人ならざる君と
浜彦
狭い世界を持つ俺と、その世界の半分を占める君
俺の世界は、狭い。
自宅、仕事場、行きつけの喫茶店。それだけで、現実の生活が完結している。
ああ、俺の仕事場は自宅そのものだから、実際の活動範囲はさらに狭い。三食を済ませる喫茶店も、自宅から歩いて十分もかからない場所にある。日用品は全て宅配で済ませてしまう。友達はほとんどいない、連絡を取ることも少ない。俺は、そんな孤独な、ほぼ引きこもりのような男だ。
現実の世界が狭い俺だが、いくつもの広大な仮想世界を持っている。
俺が作家だからだ。
歩きながら、ふと視線を横に向けると、ホログラフィーが目に入った。俺の小説が原作となったドラマの宣伝だった。俺の筆名は広告の隅に小さく載っているが、確かにそこにあった。
派手なキャッチコピーにはいまだに照れるが、こうでもしないと売れるのは難しいのだろう。マルチメディアが氾濫し、高性能なVRであらゆる体験が得られる時代、読書という趣味は高尚でレトロなものだ。電子書籍を読む人さえ減り、紙の本を手に取る人などなおさら少ない。
俺は毎回、担当編集者に紙の本を必ず発行してくれと頼む。これは俺なりのこだわりだ。出版社にとって利益があるとは思えないが、俺にとっては紙の本を手にし、それに自分のサインを入れることで、初めて自分が作品を作り上げた実感が湧くのだ。俺の所属する出版社は寛大で、いつもその願いを叶えてくれる。
いや、こういう場合、「彼女」の采配によるところが大きいのかもしれない。
そう思うと、俺はため息をついた。そしてちょうどその時、俺は目的地に着いた。お気に入りの喫茶店だ。大きな窓から温かい光がこぼれ、木製のテーブルと椅子、古風な装飾が店内を彩る。静かで安心できる空間だ。
「彼女」はそこにいる。
いつもの席に座り、いつものメガネをかけ、いつもの真剣な表情を浮かべている。彼女はうつむき、本を手にしている。ページをめくると、耳にかけた長い黒髪がさらりと流れ落ちた。彼女は髪を耳の後ろに戻しながら顔を上げ、その視線がちょうど俺と合った。
彼女は微笑む、ほんのりと。軽く手を上げて、こちらに小さく振った。
ふう。
深呼吸をしてから、俺は再び歩を進め、ガラスの扉を押して店内に入る。マスターに軽く会釈をしながら、俺は彼女の正面に座った。
「久しぶりね、オサム。前回会った時から、もう7日と3時間25分が経ったわ。」
「ああ、久しぶりだな、シオリ。」
席に腰を下ろすと、マスターがいつものようにコーヒーを持ってきてくれた。軽く頭を下げて礼を言い、カップを一口飲む。視線をそっと目の前のシオリに向けると、彼女は本を閉じて横に置き、両手をテーブルの上で重ね、透き通るような青い瞳でこちらを見つめていた。
思わず視線をそらす。彼女が横に置いた本が、俺の作品の一つであることに気づいた。
シオリは相変わらず、人間離れした美しさを持っている。
それもそのはず、シオリは巨大な機械「マザー」によって構築された「機人」の一人だ。旧世代の表現で言えば、いわゆるアンドロイドに近い存在だろう。もっとも、アンドロイドという言葉は、シオリのような出自の者たちに対する差別が消え去った現在では、古い蔑称となり、ほとんど使われなくなっている。
シオリが口を開く。
「酷い顔。痩せたわね、オサム。ちゃんとご飯は食べているの?目の下にクマができてるみたいだけど、ちゃんと寝てる?」
「一応はな。」
「そう。体を大切にして。あなたは自己管理能力が低いから、常に気をつけないとダメよ。」
目の前の美しい女性からの批判に、思わず白目を剥く。
「またそれか。」
「だって、こうやって注意しなければ、オサムはほとんど生活能力がないもの。」
「はい、はい。わかったよ。」
「いいえ、わかってないわ。」
優雅に肩をすくめながら、シオリは首を横に振る。指を鳴らすと、空中にいくつかのグラフィックが投影された。
「――はぁ。もっと説教したいところだけど、これ以上言っても逆効果だとわかっているわ。さて、そろそろ本題に入りましょう。あなたの新作について。」
シオリのその言葉を聞いて、俺は思わず息を詰めた。彼女が空中に映し出されたグラフを指先で滑らせ、次々と切り替えていく様子を見つめながら、心臓の鼓動が速くなり、背中に冷や汗が滲むのを感じた。
「正直に言うわ。」
「ああ。」
シオリが指を一つのグラフに留めた後、まるでズナギツネのように目を細めて俺を見つめる。
