となりの阿修羅ちゃん

珠邑ミト

始 奪

第1話



 ――あなたは悪くない。あなたは、何も間違っていないのですよ。

 

 それはまるで、口の中で言葉をめまわしているような話し方だった。

 重い瞼をこじ開けると、口元を左右から両手で覆った若い禿頭とくとうの男が私を見下ろしていた。せいへき色の作務衣をまとっているから僧かと思ったが定かではない。見上げていると、男はすっと静かな笑みを目元に浮かべた。

 触れただけの刃が音もなく紙を切り落とすような、そんな微笑みだった。

 この時の私は、ただただ口いっぱいに広がる血の味と、砕けた歯と肉の感触に、取り返しのつかない恐怖と絶望と、それからやや薄い諦めと不快を覚えていた。

 顔が痛かった。顔にはまだ痛覚が残っていた。肩から下は、もうただ熱いばかり。コンクリートに押しつけられた右頬が歪んで右目がよく見えない。ああ私は、私の全身は、


 潰れたのか。落ちてきた鉄骨で。この工事現場で。

 真夏の白い光の下でごろり転がって、潰れて汁を撒き散らす虫のように。


 五十の半ばで死ぬのかと、そう思った。

 家族に捨てられ命を惜しまれることもない親父が死ぬだけの、つまらない一生だった。

 どろりと背中で何かが蠢く。

 ざわざわと記憶の中で黒い樹々が揺れる。

 あれは、本当は、何がうごめいていたのだろうか。

 目を閉じた。

 寒かった。

 なんだかずっと、全身が寒かった。

 背中が寒かった。肩がじっとりと冷たかった。湿気っていた。のかもしれない。

 だから、そんな身体に、その男のささやく「あなたは悪くない」という言葉は、まるで胃の腑に白湯が満ちるように――効いた。


 私は、

 私は、がんばったのです。

 がんばって、がんばって、誠実であろうとして生きてきました。

 なのに、どうして。

 どうしてこんなに、周りは、世間は、私を苦しめるのでしょうか?


 目を開けた。男はまだそこにいた。右目は、やはりもう見えていなかった。

 男は、私をじっと見つめて頷いた。その左目の下にある泣きぼくろが妙に――妙に目障りなような気もした。


   そうですね。あなたは苦しかった。

   そんなものを背負わされて、もう、十分に苦しんだでしょう。

   あなたは悪くないのです。

   さあ、それをこちらへ。

   あとは、わたしが引き受けますから、あなたは安心して、その身を、おてんとうさまに捧げるのです。


 とたん、背中の蠢きが――剥がれた。

 ああ、でも、私は、どうしてこんなに不安なんだ。

 恐ろしくて。恐ろしくて、頭の中で黒いとぐろが、



 ほうりきほう、りきりき。



   だいじょうぶ。

   あなたはもう、何も考えなくて、よいですからね。

   そう、あたたかくて、黒くて、ほら。

   これからあなたは、おてんとうさまと、

   永遠に、いっしょですからね。


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