第21話


 真夜中のマンションは、まるでヘドロを閉じ込めたスライムのようにどろりとして救いがなかった。

 暗いよう。

 苦しいよう。

 辛い。痛い。息ができない。

 頭痛と吐き気が収まらない。

 床にくずれ落ちたまま、立ち上がれない。

「――……ああ」

 漏れ出た声は、それでおしまい。それだけしか、ない。それで、精いっぱい。

 火照ほてった全身を泥のようにおおう虚脱感。

 腹の内側をい上がる、焦燥しょうそうと、不快。

 茫洋ぼうようとした頭では何もまともに考えられない。

 ぐちゃぐちゃの髪が顔に幾筋もかかっている。びょうびょうと、け放った窓から吹き込んでくる雨交じりの風が、さらにそれを乱す。十一階のベランダから吹き込んでくるそれが激しいのは、対面に位置する廊下側の窓が開いているから。

 風の通り道。

 ゆっくりと、視線だけを上げる。顔を上げる気にはなれない。足腰もだるい。それで、本当に、精いっぱいなんだ。

 リビングのカーペットの上には、泣き疲れて暴れ尽くして、眠った息子が転がっている。五歳になった息子は、多分人よりも知能が高いけれど手が付けられない癇癪かんしゃくちで、今日も園から呼び出しをくらった。また、お気に入りの女の子の髪を掴んで蹴って怪我をさせたのだ。三度目ともなれば、菓子折りを下げて行ってもドアを開けてはもらえなかった。

 もう、怒る気力すらかない。

 入園前などは、息子のやらかした他害の実績があまりに多すぎて、周辺の支援センターから軒並み出禁になっている。旦那に助けを求めても蹴り飛ばされるだけだったし、預かってくれる両親もすでにない。義母も田舎に引っ込んだままで、娘ができたと報告した当初からずっと無関心を決め込んでいる。だからずっと独りでやってきた。やるしかなかった。

 びかっと稲光が走り、北向きのリビングの壁が一瞬明るく照らし出された。そこには一枚の絵が飾られている。四辺の枠が立体的に浮き上がった奇妙なデザインのA4サイズの絵。青く黄色く赤く染まった、傷だらけの顔面を持つ化け物のような男性の絵だった。特に、その右目が激しく損傷している。結婚に際して義母が干渉してきた事といえば、祝いとして送られたその絵を必ず家に飾ること。ただそれだけだった。気持ち悪いとは思ったけれど条件なら仕方ないと受け入れた。だがそれが間違いだったのかも知れないと今になって思う。

 奥の寝室では、上の娘も眠っている。

 りんりん、りんりん、と、か細い音で、時計が鳴るのが耳につく。

 五月蠅うるさい。やけに、五月蠅い。

 深夜二時。旦那はまだ帰ってこない。

 ――昔から、女癖は最悪だった。

 それでも、子供ができて結婚さえしてしまえば収まるものだと思っていた。

 考えが甘かった。

 娘ができて、しぶしぶ籍は入れてくれたけれど、そこから始まったのは酷いつわりと余儀なくされた退職だった。無職で家事もまともにできない、セックスもできない生きている価値のないブタだと、罵倒と嘲笑を浴びせかけられるだけの日々だった。

 あっと言う間に、病んだ。

 産婦人科で体重増加を叱られ続けても、過食を止めることはできなかった。

 泣いても、吐いても、旦那に踏みにじられた左手の小指が折れても、それでも背中を丸めて娘だけは守り抜いた。

 産後、あふれんばかりの母乳で体重は見る見る減り、切開の傷も治り切らぬうちに強制された性行為で身体はボロボロになった。眠れない。頭が働かない。たるんだままの腹が醜いと罵倒されながら、嘲笑あざわらわれながら、吐きだされた白濁の欲を飲む肉になる。

 あれ……?

 人生って、こんなものだったっけ?

 そんな風には聞いてなかったはずなんだけど。

 夫婦って、愛し合って支え合うものじゃなかった?

