第19話
ぽーん。ぽーん、と、軽い音が聞こえた。
視線をアスラへ向け直した。少年の前にあるのは、半分まで消費されたメロンソーダのグラスと、空になったナポリタンの皿だ。十数年前には、ナポリタンの代わりに確かミートドリアがあった。
春絵が視線をアスラの方へ向け直す。彼は
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
それで春絵の――背筋が凍った。
「ねぇ、アスラ」
からん、とグラスの中で氷がくずれる。
「――前の時に、あんたに代金払わなかったから、あたし
かすれた春絵の声に、アスラはちらと視線を向けて、そして、
「あっは!」
と、
「やっぱオバさん、代金の支払いブッチしたらペナルティあるって知ってたんじゃん。ルール舐めすぎ。笑っちゃうね。なんのために事前に前提条件の噂もセットで流してあげてると思ってんのさ。自分だけはセーフ? 特別? そんなわけないよな⁉」
「あっはははは!」と、無情にも高らかな笑い声が店内にこだました。「アスラうるせぇ」とマスターの小声がたしなめる。途端、アスラは嘲笑を引っ込めて真顔で春絵を見た。
「楽観てさ、ケースを選ばないと自滅一直線なわけよ。警告を警告として受け取れない。理解できない。成人がそれではダメなんだって。自律できずして自由なし。あんたは自由の権利の行使ばかりを要求して、人としての責任を果たそうという学びを得ずにここまできた。だからね、なるべくして破綻したんだよ。その先に道はないんだ」
ぎり、と春絵は奥歯を噛み締める。
「わかったわよ。十分にわかったわ。あんた、この十三年であたしにおきたこと、どうせ全部見えてるんでしょ? ――いくら払えばいいのよ」
「ふっふーん」と、アスラは鼻で笑いながら口にメロンソーダのアイスを運んだ。そして、やたらゆっくり口からスプーンを抜き取ると、にやりと笑った。
「前回払わなかった分も含めて百万でいいや」
カバンの中をあさると、春絵は紙巻きにしてあった百万をテーブルの上に叩き付けた。
「これでいい⁉ さあ、さっさと教えなさいよ! どうすればこの
きん、と春絵の声が店内に響く。
アスラの目が、じっと春絵の顔に注がれる。
「だからぼく最初に言ったじゃない。あの男との結婚は――」
ちりりん、と、アスラの首から下げられていた鈴のペンダントが鳴った。
「
ひゅっ、と春絵の喉が鳴った。
脳裏に
ほろり、と一滴の涙が頬を伝い落ちる。
憶えている。あの不器用な優しさも、真摯さも、怒りに歪んだ横顔も、実家のいいなりになんかならないで
憶えている。
誰が、あの人を春絵から奪ったんだ。
一体だれが、誰のせいで、
なんなんだ、この運命は。春絵に害するばかりのこの世は。酷い、ひどすぎる。こんなのまるで、
地獄かよ。
「――アスラ、お前それ言ってないぞ」
奥から声が届いた。春絵が視線を向ければ、マスターは手元のグラスを磨いている。
「えー、そうだっけ?」
「お前が言ったのは「絶対に不幸になるから」だよ」
「意味は一緒じゃん。つかそんな何年も前のことを、
からん、とスプーンが空になったメロンソーダのグラスの中に放り込まれた。
「オバさんさっき、何が見えてたかって聞いたでしょ?」
「え、ああ、ええ」
ちろり、とアスラが赤い舌を出す。
「あたしならもっとうまくやる――っていう、化粧のケバい若いだけの馬鹿な女が見えてたの。全身黒毛玉だらけのね。ほら、あんたもう自分でわかってんでしょ? 見えてるよね? 旦那さんだけじゃなくて、自分もその周りの人間も、皆みんな、黒毛玉びっしり生やしてるってこと。皆変わりやしない、逆恨みの塊だってことをさ」
アスラの目の前にある、空っぽになったグラスを春絵は見る。
その表面に移るのは、疲れ果てた春絵の姿ではない。
そこにあるのは――ただの黒い毛の塊だ。
「ぼくが結婚するなって言ったのは、そこの旦那さんが気の毒だったからだよ。だってオバさん、まだわかってないじゃない。自分がやったこと」
アスラは右手をゆっくり持ち上げると、人差し指をたてて、ぴしり、と春絵の背後を刺した。
「あんたのせいで不倫相手の奥さん、マンションのベランダから飛んだからな?」
「ひっ」と、我知らずの悲鳴が春絵の喉から飛び出た。全身を震えが這い上がる。
「そ――そんなの今更あたし関係ない‼ あた、あたしのせいって、そんなのわかんないじゃない!」
悲鳴交じりの叫びがバーの中に響く。
冷たいアスラの目がじっと春絵を見つめる。
「わかるに決まってんじゃん。今あんたを見てるの誰だと思ってんの。
背後を指した人差し指が、くるくると回され、ひたり、春絵の額を指す。
「母親が子供二人
にやあと猫のような笑みがアスラの口の端に浮かぶ。
「旦那さん、あんたの身代わりだぁ」
アスラの視線が、十三年前のように、じいっと、春絵の背後の何かを見出している。
「相手の奥さん。あんたの旦那さんにしがみついてるよ。今でも」
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