第4話



 その後小峰こみねは、本当にはるに男を紹介してきた。信じられない神経だと思ったが、それでまかり通ってしまうのが小峰という男だった。

 小峰はそれなりに名の知れた私立大学の出身なのだが、その在学時に所属していたゼミの後輩というのが、彼の紹介してきた男だった。

 眼鏡をかけた瘦せ型のその男は、桑名くわなと名乗った。

 小峰とは違って物静かだが、どこか少し神経質そうにも見えた。それでも少し話してみると、その人あたりは思いの外やわらかかった。

 話を聞いてみると、彼は自分達の会社よりも、よほど名前の通った企業に職を得ていた。

 これは「当たり」だ。瞬時にそう判断した。

 桑名との交際は間もなく始まり、それは思いもよらぬ穏やかな具合で進展してゆくことになった。

 桑名は、小峰と違って誠実だった。女性経験が多い方ではないことは、本人から白状してきた。その言葉の通り、女あしらいが上手いとはお世辞にも言い難かったが、春絵との向き合い方は丁寧だった。

 小峰も賢い男だと思っていたが、桑名は桁違いだった。しかもそれを春絵に向けてひけらかすようなことがなく、何かを質問すれば「あくまでも僕の見解だけれど」と、前置いてから、静かな声音で、ゆっくりと噛み砕いて説明してくれた。小峰がせせら笑いながら、一々「君には少し難しかったかな?」と言うのとは、真逆の謙虚さだった。

 不器用で、表情も硬くて、特に小峰の前では、いつもおどおどと彼の表情をうかがっていた。それだけで彼等の関係性がよく分かった。きっと桑名は、ずっと体よく小峰に使われてきたのだろう。

 ――そして自分は、その「体よく」使える彼に下げ渡されたのだ。

 分かっていた。自分が小峰に不当に扱われたのだということは。

 そして、桑名がそうやって利用されたのだということも。

 分かっていたが、正直渡りに船だと思った。桑名に対して、自分もまた誠実さを発揮するべきだなどとは思いもしなかった。実は、自分と小峰は最近まで不倫の関係にあって、清算するために貴方は利用されたのだ。貴方は巻き込まれたのだから、不快だと思ったなら、ここで終わらせて別れてくれて構わない。

 ――そんなことができるか!

 だって今更そんなことを打ち明けてどうする? 小峰を逃した上に、折角回って来たこんな優良物件まで今更逃して堪るか⁉

 桑名に対して不誠実な扱いを続ける小峰に対し、自分は、もっとちゃんと怒りを抱くべきだったのかもしれない。今は桑名の恋人なのだから、その立場で物を考えるべきだったのかも知れない。ちらっと一瞬そう思いはした。したけれど、春絵は、すぐに考えるのを止めた。

 小峰が手に入ったなら、それはそれで良かったのだ。そもそも、イイと思っていなかったなら、既婚者と分かってあえて手を出したりなんかしない。最後に失敗したのは――運が悪かっただけだ。ならば今自分の手の中にある駒を大事に守って何が悪い?

 二十一歳になっていた春絵は焦っていた。

 結婚は早いうちに、若いうちにしないと負けてしまう。

 結婚くらいは、女としての勝ち組としてのゴールくらいは、いの一番に手に入れなきゃ――万一、姉の方が先に嫁いでしまったりしたら、もう取り返しがつかない。それじゃあ、自分の人生、ずっと姉より劣っていることになってしまうじゃないか。

 厭だ。そんなの厭過ぎる。

 絶対に認められない、受け入れられない、受け入れたくない、そんな現実は。

 おどおどとしているのに、眼鏡の奥にどこか強い視線を持っている。そんな桑名の表情を見ていると、いつしか姉のことを思い出す自分に、春絵は気付いていた。

 桑名は好条件の男だとわかっているのに、それでもどこか気に喰わないと感じるのは、そういうところがあるからだった。

 姉と春絵は、とにかく相性が悪かった。性格もタイプも、ことごとく違い過ぎていた。

 姉は、成績はかなり優秀だが、どこか野暮で、小さいころから眼鏡をかけていて、佇まいがもっさりとしていた。そういうことは、選ぶ服装や体型に如実に表れていた。いわゆるオタクと呼ばれる人種だった。思春期に入ったころからずっと、春絵は姉のことが気持ち悪かった。姉のことを心底嫌悪していたし、その友人もまとめてダサくてキモいと軽蔑していた。そもそも小学生のころから姉は「私はステキな守護神様に護られているんだから」と中二病丸出しの妄想を放言してはばからなかった。中学生になっても変わらないので、学校で絶対話しかけるな、姉妹だなんて人に絶対言うなと、わざわざ本人の目の前で言い切った。だから、お互いにずっと口を利かなかった。

 春絵は、姉ほど頭の出来が良くなかったので、よく先生達からも比較された。「姉ちゃんは、あんなによくできたのになぁ」と、あんな気持ちの悪い姉よりも、自分のほうがおとっているとそしられるのが、納得できなかった。スタイルもセンスも、自分の方が圧倒的に優れていたし、間違いなく友人達もクラスの上位層だったし、自分はそこに名を連ねているのが当然の人種なのだと信じて疑わなかった。あんなものと比べられるなんて論外だと、心の底からいきどおっていた。

