第17話


 一度金を渡してしまえば、あとはもう際限がなかった。

 ずるずるだ。

 家族のためにどうやって使うかと楽しみに貯めていたパートの給料は、あっという間に三分の二近くを溶かした。

 のぶが小学校に入学したら通わせてやろうかと思っていたピアノ教室は、当然御破算になった。

 小峰こみねからの呼び出しの頻度は、最初は半年に一度程度だったのが、四年を過ぎた今では二カ月に一度に迫っている。小峰の顔なんか見たくもなかったが、振り込みにして痕跡が残るのはもっと厭だったから、最近では時間を決めて路上で封筒入りの現金をすれ違いざまに渡すようになっている。

 まるで薬か何かの密売みたいで、はるは嗤う。

 どうしてこうなってしまったのか。

 小峰は、春絵のことを棄てた人間のはずだ。

 自分の都合がいいようにもてあそんで、自分の都合が悪くなったからとけんすけに押しつけて、自分は何食わぬ顔でにこにこと家庭に戻り、良き二児の父親をやっていたワケじゃないか。

 それが、やもめになったからと、その苦労の当てつけのように、昔のことを持ち出して脅迫してくるなんて――人間のやることじゃないだろう、こんなのは。

 ああ、そうか。

 あれは、小峰はヒトデナシなのだ。

 それでも賢介には絶対知られてはいけなかった。彼の倫理観は並外れて潔癖だったから。

 信絵には、三年生の時からミニバスを習わせていた。本人がどうしてもやりたいと言った。バスケは昔春絵もやっていた。成績が芳しくなくて、高校二年の秋に親から強制的に辞めさせられたから、どこかに心残りがあった。やってみたいと信絵が言い出したときは嬉しかった。だから、そのための予算と時間だけは死ぬ気で死守した。

 賢介も了承してくれたが、何故だろうか、少しだけ表情が硬かったような気がする。

 何かあるのかと聞いたが、答えなかった。

 必要があれば言ってくれるだろうと、その時は流した。


 ――あの時に、ちゃんと賢介から話を聞いていれば、何か変わっていただろうか?

 あの違和感を見過ごしてしまった。

 あれが、自分達家族の致命傷になってしまったのではなかったろうか。


 春絵の目の下にもくっきりとしたくまが刻まれたままだ。もう小峰のことを言えない。顔色が良くないのは化粧で誤魔化した。年々それが分厚くなってゆく。粉をふいたようになってゆく。化粧品一つでも馬鹿にならない。カバー力の強いものを探してあれこれ試すような金銭的余裕もない。基礎化粧品だってデパコスなんかもう何年も手を出していない。ドラッグストアで売っている物の中でも特に安いもので何とか誤魔化しているような状態だ。

 信絵が小学校に上がった辺りから、賢介の給料が上がらなくなった。賢介が悪いわけではなく、業界全体というか、世界的に状況が芳しくなくなったことが原因だった。

 給料は上がらなくても残業は増える一方だった。賢介の顔色もどんどん悪くなっていった。家にいる間、一人部屋に籠ることが増えた。無口さに拍車が掛かり、昼食だと声をかけても布団から出てこないことが増えた。静かに休ませてやりたくて、信絵を連れて二人、朝から晩までモールをうろうろするだけの休日が増えた。欲しい物を買ってやれる訳でもないのに、目の前にさらすだけ晒すという状態は、幼い子供からしたら毒でしかなかったろう。それでも、文句も言わずに、信絵はにこにこと楽しそうにしてくれていた。

 気を使わせていた。

 申し訳なかった。

 小峰が憎らしくて、憎らしくて、堪らなかった。

 姉夫婦は上手くやっているようだった。以前は完全に没交渉だったが、姉が嫁いで以降、時折メールで直接やりとりをするようになった。主に体調や近況の報告程度のものだったが、姉が日増しに朗らかになってゆくのがわかった。

 二人の結婚から四年がたったが、結局子供は授かっていない。もしかしたらこのまま夫婦二人でやってゆくのかも知れない。黒鶫くろつぐみあきという人は、もう春絵の知る女性とは違う存在のような気がしている。

 姉というより、あれはもう余所の世帯の奥さんなのだ。

 姉妹というのは不思議だ。あれほど張り合い、おとしめ合い、自分のほうがどう優れているかを相手に認めさせるのに躍起になっていたはずなのに、籍を外れて苗字が代わるだけで、あっけなく他人になる。

 血縁があろうが関係ない。

 日常の視界に入らなければ、それはただの同世代の女なのだ。

 似たような時代を背景に育ち、同じような物を食べて育ち、似たようなことを学んで、似たような痛みをいくつも覚えて、世間から傷つけられて、そして巣立って自由になってゆく。はっきりと目の当たりにしたのは、学歴や職歴や階層が違おうが、社会から要請される「女」としての役割は誰しも皆変わらないのだという、厳然たる事実だった。

 押しつけられたものの重みと、それに応えなければ存在を認められないというプレッシャーは同じだったのだ。

 天からずしりと押さえつけられる。

 産めよ育てよ、賢き母であれと。

 働け、婚家に尽くせ、命の限り、生きている限り。

 「女」を全うせよ。

 ああ、この世は本当に生き地獄だ。

 それが容易く出来れば幸せに生きられるだろうに。

 自分には無理だ。そんなことできない。



「ただいま」とドアを開けて、リビングに入る。信絵に手を洗わせて、コップにミルクを注ぎ、おやつのビスケットを皿に載せてダイニングテーブルに向かわせた。

「いただきます」

 その声を背に二階へ上がる。賢介はそろそろ起きただろうか?

 寝室のドアをノックしてから「けんちゃん?」と声をかけつつ静かに開いた。

 パソコンの前に立ち尽くしていた賢介が、ゆっくりと春絵へ顔を向ける。その顔は、絶望の色に染まっていた。

 そしてその首筋に、あれが。

 黒い、ざわりとした――毛玉が。


 いた。


「ど、それなに? どうしたの、けんちゃ」

 呼びかけた賢介の向こう側の画面が、春絵の目にも映った。

 手にしていたコートを取り落とす。

 どうして、

 どうして自分はこうも綺麗さっぱりと忘れ去っていられたのか。

 どうして自分は、あんなものをほったらかしにしていたのか。

 あれこそ、何よりも早く消去して処分しなくてはならなかったのに。

 七年前。小峰が自分を棄てようとしたら、最悪手切れ金変わりの口止め料を出させるためにと、二人で旅行に行った時に、旅館の布団の中でこっそりツーショットの写真を撮った。

 撮っていた。

 春絵の全身がカタカタと震え出す。

 まさに今、小峰が春絵にしてきていることを、自分は小峰に対してしようとしていたのだ。

 それがこんな形で跳ね返って来た。

 ああ、因果って、こうやって訪れるのだなと、なんとなく理解した。

「は」と、震える吐息と共に、賢介が一歩後ずさる。体勢を崩し、ごろりとその場に転倒した。

 床の上から賢介の視線が、春絵を見据えている。

 賢介の首筋の毛玉が――ぞわりと膨れ上がった。

 ように、見えた。

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