1 縁

第2話


 はるがドアを押すと、かららん、と軽い鐘の音が頭上から降ってきた。

「いらっしゃいませー」とやる気のない声が、外気温と大差ない冷気と共に彼女を出迎える。声を発したのは、カウンターの奥にいるヒゲを生やしたバーテンダーだった。かすかに見おぼえがある。マスターだ。確か十三年前、彼はそう呼ばれていた。半地下のせいで真昼だというのに店内は酷く薄暗く、他に店員らしい人影は見当たらなかった。十二月末の都心に立地しているというのに、閑古鳥が鳴いている。目に入るかぎり、春絵以外の来客は一人もなかった。

 いや。次の瞬間、春絵の視線が一点で止まった。一番奥の衝立で隠されたテーブル席に一人だけ先客がいたのだ。黒いアイアン枠に布製のスクリーンが張られただけの衝立は、ややくすんだ白で、その向こう側に着席している客の影を、まるで貧相な影絵のように映し出していた。

 いた。あいつだ。まちがいない。

 こくりと生唾を吞み込んでから、春絵は、ゆっくりとその席へ近付いてゆく。こつ、こつ、こつ、と、自分の立てるヒールの音がやけに大きい。

「――えー、十年ぶりくらいかなぁ」

 思わず、びくりとして春絵は足を止めた。心構えのないタイミングで春絵の耳の奥に届いたその声は、記憶していたものよりも、やや高い。それは確かに、衝立の向こう側にいる人物から発せられていた。こちらを見て言ったことではない。その証拠に、スクリーンの影はこちらへ背中を向けたままだ。だが間違いない。それは彼女へ向けての言葉だった。

 ゆっくりと、その姿が見えるところにまで移動すると、彼は、ようやくこちらへ目を向けた。

「おひさしぶりー、オバさん。元気してた?」

 驚いた。まるで何も変わっていない。

 その飄々とした語り口も、少女のような丸顔も、ふわりと癖のついたピンク色の髪も、アーモンドのような形をした色素のうすい瞳も、華奢な体型も、ネイビーブルーの猫耳フードと、しっぽつきのパーカーも、同じ色のハーフパンツも、その首から下げた、極々小さな銀の鈴のペンダントも。

 何もかもが、あの日のままだ。

 眉間に皺を寄せながら、はるは了承もとらず彼の対面に座った。ぎぎ、と、椅子の引かれた音がうるさい。

「あなた、年取らないの? もう十年どころか、うちの娘、来年中学生よ」

「やっぱり、あの時に相談してきた男と結婚したの? 娘って、そいつとの子でしょ? やだなぁ、ぼく止めたのにさ」

「――旦那、死んだわ」

 ことり、とテーブルの上にマスターが水のグラスを置いたのと、春絵がそう告げたのは同時だった。ヒゲの男が固まっているのがわかるが、知ったことではない。

「それはそれは。御愁傷様でしたー」

 ご愁傷様、などという気がかけらもないのは明らかだった。それは彼の口調からだけでなく、行儀悪く頬杖を突きながら、どうでもよさげにフォークの先でナポリタンをくるくる巻き取っている様子からも見てとれた。

「いつ死んだのかとも聞かないのね。ちょっとくらい興味がある素振りでもしてみせたらどうなの?」

「だって、つい最近のことなんでしょ?」

「――どうして、そう言い切れるの」

「だって」

 こぼれ落ちそうに大きな目が、春絵をじっと見つめる。見つめながら大きく口を開けて、「あーん」とナポリタンを頬張る。咀嚼そしゃくしながら、口から外したばかりのフォークで、春絵の背後を指した。


いてきてるもん。旦那さん。幽霊なりたて、ほやほやの姿で」


 ぞわりと背中が総毛だった。

 思わず振りかえるが、もちろんそこには何もない。何も、見えない。

 春絵は、きっと前を向いて、猫耳パーカーの少年を睨みつけた。

「ねぇアスラ。あんた、あの時あたしの後ろに一体何が見えてたの?」

 アスラは、にやりと笑った。猫のように。もしかしたら、その瞳孔を縦一線にして。

 彼のかたわらには、十数年前と同じく、段ボールに白画用紙をのりで貼り付けただけという、貧相な見栄えのB5サイズの看板が立てられていた。


『この世の地獄の相談、よろず承ります  よいのぐちアスラ』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る