第3話



 はるが、はじめてアスラのことを耳にしたのは、干支が一回りするほど昔のことになる。

 会社の同僚がしていた噂話のひとつが、それだった。

「ねぇ知ってる? どんな相談にも乗ってくれる、若くてかわいい男の子の話」

「えぇ? 男の子が相談? え? それ何か役に立つの? あ、もしかして新手の商売とか? イケメンがお話聞きますっていう体で沼らせて、借金つくらされて風俗に沈められたりとか、闇バイトに巻き込むとかいう?」

「ちがうちがう、アンタちょっと想像力豊かすぎない? ほんとね、ふつうに相談にのるってやつなの。それがね、すごいんだって」

「すごいって、どう?」

「絶対知らないはずのことまで、ぴたりぴたりと言い当ててきて、相談ごとの本質を見抜いてくるんだって」

「えー、何それ怖。スピリチュアル系とか? じゃなきゃメンタリストにタゲられてるとか?」

「そんなレベルじゃないらしいんだって。確かに、ちょっと怖いんだけどさ、でもその子には問題の本質が見えてるから、どうすればトラブルを解決できるか、方法まで全部教えてくれるんだって」

「えー、でもやっぱりそういうのってお金かかるんじゃないの?」

「それがね、結果が出てからの後払いでいいんだって」

「うさんくさーい、ほんとに?」

「ただし、支払いケチるとその後で祟られるんだってぇ」

「きゃー! こわー!」

 きゃっきゃと話題の花を咲かせている。怖い怖いと言いながら、結局彼女達は、それが楽しいのだろう。

 二人の話を、春絵は紫煙をくゆらせながら、聞くともなく聞いていた。

 給湯室での、ほんのささやかな休憩時間。換気扇の下での喫煙が許されたのは、時代柄や社風のゆるさもあったが、所長の小峰こみね自身がここを喫煙で使うからだ。三十半ばで所長に抜擢されるというのは、彼がそれなりに世渡り上手で優秀だったからだろう。

 そうこうしているうちに、壁の時計から、りんりーんと小さな音が零れ落ちた。休憩時間終了のお知らせだ。ややあって、きいとドアが開かれる。

「はーい、そろそろ休憩終わりねー」

 ぱんぱんと手を叩きながら給湯室に入って来たのは、当の小峰だった。

「はーい、わかりましたー」

「あ、山路やまじさんはちょっと残ってね。在庫補充の件で話があるから」

 小峰がちらと春絵に視線を向ける。

「わかりました」

 小峰と春絵を残し、二人は事務所へと戻っていく。休憩時間終了と言いながら、ドアが閉まるのを見届けるや否や、小峰は自身の煙草を胸の内ポケットから取り出し火を着けた。

「在庫って、どれのですか」

 春絵が問うと、小峰は天井の染みを見つめながら紫煙を吐き出した。

「お客さん用のコーヒー。残り少なかったでしょ」

「あれなら先週買い足しておきましたけど」

「あれじゃなくて、本社の人達用のヤツ。再来週、山下部長が来るって言ってたでしょ? あの人好みがうるさいじゃない。賞味期限切れてたかもだから、チェックしておいて」

「わかりました」

 ふいに小峰が体を曲げた。春絵の耳元に唇をよせる。

「――それと、昨日はごめんね。途中で帰っちゃって」

 小峰が声を抑えてぼそりとつぶやく。春絵は、ちらりと彼の顔を見てから微笑んで「ううん」と首を振った。

「あの後大丈夫だったの?」

 小峰は溜息を吐きながら笑う。

「子供と約束してたの、すっかり忘れててさ。でもあんな剣幕で電話してくることないと思わない?」

 壁に向かって煙を吹きつけながら、小峰は春絵の手を握る。春絵からも、指先を絡めてかえす。

 昨夜、電話越しに漏れ聞こえてきた、小峰の妻の涙交じりの怒声が耳の奥によみがえる。

(ねぇ! なんで今日くらい帰ってこれないの⁉ あんなに何回も言っといたのに! 自分の娘の誕生日だよ⁉ パパ絶対帰ってくるって言って、ご飯もケーキも食べないで、泣いて寝ちゃったんだよ! わかってんの⁉)

