第16話
目の前では
この喫茶店は路地裏にあってあまり人目につかない。その利点に頼って昔何度か小峰との逢瀬に使った。
そう、もう七年も関わっていなかったのに、なぜ今になって
ちらりと前方に視線を送る。
小峰は――うらぶれていた。
昔も着ていたカシミアのカーディガンは毛玉だらけになっていた。キャメル色で暖かくて、その感触が好きだったことは覚えている。不精髭はほったらかしにしたまま。目の下にも
そんな小峰を前に、春絵の眉間にも知らず皺が寄る。
明らかに、怪しい。
そして、不穏だ。
小峰は視線を窓の外へ向けている。背中を丸めて、目を細めて、何を考えているのかまるでわからない。
以前の小峰では考えられなかった。彼は――常に俳優めかして振舞う男だった。自分が他人からどう見えているかを常に意識し、周りの人間をそのためのモブとして扱っていた節がある。春絵もまた彼にとって、ただのモブに過ぎなかった。
そんな男が、まるで人目も気にしないで、こんなみっともないザマを晒している。それだけで――もう十分に不安になる。
そして何よりも――なぜこんな平日に呼び出して来たのか。
何も言い出そうとしないので、春絵は溜息を吐いた。
「あの――ご用件は?」
そこで、小峰はようやくじっとりと視線を春絵に向けてきた。「ああ」と、まるでそこに春絵がいた事に初めて気付いたような顔をしてみせる。そういうところがやっぱり演技臭い。その顔が、にやりと嗤った。
ぞっとした。
もう今直ぐにここから立ち去りたかった。
なんなのだ、この気持ちの悪い男は。今更二人で会って話がしたいなんて意味が分からない。春絵には――微塵も用はないというのに。
昔の春絵ならば呼び出しに喜んで駆けつけたかも知れないが、今はもう状況も感情も評価も何もかもが違う。赤の他人の余所の男と二人きりでいること自体が厭だし座りが悪いし、とにかくあってはならない状況なのだ。
万一にも、知人に見られたくない。
どう思われるか知れたもんじゃない。
小峰は灰皿に煙草を押しつけると、腕を組み座席の背凭れに身体を預けた。
「ひさしぶりだね、
わざと――旧姓で呼ぶのに不快と怒りが湧いた。
「
そういうと、小峰は「くくく」と嗤った。
「そうだそうだ。そうだったね。桑名くんは元気にしてる?」
「お陰様で。――あの、本当に要件は一体何ですか? 私もあまり時間が取れないので、手短にお願いしたいのですが」
不快さを隠さずに言う春絵に、小峰は「ふふふ」と笑った。
「どうしたの、すっかりつれなくなっちゃって」
春絵の眉間の皺が深くなる。
「そういう冗談はいりませんので。お話がないなら帰りますけど」
言いながらコートに手を掛けようとすると「まあ待ってよ」と小峰は笑いながら片手で制してきた。
「怒らないでよ。――君と僕との仲じゃない」
――心底死ねと思った。
なんだ……何なんだよ⁉ これが俗にいう、男は昔の女はずっと自分に惚れているとはき違えているというヤツか? まったく冗談じゃない。こんな男と付き合っていたなんて、昔の自分の見る目のなさに吐き気がするし、自分で自分の横っ面を
もう、嫌悪しかないに決まっている。
余程春絵が凄まじい顔をしていたのだろう、最初小峰はニヤニヤと笑っていたのだが、その目を細めてから、すっと自身の懐に手をやった。チェックのネルシャツの胸ポケットから、一枚の写真を抜き出すと、無造作に春絵へ向けて投げた。
その写真は、くるくると回って、春絵の目の前で、逆向きで停止した。
春絵の全身が硬直した。
逆向きでも分かる。そこには――昔の自分の眠る上裸に、見切れた小峰の顔が写っていた。
ばっと手に取り春絵は自分の胸に押しつけた。ぐしゃりと握り潰す。
「なによ……これ」
小峰は再び視線を外へと向けた。
「何って――君と僕とのメモリーじゃない?」
「こんなもの出して……一体どういうつもりなの?」
「ちょっと困っててさ、幾らか用立ててくれない?」
「――は?」
「とりあえず十でいいから。桑名君のお給料ならそれくらいぽんっと出せるでしょ?」
「あんた――なに」
「それ見られたら、困るの君でしょ?」
「――あなた、脅す気?」
小峰は新たな煙草に火を着けた。すっと吸い込み、ふうっと
「悲しいなぁ。そんな怖いことする男だと思われてたなんて……。ただ、昔のよしみでお願いしてるだけじゃない」
春絵の胸の内に――毛玉が。
黒い毛玉が、湧く。
ぞわりと、踊る。
「こんなもの出して……大っぴらになったら困るのは、あなたも同じでしょ? 桑名に言うなら彼からあなたの奥さんに話が行くの、予想も付かないの? そんなことも予測できないほど頭おかしくなっちゃったワケ?」
小声で捲し立てる春絵に、視線だけを向けると、小峰はぽつりと零した。
「死んだから、あいつ」
「えっ……」
ざわり、と春絵の背筋を冷たいものが這い上がった。
「たく、ほんとふざけんなって話だよ。お陰で子供二人も見なきゃいけなくて、仕事もまともに続けられなくて、今じゃ契約社員だよ。それも温情措置だとか言いやがって――」
ちっ、と舌を打ち鳴らしてから、小峰は新たな一本に火を着けると、煙を吞みこみはじめた。
「だから、こっちは別になんともないの。なんせ聞かせるヤツが生きてないから」
面倒くさそうに、小峰は「あーあ」と背伸びをした。煙草を手にしたまま。結果、先端の灰が零れ落ちて、小峰のカーディガンに降りかかる。
そして、にっこりと微笑んだ。
「だからさ、悪いようにはしないから、今貸して、十万」
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