第5話


 そうして、独り立ちした就職先で出会ったのが、小峰こみねだった。

 一見して、都会の暮らしに馴染んでいるのがよくわかる男だった。服や小物を選ぶセンスが良くて、身のこなしも洗練されていた。といって、必要以上に派手なことを好むでもなく、好ましい程度の生活感があって、金銭感覚も地に足がついていた。これなら親の前に出しても恥ずかしくないと、そう思った。左手の薬指に光っているものには、目を向けないことにした。

 何よりも、今まで付き合ってきたボーイフレンド達とはまるで違って、一緒にいてときめきがあった。

 行きつけのイタリアンはおしゃれで、当然三ツ星だった。

 はじめての旅行では、お部屋に露天風呂のついた隠れ家的な旅館に連れて行ってくれた。

 高いものをねだったりしたことなんか一度もなかったけれど、誕生日にはブランド物のハートのペンダントをくれた。

 彼はとても、ちゃんと特別に大事に扱ってくれたのだ。

 考えてみれば当然だ。あんな田舎の地方丸出しの実家近くで出会える男なんて、皆な高が知れているに決まっている。それでも一応厳選して付き合ってはいたのだ。周りにいる中では、飛びぬけてイケていたヤツしか寄せ付けなかったつもりだけれど、それでも都会に出たあとでは、井の中の蛙だったと認めざるを得ない。

 本物の、本質を知っている都会の男に、あんなヤツらが束になったって敵いっこないじゃない。

 好きだった。

 本当に、馬鹿みたいに大好きだったのだ。

 だからこそ、飲み込み切れないとげが春絵の中に残った。

 そして、胸の奥の黒い毛玉が、わさわさとうごめいては春絵をさげす嘲笑あざわらい続けた。

 やーいやーい。

 ばーかばーか。

 おまえなんかだれもいらない。

 おまえていどのおんないくらでもいるんだー。

 おまえなんかびじんでもなんでもないんだー。

 やりすてられてつかいまわされるのがおにあいなんだー。

 やーいやーい。


「――馬鹿だから、見分けられないんだよ」


 あれは、いつだったか。

 相変わらず気持ち悪いオタクねと、面と向かって姉をせせら笑った直後に、彼女から、そんな言葉を投げつけられた。一瞬呆気に取られて、何を言われたのか理解が出来なかった。

 姉は、無表情でいて、とても静かな声だった。

 あれは、そうだ確か、実家の二階の踊り場で、各自の自室から出てくるタイミングがかぶった時のことだ。

 姉は、そう一言だけ言うと、そのまま部屋へ引っ込んでいった。春絵は、かなり長くその場に立ち尽くしていた気がする。姉の部屋のドアを、ずっと見ていた気がする。

 わからなくて。

 言われたことの意味がわからなくて。

 ずっと、心臓がどきどきしていた。

 馬鹿だから。

 馬鹿だから見分けられない。

 何が本当で、どこで間違ったのかが、どれだけ必死に考えてもわからない。

 わからないんだ。

 馬鹿だから。


 桑名との交際がどれほど順調に進んでいても、その不快な、もやもやとした黒い毛玉が、春絵の胸から消えることは、決してなかった。

 いくら桑名が友人達からうらやましがられるようなスペックを持っていても、実際に羨ましがられていても、全然嬉しくなかった。全然満たされなかった。

 あれは、本当に欲しかった男とは違ったからだ。

 春絵が欲しかったのは、小峰だった。小峰が妻子を捨てて、春絵を選ぶことが大事だった。春絵が一番いいと言って、その手を伸ばしてくることに意味と価値があったのだ。世界がひっくり返るくらいのマジックが見たかった。春絵が最も素晴らしいから、他のどんな女達よりも、飛びぬけて美人でかわいくてイイ女で死んでも手放せないと言わせたかった。それまでの人生を全て捨ててもかまわないと、春絵の前で膝をつく、顔もスタイルもいい、地位も財産もある男が欲しかった。そういうところが見たかった。