「全然ダメね。」
「……は?」
俺の狭く自己完結した世界は、その瞬間、音を立てて崩れ去った。
「いやいやいやいやいやいやっ!」
思わず立ち上がりそうになるのを堪え、静かな雰囲気を壊さないギリギリの声量で、目の前の編集者に抗議する。
「全然ダメ?は?それどういう意味だよ!ちゃんと読んだのか?」
「もちろん。」
シオリはメガネを押し上げた。そのレンズに寒々しい光が反射する。当然、伊達メガネだ。機人に視力の問題なんてあるわけがない。
「まず、主人公の個性が薄すぎる。」
「だって重視すべきは主人公じゃなくて、主人公を取り巻く女の子たちだろ!」
「それから、タイトルには『一途な純愛』って書いてあるくせに、内容は主人公が手当たり次第に女に手を出し、未亡人に色目を使い、娼館で大いに遊びまくるっていう、不誠実極まりない展開ばっかり。」
「だからそれが男の夢なんだよ!」
「それに加えて、物語の中に黒髪でメガネをかけてて、青い目をした機人美少女が一切出てこないっていうのも腹立たしい。」
「最後のそれ、完全に君の私怨じゃねえか!」
「ともあれ、データ分析の結果として、ストーリー展開や各種タグの特性を総合的に評価し、現在の流行傾向を考慮すると、予測される利益率は1を下回る。出版した場合、大きく赤字になる可能性が高い。現在市場に出回っている、ターゲット層が明確でストーリーがきっちりしている無双ハーレム作品と比べると、あなたの作品はただ性癖を晒して、恥部を振り回しているだけで、商業的価値が一切感じられない。娯楽性においても、癖が強すぎて予想される読者層が極端に狭い。」
「だったら最初にそのデータ分析の結論だけ言えよ!それと後半は完全に人身攻撃だろ!」
「以上。」
シオリは微笑む。
「ゴミね。おめでとう、また一本の駄作を産み出したわ。」
「よーし、喧嘩売ってんのか?無双ハーレムを舐めるなよ!今すぐ外に出ろってんだ、オラァ!ぶっ飛ばしてやる!」
シオリに向かって暴言を吐き散らす俺だが、彼女は微塵も表情を崩さず、ただ一口コーヒーを飲んだだけだった。
「いいえ?だって、私の知る限り、上手く書いてる人はたくさんいるもの。私はただ、あなたに対して喧嘩売ってるだけよ。」
「余計にたちが悪い!」
「まったく。執筆に専念するとか、新しいジャンルに挑戦するとか言って、出てきたのがこんな拙劣な模倣作品だなんて。だから、今の連載を中断するっていう案には賛成したくなかったのよ。おかげでスケジュールが全部詰まっちゃった。上からのプレッシャーを受けてる私のこと、少しは考えてほしいものね。」
「うっ……」
痛いところを突かれ、思わず黙り込む。確かに、あのジャンルを簡単に真似られると思った俺が間違っていた。だって、徹夜でいい作品を観たら、自分でも書いてみたくなるだろ?それに、シオリがきっちり調整していたスケジュールを押しつぶしたのも事実だ。言い返す言葉が見つからない俺に対して、シオリは追い打ちをかけることなく、顎に手を添えて俺を見つめ、微笑んだ。
「あなたって、本当に私がいないとダメなんだね。」
「は?」
「ダメダメなあなたは、どこをとってもポンコツ。ちょっと目を離せば、すぐにこうやって転ぶ。私が手綱を握らなきゃ暴走するし。私が言わなければ、食事や睡眠を忘れる。人見知りで、私が一緒じゃなきゃ、初めて会う方との接し方さえ分からない。私がいなければ、とっくに死んでるかもね。」
「そ、それは今回の作品とは関係ないだろ!」
「関係あるわ。」
シオリは胸を張り、手を自分の胸元に置いた。
「挑戦はとてもいいこと。でも思い出してみて。チーレム系な題材よりも、あなた自身にもっと近い題材があるんじゃない?例えば、献身的で、美しくて、優しくて上品で、かわいい機人美少女とのラブコメとか。」
「は?いやいやいや、俺の周りにそんな奴いないから!どっちかって言うと、鬼みたいな機人なら……」
言い終える前に、俺の顔が掴まれた。
「痛い痛い痛い痛い!骨が砕けるぅ!目玉が飛び出るぅ!脳みそが鼻から漏れそうだ!パワー強すぎだろ、もしかして軍用の規格に改造したのかっ?」
「はぁ。やっぱり、もっと時間をかけてあなたを面倒見ないといけないわね。別に望んでるわけじゃないけど……仕方ないから、そうするしかないわ。ええ、本意じゃないのよ。」