 ……きっと、そうとでも思わなければやっていられない鬱屈が、春絵の中にあったのだろう。

 姉は、思春期を迎えて以降、成長を経るにつれて、更に内へ内へと籠るようになった。実際、十代の姉は部屋に閉じこもり、ずっとパソコンに向かってキーボードを叩いているだけの生活を送っていた。何をしていたのかは知らない。どうせオタクらしく、うじうじと気持ち悪い妄想を、掲示板とかいうのに、ぶちまけていたのだろう。

 身体についた贅肉はぐんぐんと増してゆき、陰気な顔は脂肪の中に埋もれて、それぞれのパーツは、もはや原型をとどめていなかった。春絵は、父や母がぶつぶつと姉に対する文句を言っているのを聞き、せせら笑いながら流行りの歌番組をリビングで見ていた。

 あんなダサくて不細工な女と、同じ血が流れているなんて絶対嘘だ。

 勉強くらいしか取り柄のない、デブなブス。

 一生部屋に閉じこもって、あたしに迷惑かけずに、ひっそり死んで行ってくれたらいいのにな。

 ダイエットコークを飲みながら、そんな風に思っていた。

 そんな姉が、国内有数の国立大に一発合格し、家から出ていくのだと聞いたときは、青天の霹靂かと思った。

 これはまずいと思った。

 厭な予感は的中した。それから、両親の姉と自分に対する評価や扱いは、ものの見事にひっくり返った。

 困った顔で小首を傾げながら、母親は春絵を見て溜息を吐いた。

「ねぇ春ちゃん。見た目にばっかりかまけて、中身がちゃんとしてないのは、やっぱりだめなのよ。お化粧よりも数学の成績が落ちているのはどうなっているの?」

 うるさいうるさいうるさい‼

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい‼

 うるっさいんだよ馬鹿親‼

 調子がいい時ばっかり持ち上げやがってマジクソふざけんな‼ ちょっと前までお前らもあれじゃ嫁の貰い手がないとか、人として終わっているとか、部屋がかびくさくなるとか言ってただろうが‼

 春絵の怒りは無人になった姉の部屋に向けられた。

 壁に貼られたままだった、姉が自分で描いた化け物みたいな守護神様とかいうのとそれにバックハグされた美化二百%な姉のツーショットイラストを破り捨てて、残されていたオーバーサイズの白いヒラヒラフリルリボンワンピも切り刻んで、全部ゴミ袋に捨ててやった。

 馬鹿にして。

 あたしのことばっかり馬鹿にしやがって。

 ざわり、ぞわりといやな物が胸の底に湧いてくる。


 ――毛玉だ。

 胸の奥に、黒い毛玉があるのが分かった。


 それがゆっくりとうごめいて、春絵を見て嘲笑あざわらっているのが分かった。

 気分が悪くて悪くて堪らなかった。

 だけれど、実際に低空気味だった成績は否定できなかった。春絵は部活を早期引退して、塾に通わせられることになった。それでもなんとか引っ掛かったのは、地元の私立短大一校だけだった。だから、家から出るという選択肢は与えられなかった。国立大とはいえ、家を出た姉への仕送りは削れないからだ。

 それもまた、春絵の憎悪を駆り立てた。姉ばかりが、あの姉ばかりが優遇されているというのが、とてつもなく憎らしかった。


 状況がまたひっくり返ったのは、姉が就職した大手企業を、たった一年で退職して実家に引き上げてきた時だった。

 あんなにでっぷりと肥えていた姉が、見るも無残に痩せこけていた。

 春絵は――ほくそ笑んだ。

 社内の人間関係にうまく適応できず、また業務内容も肌に合わなくて、出社できなくなったのだという。両親の落胆は大きかった。

「あんなに金もかけてやったのに……」

「ほんと、どうしてこんなことに」

「会社に行けなきゃどうしようもないだろうが。働けない人間なんて何の役に立つんだ」

「ねぇ。お勉強だけができてもダメなのねぇ。やっぱり人とのお付き合いもある程度はちゃんとできないとねぇ」

「春絵はその点昔からうまかったし、心配はなさそうだなぁ」

 あれほど胸がすいたことはなかった。

 更に、姉の出戻りと入れ替わるようにして、今度は春絵が都内の企業に就職が決まり、実家を出ていくことになった。姉を見て、必要以上にハードルの高い大手を目指すのはやめた。地味でも堅実な企業を選んで、就職活動をしたのが功を奏した。

 少しだけ体重の戻った姉が、まだ少しやつれた表情で「気をつけてね」と見送りに立ってくれたときに、春絵はにこりともしないで「うん」とだけ言って、もう振り返らなかった。

 やっぱり自分の方がうまくできるんだ。

 自分の方が幸せになれて当然なんだ。

 玄関の先に広がっていた世界は、本当に明るかった。

 それがこの先もずっと続くと――そう信じていた。


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