 そう零したあたしを見て、旦那はわらった。


「お前、寄生虫の分際で何言ってんだ?」


 希望って、簡単に死ぬ。

 息子を妊娠中に旦那がはじめた不倫は、しつこかった。

 おざなりな言い訳での外泊と、隠すつもりがあるようでない大きな出費。借金持ちの旦那が切り崩したのは、あたしの独身時代の貯金だった。

 多分、それなりにその女に対して本気だったのだ、旦那は。

 これまでの女にも、あたしにも、旦那は金を出さずに出させる方だったのに。

 その女だけは、違った。

 完全に駄目になる前に手を打とうとした。話し合いの場をもうけようと両親を呼び寄せた。こちらへ向かう道中、高速道路で発生した衝突事故に巻き込まれて、二人は同時に逝ってしまった。

 その女とは、話し合いをすることになった段階で、旦那は手を切っていたというのに。

 あたしのせいだ。

 あたしが、お父さんとお母さんに、来てって言ったりしたから。

 あたしのせいで、二人とも……死んだ。

 息子が生まれてから始まった無言電話は、しつこかった。その向こうに、女の呼吸が聞こえていた。あれは絶対女だった。旦那の別れた不倫相手だとしか思えなかった。だから、何度も何度も止めさせるように言ってくれと旦那に頼んだけれど、殴られて終わりだった。

 結婚さえ、してしまえば、幸せになれると思ってた。

 捕まえたら、何とかなると思ってたのよ。

 碌な給料も稼げない、頭もよくない、大して美人でもないあたしが、なんとかまともに生きていこうと思ったら、真っ当な結婚をすることしか思いつけなかった。

 馬鹿だから。

 鏡なんか、もう見なくても分かる。目の下には隈。乾燥してカサカサな部分と、あぶらでテカテカな部分が混じった汚い肌。たるみきったぜい肉。眉間によったままの皺。制御できない息子。無口になってゆくばかりの娘。また、適当な女を外に作って、帰宅すれば無能と罵倒し、殴りながら嗤って犯すだけの旦那。

 あれ、なんだっけ、これ。

 あたし、なんで、こんな、あれ。


 生きるって、こんなものだっけ?

 あたし、そんなに悪いこと、した? っけ?


 無言のまま、ふらりと立ち上がる。びょうびょうと風が吹きすさぶ。

 室内に吹き込む雨風。からりと大きく開け放った窓。肌にあたる雨滴がきもちいい。冷たい。ベランダへと、つるり、脚を、そう、脚、足、スリッパ、はかなくていいわ。

 どうせもう、

 いらない。

 最後の力を振り絞って、室外機の上に這い上がった。

 そして、ずるりと全体が転倒した。

 お、散る落ちる落ちる散る散る散る散る落ちる墜ちる堕ちる……‼

 心臓が爆発しそうな死への恐怖と意識の収束。やっと、やっとこの生き地獄から解放される。そして――あの電話の女だけは何があってもヘドロの底に沈めてやる幸せになんかさせてなるものか一緒に引き摺り込んでやるあたしと一緒にあたしとあたしとあたあたお前絶対周りの全部まとめてぶっ殺してや


 どばしゃっ。


 嬉しかった。

 アスファルトがあたしを吸い込んで、あたしを泥にして、あたしをあたしあた。


 黒い、これ、なに。





 BAR Neighborの中に、はるの絶叫が響き渡る。

 アスラの前で、全身から汗を拭きださせながら、春絵は叫び、そして噎せた。

 そんな彼女の様子を、鼻白はなじろみながらアスラが見つめる。

「――わかった?」

 小さなその問いかけに、「ひっ」と引き攣ったような悲鳴を上げて春絵が血走った目を向ける。

「あれ、君の来世。ああいう人生の幕引きになるの」

 ばたばたと、春絵の両目から涙が、その唇からは悲鳴がほとばしる。

いや――あんなの絶対いやよ……‼」

 春絵の絶叫に「はああああ」と、長い嘆息がアスラの口からもれた。

 呆れかえった美少年の顔は、ただただ残酷なまでにはるを突き放す。

「厭って言って回避できるならいいよね。でもさ、その厭っていう人生の最後のダメ押しをしたの、他ならぬオバさん自身だよ? わかってる?」

「わかってるわよ!」

 情けないくらいにバタバタと涙が春絵の目から零れ落ちてくる。

「でも厭なものはいや! あんな……あんなのはっ」

「もう、駄々っ子じゃないんだからさぁ」

 アスラは顔を盛大に歪めて、「いいい」と首を横に振る。

「ああもうめんどくさ! だから最初にやめとけって教えてあげたのに!」

「……ねぇアスラ」

「なに⁉」

「――もし、もしこの先、この現世でちゃんと反省して、ちゃんと生きていったら、来世は違う人生になるの? それで、やったことの罪を償ったことになる?」

 ぱたり、と、アスラのパーカーの猫耳が片方倒れた。

「……うん。少なくとも小峰こみねとは全く関りがない人生を送れるよ」

 だったら――そんなのもう、結論は出ているに決まっている。

「わかった。現世で償う。今ちゃんと済ませて、来世はあんな人とは関わりない人生送るわ!」

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