第18話
結果として、
あの男は、
なんとなく、その心理は分かった。
自分ばかりが苦しくて、不幸でいるのが赦せなかったのだ。
モブとして見下げて、利用できるだけして、邪魔になったら棄てて良いし、また必要になったら好きなように使っていいと思っていた連中が、自分を差し置いて幸せそうに、にこにこ笑って暮らしているのが我慢ならなかったのだろう。
「オレのお下がりとも知らずに、まあ大事にしてくれちゃって」
そう言われた。だから春絵のパソコンを開いた。賢介は項垂れながらそう言った。
信じたくなかった。
そうも言われた。
でも、確かに、はるちゃんみたいな綺麗な子を僕に紹介するなんて、ちょっとおかしいかな、とは思ってたんだ。そう自嘲する。
昔のことだって思いたい。
そうも言われた。
でも、割り切れない。割り切れないよ。
振り絞るような賢介の言葉が、春絵の心臓に刺さる。
「僕は、実家が嫌いで、嫌いで堪らなかった。母さんを大事にしないで外に何人も女の人を囲う父さんも、そっくり同じことをする兄さんも、言いなりになるしかない母さんも、母さんがその愚痴を僕にだけ聞かせてくることも、兄さんとの扱いが全然違うことも、何もかもが嫌だった」
閉ざされた賢介の目から、ぱたぱたと涙が床に落ちる。
「だから、自分の家族を作る時には、絶対に大事にしよう、守ろうって、そう決めてたんだ。――会社でどれだけ馬鹿にされても、出世が遅くてどんどん後輩に追い抜かれて行っても、それを家庭に持ち込んで酒飲んで管巻いて、自分の嫁さん殴るような……そんな人間には、絶対なりたくないって――そう思って……たのにっ」
賢介は、その手で涙がとまらない目元と額を覆った。
春絵もまた、両目を見開いたまま、ぼろぼろと涙を零していた。
そんな資格などないが、止まらなかった。
そして――小峰に対する止まらぬ憎悪が全身を冷やした。
壊れてしまうのはあっという間だった。
賢介は、完全に書斎に閉じ籠るようになった。
出社できない日が増えた。
翌年、世界中を襲った不況のあおりを受けて、賢介は呆気なくリストラされた。
再就職先を探すも、そもそも精神状態が良くない賢介を採用してくれる企業はなかった。書斎からあまりにも出てこないので、長い間気付けなかったが、賢介はずいぶんと酷い不眠症に陥っていた。医者に引き摺っていき診せると、欝と診断された。大量の薬が出され、それを飲みだしてから眠れるようになったようだが、医者曰く、背中の冷えが取れない、眠っても眠っても全身が泥のように重いのだと、そう言っていると告げられた。
そして、いつからか賢介の姿は、まるで黒い毛玉の塊のように春絵には見えるようになっていた。
それは、あまりに自然でわずかずつの変化だったから、その異様が当たり前となっている異常に、春絵は気付けなかったのだ。
許せない、悲しい、苦しい、妬ましい、潰れてしまってほしい、――壊れろ。
そんな思いが胸の中に湧き出すと、それは黒い毛玉となってあふれ出るのだと、そういうものだと、それがふつうなのだと。
一体いつからそんなふうに思っていたのだろうか。
狂っていたのは春絵も同じだったのだ。ただ、その出方が少しばかり賢介とは形が違っていただけで。
春絵は、家庭を支える為にパートからフルタイムに切り替えた。幸い都合を聞いてもらいやすい職場だったので、賢介のフォローを最優先できるように残業はなるべくしないで済むようにしてもらえた。
客からの苦情を何件も電話越しに聞かされて、へとへとになって帰宅したあと、春絵は足音を忍ばせて、元夫婦の寝室に向かう。
戸を開けると、巨大な黒い毛玉の塊となった夫が、ベッドの上で春絵に背中を向けて横たわっている。雨戸を閉めて、カーテンを引いて、真っ暗な部屋の中で、小声で何かを呟いている。春絵はベッドにそっと腰をおろすと、賢介の背中をなでた。沼底の藻に触れたような、じっとりと冷たい感触がする。春絵の掌に、黒い墨のようなものが、べっとりと、着いた。
そうして賢介の傍にいる間、春絵は、寒かった、ような気がする。
なんだか、ずっと長い間、全身が寒かったのだ。
そんな両親の状態をみても、
何も言わずに、家を出てバスケに集中していた。
恐らくそこ意外に発散できるところがなかったのだろう。
そんな矢先、賢介がふらりと出かけた。知人に誘われたと言って、とある勉強会とやらに参加したのである。
――これが運の尽きだった。
それは、とある新新興宗教による主催のものだった。
賢介は――高学歴だが人付き合いが不得手で、内に籠りやすい性情の割に、プライドだけはひっそりと高かった。
彼が春絵にやさしかったのは、堕落する自分をこそ嫌悪しているからだった。
女子供に拳を振り上げて、自分の優位性を確認しなければいられないような男を心底軽蔑していた。だから、決してそうならないように、必死で自分をふるい立たせていたのだ。ずっと。
故に、あなたは悪くない、あなたの価値を理解できない周囲が悪いというその文句は
賢介は、その会合にずるずるとのめり込み、あっという間にそこに入信してしまった。
切り詰めるべきわずかな貯蓄をお布施やらのために団体へ寄進し、やがて修行のためだと家を出て行ってしまった。
春絵が必死で止めても、信絵が泣いても、もう賢介は振り返らなかった。
それから半年後。
その宗教団体から、自発的に始めた断食業のために賢介が餓死したと言う通達が、自宅へ届いた。
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