02 荷馬車に乗って

 数日前。

 松方幸次郎は、パリのモンパルナスを歩いていた。

 ステッキを突く幸次郎の背に、声がかかる。


「叔父さま!」


「やあ、竹子か」


 女性の呼び声に、幸次郎は快活に答えた。

 幸次郎は黒木竹子の叔父であり、明治の元勲・松方正義の御曹司である。


「三次くんは?」


 竹子の夫、黒木三次は黒木為楨くろきためもと陸軍大将の息子である。彼は音楽や美術に造詣が深く、画家のモネとは、親交を結んでいた。


「あの人は今、のみの市ですわ」


 蚤の市とは、古物を街角で売る市場で、蒐集家コレクターにとっては、だ。


「でも、あの人からこれを預かっております」


 竹子は一通の便箋を差し出す。

 宛先は「Claude Monet」と記されていた。


ありがとうメルシィ


 幸次郎はウインクして便箋を受け取る。


「でも叔父さま、何でその、モネ画伯ムッシュ・モネとお会いになりたいので?」


「そりゃ、決まってる」


 が欲しいからさ、と幸次郎は笑った。

 竹子は怪訝な顔をする。

 たしか、モネは売る用の画は全て売っており、手元に置いている画は自分用の画のみだという。


「ですので、行ったところで断られるのでは」


「まあ、そうだろうね」


 ただ、だからこそ、と幸次郎は思うのだ。

 あのモネが自分用と取っておくような画だからこそ、手に入れる価値がある、と。

 幸次郎の夢は、西洋絵画を日本にもたらし、人々の鑑賞に供することだ。

 幸次郎は竹子の寄越したモネへの紹介状を握る。


「何としてもモネの自分用の画を手に入れてみせる」



 こうして幸次郎はジヴェルニーへと向かった。

 ふと背後からの視線が気になり、振り返ると、荷馬車が目に入った。


「何だい旦那ムッシュ、荷馬車が珍しいかい?」


「まあね」


 御者は麦藁帽子を目深にかぶっており、顔は隠れているが、陽気な口調だった。

 ジヴェルニーへ行くということだったので、自分もだと言ったら、乗せてくれた。


「人を乗せる馬車じゃない。ケツに気をつけな」


 御者はそれだけ言うと、馬に鞭をくれた。



 幸次郎はジヴェルニーの手前まで来た。


旦那ムッシュ


「何だい」


「ここらが、あの『積みわら』の画で有名なあたりですぜ」


「ああ、このあたりかい」


 「積みわら」とは、「ジヴェルニーの積みわら」の名で知られる、積みわらを描いた一連の画のシリーズのことである。モネはこの積み藁をいくつもいくつも描いた。

 そこから、同じような風景でも光の加減や視点などによってちがうように見えるという、を学んでいったといわれる。


旦那ムッシュ、この辺で下りて、散策がてら、歩いて行ったらどうですかい?」


 モネのやしきは、少し先に見える丘を越えたところにあるという。


「積み藁を見て行けば、モネの旦那との話題も、弾むんじゃないですかい?」


「それもそうか」


 幸次郎は伸びをひとつして、荷馬車から下りた。

 何か物欲しげに見つめる御者に、多めに代金を払った。


「ちゃっかりしているよ」


「へへ、ありがとよメルシィさようならオールヴォワール!」


 御者は勢いよく鞭を振って、荷馬車を走らせる。

 どうやら、ここで幸次郎を下ろして、他に行きたい場所があったらしい。


「どこまでもちゃっかりしてやがる」


 幸次郎が悪態をついている間にも、荷馬車はどんどんと進んでいき、小さくなった。

 幸次郎は肩をすくめた。


「ではせいぜい、楽しませてもらうとしよう」


 幸次郎はステッキを回しながら、ジヴェルニーの積み藁の中を歩いた。

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