来世も本来予定されていたもの以上の地獄で確定ってわけか」

「まあ、どう考えてもそうなるだろうね。反省しただけでやらかしがオールグリーンになると思ってるあたりが、そもそもお察し案件てヤツ? 反省は個人的内証の問題であって、損害を被った側の補填には充当しねぇっての。大脳辺縁系フラワーガーデンかよ」

 アスラの口元に、きゅっと酸っぱそうな笑みが浮かんだ。

「ぼくから情報を得るって裏技チートは、そもそもタダじゃないワケで、ついでにこの世には利息ってモンがあるのよ。あのオバさん、初回相談時に聞くだけ聞いといて支払い踏み倒してるんだもん。今回の分との合算だけで済むはずないじゃん。ほんと、タマちゃんなんであの人通しちゃったのかなー。あんな身勝手なオバさん、金額聞いたら踏み倒すの目に見えてただろうに。地獄のおかわり不可避じゃん」

 バカンと音を立ててマスターが棚の扉を開く。中から取り出された塩が、心持ち多めに鍋の中へ投入される。

「そりゃあ、アレだろ。気に入らなかったんだろ、タマちゃんも」

「あーまーね。しめたね、アレはワザと」

 アスラは小首をかしげつつ、肩をすくめた。

「ほんっと、因果の始末が自分一人で片付くもんだと思うなんて、人間はえらく傲慢ごうまんになったもんだねぇ」

 マスターの細い指先が、トレーに仮置きしていたグラスを取り上げる。完全に乾き切るのを待っていたらしいそれを、ガラス戸の棚に戻し終えると、何を思うのか読み取りにくい眼差しで、カチリと閉ざした。

「――やっぱり、あの人自身で始末を付けきれなかった分は娘にいくのか」

 戸棚に顔を向けたままのマスターを、アスラはちらとだけ見た。袖をまくり上げた白シャツの上に、重ねた黒のベスト。華奢な中背が隠しきれていない同情に、アスラは小さく溜息をついた。ぼこぼこと湯が沸いていた。

「うん。一部は旦那が死を持って支払ったけどさ、それでも足りない。それくらいね、役満ってまずいのよ」

「……中身については聞かない方がよさそうだな」

「自分の心身の平安を守りたいならね」

 マスターは溜息のような笑いを零すと、振り返り手に掴んだ乾燥パスタを湯の中に縦に落とした。

「んー……ただねぇ」

 と、アスラが小声で呟いたのを、マスターは耳ざとく拾い上げて目を向けた。

「ただ? どうした?」

「あのオバさん、昔は黒毛玉見えるヒトじゃなかったハズなんだよね。……この十三年の間になんかあったかにゃー?」

 口元を手で覆いつつ、僅かに俯くアスラを見て、マスターはうすら寒いものを感じた。

「気になるようなものなのか?」

「んー……いやまあ、うーん……」

 とぼけた調子で唇を尖らせる少年を前に、マスターは腕組みする。

「なんだ、気になることがあるなら志賀しがさん呼ぶか?」

「そうねーって、あっ、やべ。志賀で思いだした。振り込み行かなきゃ」

 ががっと音を立てて椅子から立ち上がると、アスラは足元のケースに落としていた、がま口型のカバンを取り上げ席から離れた。

「お前パスタは」

「すぐ帰ってきて食うから置いといて!」

 そのまま外へ向かうかと思いきや、ふっと何かを思いついた顔でアスラは立ち止まり、マスターを見た。つつつとカウンターへ立ち寄ると「マスターちょっと」と自分の方へ呼びつけた。

「あ? どうした?」

 アスラの手が、カウンター越しにマスターの方へにゅっと伸びる。レジスペースの片隅に置かれていた小粒のガムをひとつ、指先でつまみとると、紙を外して口に放り込んだ。

 自分のではなく、マスターの口に。

 そして目を細める。

「おいし?」

「おれミントガム嫌いなんだよ」

 心底厭そうな顔で、しかしマスターは律儀に噛む。アスラは「知ってる」と笑ってマスターの鼻をつまんだ。

 しかめっ面でガムを噛みながら、マスターはアスラの頭をパーカーの上から乱暴になでた。アスラはそれからするりと猫のように逃げ出すと、自分の陣地であるテーブルを横切る。

「あっ、いけね。肝心なもん忘れてるわ」

 放りだしたままにしていた札束を、右手で無造作に掴むアスラの背中に「粗忽者ー」とマスターの声が飛んだ。

「じゃあ、空いてるうちに行ってくるねー」

「おう。早く帰ってこい」

 ネイビーブルーのパーカーを、ピンク色の髪の上に被りなおしつつ、アスラはかららんと鐘を鳴らして昼間の表に飛び出て行った。

 薄暗い半地下のバーを這い出た先は、明るすぎて少年の目を白く焼く。

 焼かれた影が、太陽に飲みこまれた。


          *


 百万円の札束が、あっという間にATMの中に吸い込まれてゆく。枚数を数え終わった結果が合致したのを見届けたあと、アスラはがま口型のカバンの蓋をパチンと締めた。

「はー、世知辛ーい。稼いでも稼いでも右から左だぜ。まったく」

 うーんと伸びをしながら、アスラは自動ドアを潜った。


「――残り一千六百万。がんばろ」


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