「あの、シオリさん?そろそろ手を放してもらえませんか?なんか、何かが砕ける音がしたような気がするんですけど?」
顔が潰れそうだと本気で思い始めたその瞬間、顔を締め付ける圧力が突然消えた。見ると、マスターが隣に現れ、パスタをテーブルに置いていった。とても美味しそうだ。
シオリはため息をつきながら、静かにパスタを食べ始める。俺も痛む顔をさすりながら、大人しくフォークを手に取った。
二人で無言のまま食事を進める。
「……」
「……」
「なあ。」
「なに?」
「そんなにダメだったか?」
「ダメというより、今のままじゃ売れないってこと。だって、同じ題材で上手く書けてる作品がたくさんあるんだもの。ビッグデータの分析が参考になるのは、あなたも分かってるでしょ?」
「そうか……だよな。失敗したか。試してみたかっただけなんだけどな。」
再び俺たちは沈黙に戻り、食事を続けた。微かに聞こえるのは、食器が触れ合う小さな音だけだった。
「……ねえ。」
今度はシオリが口を開いた。彼女はフォークを置き、真剣な表情で俺を見つめる。
「ん?」
「ハーレム。欲しい?」
「——いや。別に。」
「そう。」
「うん。結局、俺は一人と長く寄り添い合って、支え合う関係に憧れてるし、そういう物語の方が好きなんだ。そう考えると、なんで自分があんな話を書こうと思ったのか……流行を追うことばかり考えて、自分の気持ちを全然考えてなかったみたいだな。」
「ん。それを分かってくれればいいわ。」
シオリは再びフォークを手に取り、皿のパスタを巻き取る。なぜだろう、彼女が少し嬉しそうに見えた。
「とはいえ、売れない作品を書いて時間を無駄にしたという事実は変わらないけどね。」
「ぐっ……」
「気を切り替えて、あなたの得意なジャンルに書き直すのはどう?」
「うーん……まあ、そうだな。でも、それだと大幅に改稿しないといけないな。あ、でも、一部のストーリー展開は残せるかも。」
「それでいいわ。主人公のクズっぷりはともかく、起こる出来事自体は面白いものね。誰かさんが自己投影した結果かしら?」
「おいおい。遠回しに俺をディスるのやめてくれよ。それとさ、なんかやたらチーレムに詳しそうだけど。他の作家さんの担当もしてるみたいじゃないか?」
「してないわよ。ただ、あなたくらいの年齢の男性が好きそうなものを、データで学習しただけ。」
「え」
「他の作家の担当なんて全部断ったわよ。他の人に時間を費やす気はないから。それに、あなたはちゃんと私の期待に応えてくれてる。一人で数人分の成果を出してるもの。暴走する時があることを除いてね。まあ、それも含めてあなたらしいけど。」
「それ、どういう意味……」
「マスター、飲み物とデザートを。オサムは?」
「え?あ、ああ。君と同じで。」
マスターが俺たちの前の空いた皿を下げていく。俺はというと、視線を落としてグラスの水を静かに飲み始めた。
なんだか、頬が少し熱い気がする。
こっそり向かいを見ると、彼女は相変わらず涼しい顔をしている。
……水、うめえー。
「お待たせしました。こちらはデザートのパンケーキです。」
マスターがパンケーキを運んできた。シオリは慣れた手つきでハチミツを取り、湯気の立つパンケーキにかける。そして、ナイフとフォークで丁寧に一切れを切り分け、生クリームを添えた。それから髪を後ろにかき上げながら、パンケーキを口に運ぶ。彼女がほんのり舌を出して、桜色の唇を舐めるのが目に入った。
ごくり、と。
俺は、思わず唾を飲み込んでしまった。
「どうしたの?いくらそうやって見つめても、私の分をあげる気はないわよ。おとなしく自分のを食べなさい。」
「……別に。ただ、君って本当に甘い物が好きなんだなって思って。」
「意外?」
「いや。もう何回君と食事したと思ってるんだ。単純に、すごく好きなんだなって思っただけ。」
「オサムは?」
「ん?」
「オサムはどうなの?甘い物、好き?嫌い?」
「うーん……好きとも違うし、嫌いとも違う。どちらかと言えば、甘い物自体はあってもなくてもいいかな。でも、たまにすごく美味しいって感じる時がある。特に好きになる瞬間がね。うまく言えないけど。」
「何それ。作家のくせに。」
ともかく、俺もナイフとフォークを動かす。柔らかで甘い味が口の中に広がった。
――おいしい。
なんだか、ハチミツが思ったより甘く感じる。
パンケーキを食べ終わると、俺たちはマスターが運んできたお茶を飲みながら、第二ラウンドの会話を始めた。
