第12話


 桑名くわなは、その翌月にははるの実家まで挨拶に来てくれた。

 母も父も桑名を歓待した。

 桑名の母校の名はこんな田舎者にも通じる有名校だったし、その勤め先も中小ではあるが業界では世界的に名の知れた会社だ。

桑名くわなけんすけと申します。この度はお時間いただき、本当にありがとうございます」

 座布団を辞して頭を下げる。そういうことができる男は、実際のところどれだけいるのだろうか? 賢介はしてくれた。それだけで何故か誇らしかった。

 小峰はしない気がする。多分知りもしないで図々しくやるタイプだ。今になって見えてくるものがたくさんある。本当に時間をムダにしたなと春絵はぼんやり思った。

「まあまあどうぞ座布団を使ってください」

 言いながら父は喜色満面だった。母もおろおろしながら喜んで茶を出してきた。

 結婚の許諾なんて、親からしたら当然最初からこちらこそよろしくお願いしますに決まっていた。昼には寿司の出前が取られていた。

 四人分。

 出前が届いてテーブルの上に広げていると、襖の外から声がかかった。

 母が立って開けると、膝を付いた姉がいた。

 中に入ってくる様子はなく、賢介に向かって軽く自分が姉であることだけを告げると、頭を下げて「ごゆっくり」と言い残し、母にしばらく出てくると言って襖を閉めた。

 すっかり体調が落ち着き、体型もほどよい中肉中背に収まった姉は、昔よりも身ぎれいになっていた。

 もう、以前のように姉の外見や振る舞いが鼻につくようなこともなくなっていた。これが姉側の変化によるものではないのだということに、春絵自身が気付くことはない。春絵は、賢介と共にあることで精神的に落ち着いていた。

 ただただ、春絵は穏やかだった。

 姉の横顔を見送りながら、姉は姉で、姉なりに幸せに生きてくれたらいいなと、ぼんやり思っていた。



 賢介の家に挨拶に行ったのはその翌週だった。

 彼の実家は北陸にあった。

 少し驚くほどの旧家で、お手伝いさんという人が一人いた。父親は地元の名士で、賢介に驚くほど似ていた。母親は表情のかたい綺麗な女性だった。年の離れた兄が一人いて、こちらは母親に似ていた。顔が、というより気質が似ているのかも知れない。兄にもすでに所帯があり、兄嫁と三人の息子と共に、実家の敷地内にそれなりの大きさの家を建ててもらい、そこでいわゆる敷地内同居をしていた。兄は勤め先も父親と同じで、すでに後継として遜色ない状況にあるらしく、次男の賢介とその妻になる春絵には、特に何かの役割を求めてくることもなさそうだった。

 それで――安心した。

 ほんの少し、母親と兄嫁の表情が常に暗いのが気に掛かったのだ。

 幸せそうに笑っていない女性がいる家庭は、回避するに限る。

 必ず何かしらの鬱屈があるからだ。

 東京から地元に戻れと言われない限りは、いい距離をとってやって行けそうな気がした。賢介も――地元にはあまりいい記憶がないらしく、帰る気はさらさらなさそうだった。

 こちらでも結婚に難色は示されなかった。

 賢介が帰りの新幹線の中で、安堵と疲弊の笑顔を浮かべていたのが印象に残った。

 それからあとは慌ただしい日々が続いた。

 二か所で行わなくてはならない挙式の順序と予定はどうするか、住居はどこにするか、春絵の退職の時期は何時にするか。そう、春絵は結婚を機に職場から離れる気満々だった。賢介から専業主婦になるよう求められたわけではなかったが、春絵が小峰の顔を見ずに済ませられるようにしたかったのだ。

 考えなくてはいけないこと、決めなくてはいけないことが山盛りで、日々はあっという間に過ぎて行った。

 妊娠に気付いたのは、挙式と入籍に先んじてだった。

 と言っても、契約の都合上すでに同居は始めていたし、入籍自体はその翌々月、二人の記念日にしようという話になっていただけだし、挙式もすでにプランニングが進んでいて、来年の春先に日程も決まっていた。招待状も作りかけの状態だった。

 賢介は泣いて喜んでいたし、実家の両親も笑っていた。

 ただ一つ気がかりだったのが――姉の反応だった。

 母親伝いで姉に報告した時、姉が一言「大丈夫なの?」と言っていたと後から聞かされた。

 最初母親は、お姉ちゃんはあなたの体調を心配しているのよと春絵に心温まる話として報告してきたのだが、女の勘でそうではないとわかった。

 姉は、懸念していたのだ。

 そしてその予感は的中した。

 賢介が電話口で怒鳴っているのが隣の部屋にいても聞こえてくる。

 桑名の実家に報告したところ、両親から言われたのは「順序が違う。外聞が悪い。堕ろしなさい」という言葉だった。

 全身に、冷やりとしたものが覆い被さる。

 どろりとした焦燥が春絵の胸にこごる。

 また、

 黒い毛玉が嗤い出す。

 やーいやーい。

 つまんねぇことでしくじりやがって。

 だからお前は、

 馬鹿なん――


 通話を終えた賢介が、春絵がいた部屋に入ってきたとき、その険しい表情とともに、その首筋に――黒い毛玉が見えた気がしたのは、果たして本当に春絵の気のせいだったのだろうか。


 賢介と春絵は、子供を守った。

 挙式はキャンセルになった。あちらの両親が、産むなら出席しないし今後、兄と同程度に予定していた援助もしないと言ってきたからだ。援助失くして東京と桑名の地元の、二か所の挙式は難しい。二人の力だけではそれ程の資金的余裕はないからだ。

 それでも、賢介は断固として突っぱねた。

 父親として、本当に信頼できる男だということがわかって春絵は安心したが、半ば不安は募っていた。援助の全てをしないと言われたのが、それほどこたえた。

 そうして、少しずつ歯車が狂い始めた。


 生まれた娘には、のぶと名前をつけた。

 春絵ではなく、なぜか姉によく似た女の子だった。


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