 あんな良いものを、あんな男を、贅肉だらけのブス妻が――まるで姉みたいな女が――独占しているなんて許されない。あれはあたしにこそ相応しいの。

 お前はその座からさっさとどけよ‼ いつまでも居座ってんじゃねぇよ‼ みにくいデブスが‼

 あたしはずっと、その瞬間と景色を見るために、不倫相手なんて立場に耐えて、がまんし続けて来たのに、お前のせいで全部台無しだ‼ 誰よりも優れた恋人をもっていて、それを友人達に堂々と紹介できるという、甘いおやつを我慢して、ここまでやってきたっていうのに‼ あのブスは泣き叫んで、自分の親にガキみたいに言い付けることで、それを台無しにしやがった‼

 そして小峰は、そんなブスのところへ戻って行ったんだ。

 あいつは、ゴミのようにあたしを捨てていきやがった。

 ――いや、ちがう。

 あいつは最初から、奥さんを抱けない間に、あたしのことを「体よく」性欲発散のために使っていただけだった。

 畜生。

 ちくしょうが。

 悔しかった。許せなかった。

 自分ばかりが馬鹿を見るのが、どうしても受け入れられなかった。

 だから、やってやった。

 小峰が不在と分かっている時間帯に、彼の自宅に無言電話を掛けるのが習慣になった。通話記録が残らないように、自宅からも会社からも遠いところまで電車で行って、適当な公衆電話から電話を掛けた。

 何度も何度も。

 何度も何度も何度も何度もだ。

 小峰が会社で、「無言電話がかかってくるせいで赤ん坊が眠らなくて奥さんがノイローゼになっている」と、他の部下相手にぼやいていた。

 たまたま給湯室で二人きりになった時に、「まさか、電話かけてきてるの君じゃないよね?」と聞いてきたので、自分の肩をそっと抱きながらうつむいて見せた。

「悲しいです。そんな怖いことする女だと思われてたなんて……」

 うつむいたまま唇をんで震えて見せると、小峰は慌てて「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだよ」と、春絵の肩を抱きよせた。

「わかってるよ。君は優しい女の子だもんね。疑って本当にごめんね」

 俯いたまま、春絵は震えた。

 笑いを堪えるので必死だった。

 気持ちよかった。心底いい気味だと思った。ノイローゼじゃなくて寝不足と疲労から来る産後欝だと教えてやろうかと思ったが、やめた。そのまま全部、壊れて行けばいいと思った。

 家庭が壊れたら、もしかしたらもう一度、少しだけでも、春絵のほうへ振り向いてくれるんじゃないだろうか。――ほんの少しだけ、そう思った節はあった。

 だけど、そんなものよりも「ザマァ見晒せ」という思いの方が、圧倒的に大きかった。

 馬鹿にして。

 あたしのことばっかり、皆そろって馬鹿にしやがって。

 どいつもこいつも、自分ばっかりいい思いして、そんなの認められるわけないじゃない。誰もかれも、あたしを差し置いて、幸せになんかさせてやらないんだから。

 わさわさと黒い毛玉が揺れる。

 どれだけやっても、胸の奥の黒い毛玉が消えない。

 寧ろ増してゆく。

 やーいやーい。

 ばーかばーか。

 黒い毛玉の嘲笑う声が、耳の中から消えてくれない。

 どうやったらスッキリできるのか。どうやったら自分達だけ幸せになっている奴らに、目にもの見せてやれるのか。

 ――男の子が。

 急にその話を思い出した。

 そうだ。会社の女の子達が相談に乗ってくれるという男の子の話をしていたのだ。問題の本質を見抜いて、どんなトラブルでも絶対に解決方法を教えてくれるのだと、お金は結果が出てからの後払いでいいのだと、確かそう言っていた。

 相談したら、この黒い毛玉の消し方も教えてくれないかな。相談に乗る仕事なんだったらシュヒギムくらいちゃんとしてるだろうし。

 ――物は試しって、言うじゃない。

 そんな軽い気持ちと興味本位から、春絵はくだんの同僚へと声をかけたのだった。


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