第10話


 ぽーんと、軽い音が聞こえた。

 音の出所を春絵の視線がさぐる。振り返ってみれば、カウンターの横にアンティークを模したチャチな置時計が置かれていた。音は一度鳴ったきり。時針は一時を指していた。

 確か春絵がこの店を訪れたのは十二時過ぎだったはずだ。あっという間に一時間近く過ぎている。そんなにも――そんなにも時間を使っていただろうか?

 春絵が顔を戻してアスラを見ると、彼は律儀に両掌をぱちんと合わせた。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

 それで春絵は――脱力した。

 何も解決などしていないし厭なことをたくさん言われた気がするのだけれど、姉がなぜ駄目なのかがわかって、ものすごくスッキリしていた。

 あの女は、姉は、春絵に対して何度も「馬鹿だから」と言ってきた。

「――馬鹿だから、見分けられないんだよ」

 よくもまあ、そんなことが言えたものだ。

 あんただって大馬鹿じゃない。

 人間生きていかなきゃならないのよ。お金がないとダメなのよ。あんたみたいに結婚もできそうにないデブスなら余計働かなきゃどうしようもないのよ。なのに結局コミュ力がないからどっちもできないの。男も寄ってこない、仕事も続けられない、あの腐れたようなど田舎で発酵しそうになりながら、こそこそ隠れて暮らして親のスネかじって生きていくしかないのよ。なんてお荷物。なんてゴミムシ。あんたのために学費と仕送り払ったお父さんお母さんがかわいそうじゃない。馬鹿みたいじゃない。あんたのせいで、あたしがもらえるはずだったお金まで回されちゃって、一番の被害者はあたしなんだからね⁉

 やっぱりキレイにしてかわいくして愛される女でなきゃいけないの。「こうしてほしい」って男の気持ちを汲み取れる女じゃなきゃダメなのよ。働くことも結婚することも愛されることも選ばれることも、全部全部そうなのよ。

 あたし間違ってないんだから‼

「さあ、と言う訳で」

 ちらりとアスラが春絵に目を向けた。ちりりん、と首から下げられた銀の鈴が鳴る。

「じゃ、助言はしたからね。あとどうするかは自分で決めたらいいから」

「――――え?」

 むっとアスラは唇を尖らせた。

「だーかーら、助言はしたでしょって。他にも色々教えてあげたじゃない。オバさん馬鹿過ぎて細かく説明しないとわかんないっぽかったから、出血大サービスで、たーくさんお話してあげたんだよ? ほんと感謝してよね」

 するりと左の掌が差し出される。


「じゃ、そういうわけで五十万。現金でも振り込みでもどっちでもいいけど、一括で支払ってね。利子とか計算すんのめんどっちいから」


「はあ⁉」

 がたんと音を立てて春絵は立ち上がった。

 唇を震わせながらテーブルの上に両手をついてアスラの顔を睨み見た。

「ちょっとなにそれ、そんな馬鹿な金額あるわけないじゃない! そんなぼったくり許されるワケないでしょ⁉」

 アスラは両耳を手で覆って顔をしかめる。

「うるっさいなぁ! そんなキンキン声で怒鳴らないでくれる⁉」

「助言って――助言って、はあ⁉」

「だから、あんたが気にしてるその黒毛玉が湧いて出てくるのは、オバさん自身の人間性の問題であって、あんたが他人に勝ちたい蹴落としたいマウント取りたい、でも取れないぎえええってやってるうちは増し増しになってくだけなんだから、それヤメれって言ってんの。そんで、メガネくんがしてきてるプロポーズは絶対に不幸になるから受けるなって、さっきちゃんと教えたじゃん!」

「そんな――それだけで五十万って……ふざけてんのあんた⁉」

 春絵の金切り声に、アスラは「うるっさ!」と両耳をふさいだ。ふさいだままアスラは厭そうに目を眇めて春絵を見る。

「ぼくは至極まじめだし、これだって妥当な金額だと思うよ? だってあんた馬鹿だからさ、聞きたいことしか聞かないから、どうせ説明したって右から左じゃん。それでもあんたの人生観がなんでこんな歪んでんのか、根本的なところから懇切ていねいにご説明してさしあげたでしょうが?」

 また馬鹿って言った!

 こいつもあたしのこと馬鹿って言うの⁉

 もう厭! いやいやいや! どいつもこいつも馬鹿にしやがってふざけんな馬鹿野郎‼

「お話にならないわ‼ こんなところ来るんじゃなかった‼」

 春絵は吐き捨てると、財布を取り出し一万円札をテーブルの上にばん! と叩きつけた。

「アイスティー代含めて良くてこんなもんでしょうが⁉ ふざけないで‼」

 言い捨てるや否や、春絵はかつかつとヒールを鳴らして店を飛び出していった。

 酷く手荒く押し開けられた時には悲鳴のような音を立てていた扉の鐘も、締まる時にはゆっくりと動き、かららん、と軽い音を立てるに留まった。

 椅子の背もたれに肘を預けて春絵の行方を見守っていたアスラは、やがて小さく溜息をついてテーブルの上で頬杖を突いた。

 カウンターの内側から盛大な溜息が聞こえてくる。

「おおいアスラー。もちっと客あしらいは上手くなれよ、お前は」

「ぼくはやるべきお仕事はちゃんとやったもの。――契約に反したのは、オバさんのほう」

 アスラはつまらなさそうに時計の針を見つめる。

「ぼく、もうほぼほぼ役満に近いって教えてあげたのに、これで決まっちゃったね」

「どうなるんだ? あの人」

 マスターの問いに、アスラは肩を竦めた。

「そんなの聞きたい? 反吐へどがでるよ?」

「そこまでか」

 しかめっ面をしたマスターに、アスラはにっこりと微笑んだ。

「因業因果は巡るもの。今世の不始末解消不足は満額そのまま来世に持ち越し。宵口頼れば阿修羅が招く。横紙破りの強行突破は転生利息で倍のツケ――ってね」

 アスラの口元に、きゅっと酸っぱそうな笑みが浮かぶ。


「――支払いの踏み倒しは高くつくよー」


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