第20話


 春絵の顔と首が小刻みに震える。アスラの言葉の意味がわからなかった。しかし振りかえらない。振りかえれない。

 恐ろしくて。

 それが見えてしまうかも知れないことが、耐えられなくて。

「え、なに、旦那に、え?」

「だからぁ」

 うろたえるはるを前に、「飲み込み悪いなぁ」とアスラは嫌そうに首を横に振る。首から下げられた銀の鈴がちりりん、と鳴る。

「あんたが不倫した挙句にイタ電ラッシュかましたせいで、相手の奥さん産後欝とノイローゼで飛び降り自殺したんでしょ。しかもおりしく奥さんのご両親、交通事故で死んでんの。ほら、あんた達がお別ればなしした例の家族での話し合いにくるための道中でね。だからあんたの不倫相手ってば、一人で育児も家事も労働も全部引き受けなきゃなんなくなってパンクしたわけ。そんで金の無心にきたってわけよ」

「そんなの、そんな」

「そ、あんたのこと強請ゆすってらししてたんだよ、あのモラ親父。ほんと、あんたらって似合いっちゃー似合いだったんだよね。ま、ホテルに連れ込まれなかっただけマシだったんじゃないの?」

 バン! と春絵の両手がテーブルに叩きつけられた。

「あっ、あんなヤツと似合いだなんてふざけたこと言わないで! た、確かに一回やられそうになったけど殴って逃げたのよ! あっ、あんなヤツのぐちになんて二度となってたまるか!」

 ネイビーブルーの猫耳フードつきのパーカーの下で、アスラは嫌そうに――今度こそ本当に、心底からのあざけりを浮かべて――春絵をにらんだ。

「――逆上するってことは、自分でわかってんじゃん。あんたのマウントぐせだって、すべては不平不満のぐちなんだって」

「はっ」とひきつったような息が春絵の喉からもれ出た。

 アスラの軽蔑したような目が、「やれやれ」と伏せられる。

「あんた、ずっと他人の目にばっかり価値基準おいてさぁ、自分で自分の幸せについて、まともに考えたことがないのな。だから幸せになれないんだよ」

「そんなことない‼ ちゃんと考えたもん! だから馬鹿じゃなくてちゃんと稼げてまともな人と結婚しようって! それでがんばってきた! なのに……!」

 だめだ。止まらない。

 賢介の笑顔が、記憶が、あんなに素晴らしかったはずの結婚が、人生が、成功していた、勝ったはずの過去が、その証拠が、

 あふれる、くずれる。――本音がはじける。

「何で⁉ 何でリストラされて宗教に逃げて死んじゃうような弱っちぃ旦那しか回ってこなかったの⁉ こんなの最低! あたしちゃんとやってきたのに! こんなの不公平すぎるよ!」

 アスラの目に浮かぶ侮蔑ぶべつは消えない。

「ほーら、ちょっとつつけばゲロる本音のキッタねぇこと。勘違いすんじゃねぇよ。ちゃんとやってきてたのはあんたの旦那だ。あんたじゃない。あんたの旦那はあんたの悪業あくごうの巻き添えを食っただけだ。そのせいでわっかい身空で早々におっんじまったんだぜ? もうちょっとさぁ、さくさくっと理解して反省と懺悔でもしてやったらどうなの? 旦那と不倫相手の奥さんにさ」

 腕組みをしつつ、アスラは椅子の背もたれに身体を預けた。

「あんたがやったことはなかったことにはならない。その分の責任は自分で取らないといけないんだよ。じゃなきゃ――」

 ちりりん、と鈴が。



 きゅ、と音がした。

 マスターの手の中で、磨かれたグラスが音を立てたのだ。

 春絵の全身が虚脱する。「はっ」と、今度は春絵の唇から嘲笑がこぼれた。

「は? なに? 来世って、なんで急にそんなスピリチュアルな話になるワケ? 来世なんて、今のあたしには関係ないもん。そんな話――」

「いいの? ?」

「―――――は?」

 がつんと。

 春絵は、自分の心臓がなぐられたような衝撃をおぼえた。

「ちょ、ちょっと、あんた何言ってんの? あたしが? 小峰こみねの? なんで、あたし、今生きてる……え?」

 アスラは、「はああ」と心底厭そうな顔で首を横に振った。

「魂に関するシステムってね、時間に左右されないの。あんたの魂が腐ってたら、それを洗うために一番効果的な経験が世界から用意されるのね」

 アスラは空になったメロンソーダの底にたまった氷を、溶けた水ごと口の中に流し入れた。

「やったことや犯した罪に対して反省も懺悔もしない、想像力もない、馬鹿なまんまのあんたに必要なのは、相手の立場を実際に経験するっていうことだって、この世は判断したみたい」

 ぴ、とアスラはピースサインをして見せた。いや違う。これは二本指を立てているのだ。

「あんたの前には二つの道があったんだよ。来世でエゲツねぇ地獄を見るか、現世でやったことの責任とってめっちゃ酷い目にあって済ませるか」

「そんなの、そんな、嫌よ。――そんな気持ち悪いこと、どっちも嫌に決まってるじゃない。ていうか、あたしもう十分に酷い目にあって」

「ち」とアスラは舌を打った。

「足りねぇよ。全然足りてねぇの」

「足りない……⁉ あれで⁉」

 全身を震わせている春絵に、アスラはいら立たし気に「ちっ」と舌打ちした。

「――じゃあ、ぼくってすごく親切だからさ、特別に見せてあげるよ。来世が不倫相手の奥さんだったらどんなふうか」

 がたん、と椅子がなる。

 立ち上がったアスラの指先が、つ、と

 春絵の眉間に触れた。

 その位置は、白毫びゃくごう

 アスラの指先が離れる。春絵の額から、白い糸がきゅるりとついて出てくる。春絵の両のまなこが限界まで見開かれる。

 そして、

 全身がぐちゃりとたたまれ、視界が極彩色のうずの中に放り込まれた。

 ような気が、春絵には、した。


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