第9話


「――んで? 早速だけど相談事ってどれ?」

 アスラのその言葉に春絵は一瞬引っ掛かった。最初はその引っ掛かりの理由が分からなかったのだが、やがて彼は「なに」ではなく「どれ」と聞いたのだと気付いた。

 まるで相談すべき事柄が複数あるかのような言い方だった。

 春絵はマスターにアイスレモンティーを注文した。いつもならアメリカンを注文するところだが、あの着物の男が言った「煙草とコーヒーの匂いってね、混ざると口が下水みたいな匂いになる」という言葉が、どうしても耳の奥から消えてくれなかったのだ。

 手元にきたアイスティーを一口ふくんでから、春絵はじろりとアスラを睨んだ。

「ええと――色々あって、今結婚を考えている人がいるんだけど、その、なんというか気持ちよく結婚しようっていう気になれないというか、もやもやしたものが胸の中にあるのよ。できたらこれを解消して話を正式に受けたいと思ってるんだけど、踏ん切りがつかないから、どうしたらいいかと――」

 春絵の話をちゃんと聞いていたのかどうか、アスラは行儀悪くテーブルの上に這いつくばるような姿勢で、ミートドリアの最後の一口を口の中に「あーん」と放り込み、もぐもぐと咀嚼して飲みこんでから、ちらりと目線を上げた。

「ふぅん、あっそう。そっちなのね」

 その小馬鹿にしたような言い方に、春絵はもうかなりイライラしていた。今すぐコップの水をこいつの顔にぶっかけて、ここから立ち去りたい気分だった。だが目の前の少年が何を言い出すかが気になって、もうそうすることも出来ない。

 最悪だ。

「で、どうなんですか? あたし、どうしたらいいと思いますか?」

 とたん、少年の目がかっと開かれた。

 その瞳孔はまるで猫のように開いている。その瞳でじっと春絵を見据えている。明らかに人間らしからぬその様子に気付いて春絵の全身にぞわっと鳥肌がたった。

 いや違う。これは、この少年の瞳は恐らく春絵という形を見ているのではない。春絵がいる空間全体を凝視しているのだ。

 まるでそこに映画のスクリーンでもあるかのように。

「え――と、ちょっとあなた、なに――」

「早速だけど、黒毛玉にムカついてるのはオバさんの根性が汚いだけで、あとプロポーズしてきた男とは結婚しないほうがいい。絶対に不幸になるから」

「は⁉」

 唐突な、そしてまたしても立て板に水の言葉に、春絵は思わず叫び声を上げた。

「ちょっと、あんたなに言って……」

「まぁ、そうは言ってもオバさんが幸せになれる結婚なんて、この世のどこにも存在しないけどさ」

 ずずず、と音を立ててメロンソーダを啜りながら、アスラは再びちらっと上目遣いで春絵を見据えた。

「あんたさ、結局その男のことも本当には好きじゃないんだよ」

「――馬鹿言わないで。好きじゃなかったら付き合わないし、あんたなんかに結婚の相談だってしにこようとは」

「ああ違う違う。その馬鹿みたいに真面目なメガネくんのことじゃないよ。チャラくて煙草吸ってて奥さんイジメてるモラハラ男のほうね」

「な、なに?」

 我知らず春絵の声がふるえる。

 アスラの目がじっと春絵を見据えている。――ああ、いや違う。そう。さっきもそう思ったばかりじゃないか。この瞳は春絵のことなど見ていない。

 そう。少しだけピントがズレているのだ。

 なにこいつ。

 どこで何見てるの?

 あたしの後ろに――何を見ているの?

「不倫って、まあ色々パターンがあるわけだけどさー、あんたの場合は最悪だよ。自分以外の女にマウントとって、ああやっぱりあんたが一番なんだわ悔しいって、周りの女達から崇め奉られたい、ようは皆から羨ましがられたいだけなんだよね。妬ませたいのさ。つまりさ、結婚がなんのためにあるものかっていうのが根本的にわかってないんだよ」

 ずず、とメロンソーダがアスラの口に吸い込まれる。

「是が非でも自分が一番でいたい。とにかくめちゃくちゃあんたが一番だって思われたくてたまらない。でも現実は全然そうなってない。自分の欲望が100パーセント完璧に叶ってない。だからムカついてる。で、そのムカつきから胸の中の黒毛玉は湧くってわけ。結論というか構造としてはそういうもんなのね、その黒毛玉。そんで――ああ、結局根っこはそこか」