今度は雑談ではなく、作品についての真面目な話だ。
意見がぶつかることは多いけど、俺はこういう会話が嫌いじゃない。
前のめりになり、いつもの癖で髪を後ろにかき上げ、真剣な表情を浮かべるシオリを見ていると、俺もつい姿勢を正し、彼女の質問や提案に真摯に向き合う。
シオリは演算やビッグデータから得られた結論を語り、ターゲット層やブランド展開について分析していく。一方、俺は自分の主張を押し通そうとし、アートとしての価値を強調する。こうして意見を交わし続け、最終的にはお互いが納得できる妥協点を見つけるのだ。
満足はしていないけど、納得はできる。
そんな、バランスの取れた結論。
気づけば、ポットのお茶は何度もおかわりされ、太陽はゆっくりと沈んでいく。街を行き交う人々の影が、長く伸びていた。
「——ふう。」
シオリが一息つき、メガネを押し上げた。
「まあ、作品の大筋はこれでいいんじゃないかな。あとは、しっかり修正してね、オサム。」
「だね。まあ、時間も遅いし、そろそろ解散かな。」
手元の機械式時計を見ながら言うと、シオリがじっと俺の方を見つめていることに気づいた。
「……相変わらず、その古い時計を使ってるのね。もっとメンテナンスが簡単で、多機能なAIデバイスもあるのに。それに、自動運転の車もあまり好きじゃないでしょう?今回も歩いてきたみたいだし。行きつけの理髪店も、クラシックな床屋さんで、ちゃんと手でカットするところ。ここだって、代々受け継がれた、手作りの料理が売りの店だから選んだんじゃない?」
「まあね。よく見てるな、君。」
「……このくらい普通よ。だって、あなたが私の担当作家なんだから。」
「そうか?まあ、とにかく、俺はAIデバイスがちょっと苦手でね。時間を見るくらいなら、こういう機械式の時計で十分なんだ。」
「そう。」
「うん。なんていうか、ああいうデバイスって、安心できないんだよね。分かってるよ、今となっちゃこういう機械装置の方が、最新技術を使ったデバイスよりも維持費が高くつくのは。でもさ、こういう伝統的なものの方が、なんかホッとするんだよな。ずっと監視されてるみたいな感覚もないし、情報を収集されたり、行動を把握されたりっていうのも嫌でさ。」
「……そう。」
「伝統的なものとか、手作りのものとか、自然なものの方が、俺には馴染みがあるんだよ。ほら、俺の実家もどっちかって言うと保守的だったろ?独立はしたけど、その伝統的な考え方を少しは受け継いでるんだと思う。」
「そう……なのね。」
シオリは少し俯き、長い髪がその顔を覆うように垂れた。俺は後頭部を掻きながら、思わず深く息を吸い込む。
「でもさ、最近は非伝統的で、最高性能で、全く新しいものも悪くないかなって思うようになってきた。なんていうか、長く一緒にいると、だんだん好きになってくるっていうかさ。」
「え」
シオリは顔を上げて、目を大きく見開いた。今度は逃げずに、俺は勇気を出してその視線を正面から受け止めることにした。彼女の瞳はまるでサファイアのように美しい。しかしよく見ると、瞳孔にはシャッターのような構造があるのが分かる。そのシャッターが最大に開かれた瞳の中、澄んだ反射の中に俺自身の姿が映っていた。
きっと、シオリが俺の目を見たなら、そこにいるのも全部彼女なんだろう。
これまでの付き合いの中で初めて、シオリが視線をそらした。白い肌に薄い紅が差している。ああ、シオリにもそんな機能があるんだなと、不適切にもそんなことを思ってしまった。
「……うるさい。ダメ作家のくせに。」
「おいおい、酷すぎるだろ。俺はただ正直に自分の気持ちを言っただけだぞ。」
「うん。知っている。」
振り返ったシオリは笑んでいた。だけど、いつもの控えめな微笑みじゃない。まるでひまわりのように、満開の笑顔だった。
「あなたのこと、私は全部分かってるから。」
反応する間もなく、シオリに手首を掴まれた。彼女は俺を引っ張り、店のドアを押し開けて夜の街へと踏み出す。笑顔のシオリは、今の俺の目にはまるで輝いて見えた。
「行こう、オサム。」
「ああ。」
店を出る時、俺は一度ショーウィンドウを振り返った。
鏡のように磨き上げられたガラスに映る自分の姿は、今や笑みを浮かべている。
人ならざる君と 浜彦 @Hamahiko
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