第17話
一度金を渡してしまえば、あとはもう際限がなかった。
ずるずるだ。
家族のためにどうやって使うかと楽しみに貯めていたパートの給料は、あっという間に三分の二近くを溶かした。
まるで薬か何かの密売みたいで、
どうしてこうなってしまったのか。
小峰は、春絵のことを棄てた人間のはずだ。
自分の都合がいいように
それが、やもめになったからと、その苦労の当てつけのように、昔のことを持ち出して脅迫してくるなんて――人間のやることじゃないだろう、こんなのは。
ああ、そうか。
あれは、小峰はヒトデナシなのだ。
それでも賢介には絶対知られてはいけなかった。彼の倫理観は並外れて潔癖だったから。
信絵には、三年生の時からミニバスを習わせていた。本人がどうしてもやりたいと言った。バスケは昔春絵もやっていた。成績が芳しくなくて、高校二年の秋に親から強制的に辞めさせられたから、どこかに心残りがあった。やってみたいと信絵が言い出したときは嬉しかった。だから、そのための予算と時間だけは死ぬ気で死守した。
賢介も了承してくれたが、何故だろうか、少しだけ表情が硬かったような気がする。
何かあるのかと聞いたが、答えなかった。
必要があれば言ってくれるだろうと、その時は流した。
――あの時に、ちゃんと賢介から話を聞いていれば、何か変わっていただろうか?
あの違和感を見過ごしてしまった。
あれが、自分達家族の致命傷になってしまったのではなかったろうか。
春絵の目の下にもくっきりとした
信絵が小学校に上がった辺りから、賢介の給料が上がらなくなった。賢介が悪いわけではなく、業界全体というか、世界的に状況が芳しくなくなったことが原因だった。
給料は上がらなくても残業は増える一方だった。賢介の顔色もどんどん悪くなっていった。家にいる間、一人部屋に籠ることが増えた。無口さに拍車が掛かり、昼食だと声をかけても布団から出てこないことが増えた。静かに休ませてやりたくて、信絵を連れて二人、朝から晩までモールをうろうろするだけの休日が増えた。欲しい物を買ってやれる訳でもないのに、目の前に
気を使わせていた。
申し訳なかった。
小峰が憎らしくて、憎らしくて、堪らなかった。
姉夫婦は上手くやっているようだった。以前は完全に没交渉だったが、姉が嫁いで以降、時折メールで直接やりとりをするようになった。主に体調や近況の報告程度のものだったが、姉が日増しに朗らかになってゆくのがわかった。
二人の結婚から四年がたったが、結局子供は授かっていない。もしかしたらこのまま夫婦二人でやってゆくのかも知れない。
姉というより、あれはもう余所の世帯の奥さんなのだ。
姉妹というのは不思議だ。あれほど張り合い、
血縁があろうが関係ない。
日常の視界に入らなければ、それはただの同世代の女なのだ。
似たような時代を背景に育ち、同じような物を食べて育ち、似たようなことを学んで、似たような痛みをいくつも覚えて、世間から傷つけられて、そして巣立って自由になってゆく。はっきりと目の当たりにしたのは、学歴や職歴や階層が違おうが、社会から要請される「女」としての役割は誰しも皆変わらないのだという、厳然たる事実だった。
押しつけられたものの重みと、それに応えなければ存在を認められないというプレッシャーは同じだったのだ。
天からずしりと押さえつけられる。
産めよ育てよ、賢き母であれと。
働け、婚家に尽くせ、命の限り、生きている限り。
「女」を全うせよ。
ああ、この世は本当に生き地獄だ。
それが容易く出来れば幸せに生きられるだろうに。
自分には無理だ。そんなことできない。
「ただいま」とドアを開けて、リビングに入る。信絵に手を洗わせて、コップにミルクを注ぎ、おやつのビスケットを皿に載せてダイニングテーブルに向かわせた。
「いただきます」
その声を背に二階へ上がる。賢介はそろそろ起きただろうか?
寝室のドアをノックしてから「けんちゃん?」と声をかけつつ静かに開いた。
パソコンの前に立ち尽くしていた賢介が、ゆっくりと春絵へ顔を向ける。その顔は、絶望の色に染まっていた。
そしてその首筋に、あれが。
黒い、ざわりとした――毛玉が。
いた。
「ど、それなに? どうしたの、けんちゃ」
呼びかけた賢介の向こう側の画面が、春絵の目にも映った。
手にしていたコートを取り落とす。
どうして、
どうして自分はこうも綺麗さっぱりと忘れ去っていられたのか。
どうして自分は、あんなものをほったらかしにしていたのか。
あれこそ、何よりも早く消去して処分しなくてはならなかったのに。
七年前。小峰が自分を棄てようとしたら、最悪手切れ金変わりの口止め料を出させるためにと、二人で旅行に行った時に、旅館の布団の中でこっそりツーショットの写真を撮った。
撮っていた。
春絵の全身がカタカタと震え出す。
まさに今、小峰が春絵にしてきていることを、自分は小峰に対してしようとしていたのだ。
それがこんな形で跳ね返って来た。
ああ、因果って、こうやって訪れるのだなと、なんとなく理解した。
「は」と、震える吐息と共に、賢介が一歩後ずさる。体勢を崩し、ごろりとその場に転倒した。
床の上から賢介の視線が、春絵を見据えている。
賢介の首筋の毛玉が――ぞわりと膨れ上がった。
ように、見えた。
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