 小峰が眉間に皺をよせつつ、耳から携帯を放して聞いていたから、内容は春絵にも全部筒抜けだった。うんうんと煩わしげにうなずいている小峰の顔を見て、春絵は鼻白んでいた。

 ――馬鹿な女。こんなことするから旦那に愛想つかされるのよ。

 携帯に向かって妻の叫び声を聞いている小峰の背中に、春絵はぎゅっと抱き着いた。甘えるような、甘やかすような手で小峰の裸の胸と腹をでると、小峰もまた、春絵の手を優しく撫でかえしてきた。男の背中に頬を押し当てながら、春絵は彼の妻のことを、心底馬鹿な女だと見下げた。

 こんな馬鹿なマネ、あたしなら絶対やらない。泣いて叫んで、鬱陶しい。そんなことしてたら男は皆逃げるに決まってるじゃない。あたしなら、もっとうまくやるわ。

 そんなだから小峰さんもあたしのほうが良いって言うのよ。子供がいることに胡坐かいて、女としての努力を放棄して、そんなだから大事な物を失うのよ。馬鹿みたい。

 聞き分けよく笑顔で小峰を送り返した昨日のことを思いかえしつつ、春絵は、甘えと睦言を思い出させるための目で小峰を見上げた。給湯室でもどこでも、男と女はいつだって、愛し合った記憶をよみがえらせることができる。意識させて、離れられなくさせる手管が使える。そういう女に、男は溺れるものだから。

 そう思って、ぎゅっ、と、絡めた指先を強く握った。

 すると、小峰はふふっと困ったように笑った。そして、春絵の手から指をするりと外した。春絵が、えっと思っていると、彼はその唇からフィルターを外してこう言った。

「だから、ごめんね、そろそろおしまいにしよっか」

「――え」

 春絵は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で小峰を見上げた。そんな――馬鹿みたいな顔を彼に見せたことは、これまで一度としてなかったのに。

 うんうんとなだめるように笑いながら、小峰は春絵を見下ろした。

「ウチの奥さん、ちょっと僕らのこと勘付いちゃってたみたいなんだよねぇ。あっちのお義父とうさんお義母かあさんが、週末に娘に会いにくるって言ってんの。多分、釘刺す気なんだと思うんだぁ」

 小峰が灰皿に煙草を押しつけるのを見て、春絵も慌てて同じようにする。もう少しで灰を床のカーペットに落とすところだった。

「――あなた、奥さんとは別れたいんだって言ってたじゃない」

 小峰は「ははっ」と肩をすくめた。

「そこは――こうさぁ、色々状況ってものがあるじゃない」

「状況って」

「お互い幸せな時間を過ごしたでしょ? 思い出を汚すようなことは止めようよ」

「は⁉」

「ちょっと、大きい声止めて」

 しぃっと言いながら、小峰は微笑んで春絵の唇に指先を当てる。春絵の全身に、ぞわりと熱だか寒気だかわからないものが走った。なんだこれ。なんだこの男。何言ってるんだ。一体どこの俳優のマネだ? 小峰の芝居がかったその振る舞いに――春絵は、はっきりと寒気と嫌悪を覚えた。

「僕もさ、探られて困るものは放置しておきたくないし。再来月末には、二人目も生まれるしね」

「ちょっと、二人目って、あたし聞いてない! 奥さんとはもうしてないって……」

 言ってた。半年前に。

 ――それは、つまりそういうことか。

 するりと小峰は春絵から離れた。呆気に取られていると「あ、そうだ」と彼は振り向いた。

「おわびといってはなんだけどさ、俺の後輩に良い奴がいるから紹介するよ。来週末、時間空けといて」

 ぱたんとドアが閉まる。

 何が起きたのか理解するのに、しばらく時間がかかったけれど、飲み込んだ後に残った事実は、ただの現実だった。

 そうして、およそ五ヵ月に及んだ春絵の不倫は、呆気なく幕を閉じたのである。


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