第15話


 春絵は、ぽかんと口をあけたまま、数瞬固まってしまった。

 案内された室内にいたのは五人。

 奥から両親と、その対面に相手方の母親と思しき女性。女性の隣には黒縁眼鏡の男性と、その隣に……。

 女優のように、あえかな女が座っていた。

 変則的な席順の中、ふわりと微笑んだその女が「はるさん、忙しいのにありがとね」と姉の声を発しながら小首を傾げた。

 姉だ。

 これは、紛れもない姉なのだ。

 春絵は「あ、うん」と間の抜けた返答しかできなかった。

 姉らしき女の顔を凝視しながら、ややあって笑ってしまった。

「どうしたの」

「ん?」

「キレイにしちゃって」

 春絵の言葉に、姉は口元に手をやって「ふふふ」と笑った。

「ありがと」

 姉妹のやり取りを、その場に居合わせた者達は微笑ましく見守っている。母に手招きされて、春絵は母の隣の末席についた。

 再び、ちらと姉を見やる。

 今日の姉は、薄い水色の上品なワンピースを纏っている。こんな格好をしているところなど、これまではついぞ見たことがない。相変わらず眼鏡はかけているがノンフレームの上品なデザインのものに切りかわっていたし、こんなに、しっかりとした化粧をしていたところも当然見たことがない。本当に姉はこんなに綺麗な女だったろうか? まさかと思うが替え玉じゃなかろうか?

 そんな馬鹿なことはありえないと知りつつも、思わずそう考えるほどに、その姿は春絵の知る姉から大きくかけ離れていた。

 本当に、ぞっとするほどに美しかった。

 元々肌の色は白かったが、そこに引きこもりが拍車をかけたのか、抜けるような半透明の白さが全身に行きわたっていた。

 余計な肉の削げ落ちた顔からは、本来高かった鼻筋が浮き上がり、不美人の代名詞のように思われていた小さい一重の目は、今ではオリエンタリズムに通じる、いわゆるモデル系の顔と言える。

 その目が、じっと春絵を見つめている。

 黒く、底知れない瞳で、じっと。

 見ている。春絵の――背後を。

 瞬間寒気が走った。

 これは、なんだ? この既視感は? この視線を春絵は知っている。この微妙にピントのずれた視線を、それが春絵の身体を通過していく感触を――どこでだった?

「こんにちは」という低い声がふいに聞こえて、春絵ははっと顔を上げた。目を向けると、引きしまった体格の長身の男性が、姉の隣から春絵のことを見ている。

 男は綺麗に頭髪を剃り上げていた。それくらいならば多少残念に見えるくらいの話なのだが、その肌の色が姉に引けをとらないくらいに白いから、妙な違和感が残る。また、その白とは対称的な黒縁眼鏡をかけていて、その奥にちらりと見えた、左目の下にある泣きぼくろが、妙に――妙に目障りなような気もした。

 全体、緊張を感じさせる、違和感の集合体のような男だった。

「はじめまして、春絵さんですね? 黒鶫くろつぐみと申します」

「は、はじめまして……」

 つっかえながら春絵が返事をすると、黒鶫はすっと目を細めた。笑ったのだろうか。なんというか、触れただけの刃が音もなく紙を切り落とすような笑みだと春絵には思えた。

「娘と知り合われたのは、十年前とおっしゃってましたね?」

 父の問いに、黒鶫は「はい」と、どこか作りものめいた声音で返答する。

あきさんとは、ずっと仲良くして頂いておりまして」

 秋帆というのは姉の名だ。

 父との会話から、黒鶫が〈ボウスオブシエル〉というNPO法人を主催していることを知った(ここで春絵は坊主と聞きちがえて危うく噴き出すところだった。毛生え関係の法人かと思ったのだ)。彼は各地でセミナーを開催していて非常に多忙であるという。そもそも二人のなれそめというのが、黒鶫の職域に関することに姉が精通していて(姉が大学で専攻していたことだったそうだ)、当時書いた文章を見つけた黒鶫が姉にコンタクトを取ったことに端を発しているのだという。

 縁というのはどこにあるかわからないものだ。

 黒鶫側の同席が母親一人だったことには、誰も言及しなかった。姉と両親の間ではすでに事情が共有されていることなのかも知れないので、春絵もおくびにも出さなかった。表情の乏しい、やや疲れた風情の老母だったが、これも春絵が関心を持つべきことではないし、姉とのやりとりを見ていれば、むしろ母親は姉に対して恐縮している体にも見えた。ただ、姉に向ける視線が少しばかり――ほんの少しばかり、じっとりと恨めし気に見えた気がしたのには――気付かなかったフリをした。この義理の母との関係をどう構築してゆくかは姉自身が対処する問題なのだから、春絵は関わらなければよいのだ。寧ろ余計な口をはさむべきではないだろう。

 食前酒を口にしながら、春絵は、少しだけ自分の義理実家との関わり方との違いを思った。

 春絵達は、ほぼ桑名とは没交渉だ。折々の形だけの祝い金程度は送って来るが、盆暮れの帰省は「無理にしなくていい」と言われている。つまり来るなという意味だ。

 姉は、両親と話す時よりも、黒鶫とその母親とのほうが打ち解けて見えた。言葉のやり取りが穏やかで、表情がぱっと明るかった。また空気が読めていないだけかも知れないが、それでも姉のこの様子ならば悪い方にはいかないだろう。

 これでいやな心持ちにならなかった自分が――嬉しかった。

 不幸な結婚を予想してほくそ笑むことも、朗らかであることがねたましくもなかったのだ。

 それはつまり、自分は今の生活に十分満足していることを意味するのだろう。

 思えば、自分はずいぶんと姉との関係に囚われて生きてきた気がする。

 最初にそう指摘してきたのは――誰だったろうか。

 もうずいぶんと前のことだから、忘れてしまった。


 会食は和やかに進み、二人の希望で挙式はしないということを確認しあったあと、とどこおりなくお開きへと至った。

 この年まで生きてきて、色々あった。

 自分が正しい人間だなんて、春絵は微塵も思っていない。

 間違ったことも、きっとたくさんしてきた。

 それでも、曲がりなりにも人の親になり、子供をうしなう経験もして、人の痛みにも寄り添えるようになった。

 賢介と信絵が傍にいてくれたから。

 姉と自分は、違い過ぎたからこそ、近すぎて苦しかったのだろう。そして、両親もようやくこの子育てから解放される。

 古い家族は解体されて形を変えて、また新たな家族を形成してゆく。

 ああ、これが家庭を得て守る、ということなんだな。

 守るべき、いつか失われるもの。

 なら、今自分の手の中にある間は、しっかりと守ろう。

 こんなにも幸せにしてくれた賢介を、あたしも大事にしよう。

 そう、心から思いながら、春絵は帰路に就いた。


 ――だから、思いもしなかったのだ。

 今更小峰から、春絵に連絡をしてくるなんて。

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