「根っこ……」

「あんた、自分のお姉さんと比べられるのが厭で厭で仕方なかったんでしょ」

 心臓が跳ねあがり、ひゅっと春絵の喉の奥が鳴った。

 視界が狭まる。薄暗くなる。全身が生ぬるい、ぶよぶよとした厭なものに包みこまれたような、そんな気がする。

 ちりりん、とアスラの胸元で鈴が鳴った。

「でも仕方ないよね。特に姉妹って、そういうふうになりがちなんだよ。親の褒めっていうパイを取り合う関係だからさ。基本何につけても争うしかないわけ。で、相手に比べてちょーっとだけ自分のほうが得意だったり秀でてたりするものがあると、必死でそこ伸ばそうとするんだよね。で、相手に対してマウントとるの。そうやって自分の長所を相手の弱点にするワケ」

 バニラアイスがまた一匙掬い上げられて、アスラの口の中に押し込まれる。

「んーとねぇ、そんでさ、それは多分お姉さんのほうも一緒なんだよね。ほら、あんたってちょっとだけ美人だからさ、お姉さん、自分の見てくれじゃあ、あんたとは容姿の勝負では勝てないってわかってたんだろうね。だから引き籠るの。十代なんか特に外見至上主義世代じゃん? だから他の同世代の人間に対しても劣等感抱いて引き下がってさ、でも勉強だけはちょっとだけできたから、なにくそって感じでがんばって勉強はできる人になったわけよ。――でもさ」

 からん、と中身が空になったメロンソーダのコップの中にスプーンが放り込まれる。

「勉強が出来るって、つまりはインプットなんだよね。で、そのできたインプットを確定形式でアウトプットするっていう、これまたそのやり方をインプットするっていう、お作法獲得術なワケ。そんでこれが出来てたとしても、それが労働スキルとか社会的対応力に反映されるかっていったら関係ないんだよね。それって全くの畑違いなの。それがあるだけじゃあ生きてく役には立たないんだわ」

「それが、おねえちゃんが会社ではうまくできなかった理由?」

 思わず問うと「そうそう」とアスラは、にかっと笑って――はじめてふつうに笑って頷いた。

「金を稼ぐってね、ようは人間を掌の上で転がせないと無理なわけ。いかに他人の考えを読んで、その人間が欲しがってるものを、その意図をすくいとれるかが勝敗の八割を決めるワケよ。インプットが得意なばっかりじゃどうしようもないの。だってこの世は自分一人に情報溜め込めるヤツが勝てる世界じゃないんだもの。相手の欲と情報を個人別に読み取って、サンドバッグにされない程度に注意しながら、あっコイツ敵に回すと厄介だなって思わせられる自分を演出できないとダメなわけよ」

「つまり、おねえちゃんはコミュニケーション力に欠けてたってことでいいわけね?」

「うん。そゆこと」

 その言葉で胸がすっとした。

 そうだ。姉はそういうことが全然だめだったのだ。人と向き合えない、人と生きていけないコミュ障だったのだ。周囲の人々と当たり前につきあってゆくことができない。相手の気持ちが考えられない。それで春絵もずいぶん不快な思いをさせられた。だから姉は世間から排除されて当然なのだ。キモいオタクでデブスで非モテでまともに働けなくて――、

「ふふ」と、我知らず春絵の口から笑いが漏れた。

 そうよ。やっぱりあたし間違ってないの。だってすごく周りの人のこと見てきたし、すごく考えてきたんだもの。どうしたらあたしを一番だって思うか。どうしたらあたしが選ばれるか。だって――選ばれなきゃいけないじゃない。

 なにに。

 何に?

 え、なんだっけ。

 あたし、何に選ばれなきゃいけないんだったっけ?

 ふぅっとアスラが溜息を吐きながら両手で頬杖をついた。

「だから、そもそも自分第一主義で、自分が満足してるかどうかが一番大事で、人の話なんか聞いちゃいない、インプットのイの字もできないあんたに、お勉強ができるわけないんだわ」


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