04 バベルの塔、ピーテル・ブリューゲル
数日経った。
幸次郎はモネの制作についていき、外なら画材などを運び、中なら水差しや食事を運んでいだ。
あれから、画を譲ってくれという話はできずじまいでいる。
ジヴェルニーに来た夜は痛飲してそれどころではなく、翌日からモネは制作に集中し、やはりそういう雰囲気ではなかった。
「まるで、侍が刀を握っているようだ」
幸次郎はそう思いつつ、こうしてそばに居させてくれることから、まったくの脈なしというわけではないと感じていた。
また数日経った。
「コウジロウ」
「何ですか」
「君は何故、画を求めるのかね?」
モネは筆を走らせながら、何気ない雑談という風に、それを聞いた。
だが幸次郎はこれ以上ないほどの緊張を強いられた気がした。
かつて、会社を左右する決断をしたときでも、これほどの緊張感はなかった。
これは、日本の画を志す者のためという、最初に言った目的だけでは駄目だ。
幸次郎は意を決した。
「昔、
「凄いモノ」
幸次郎の本気に、モネの筆が止まった。
振り向いたモネに向かって、幸次郎はその凄いモノについて語った。
*
まだ薩摩にいた幼少の頃、可愛がってくれた
幸次郎の旅立ちの日、軒先から伝い落ちる雨滴を見ていたら、小父さんは「よお」と刀を
「見ちょけ」
刀が舞った。
幸次郎の目に、雨滴が三回、斬られたのが見えた。
それを言うと小父さんは幸次郎の頭をがしがしと撫でて、「よう見た」と言って去って行った。
それが幸次郎と小父さん――桐野利秋の別れとなったが、幸次郎はその刀の凄まじさが頭に残り、以後、何事にも動じないようになった。
*
「凄いモノを見れば、生きる
そしてそれこそがモネの画であり、ぜひ極東の島国の苦学生や貧しさにあえぐ若者に、
「
モネは手を打った。彼自身もまた、貧しい青年だった。画家になりたかった。しかし貧しさに負けて、筆を折ろうとしたときがあった。
それでもある日、あの画を見て。
「描きたい」
そう思った。
「
モネはアトリエの隅にある棚から、一つの画を取り出した。
その画は、何か大きな建造物――塔が建てられている最中を描いている。
塔にはクレーンがあり、
上を仰ぐと煉瓦工が蠢いており、そうかと思えば下から塔の建設を見守る王の姿が。
「そうか」
西洋絵画で巨大な塔といえば。
「バベル」
「そう。バベルの塔。これはブリューゲルの手のもの。もっとも、私の模写だがね」
ピーテル・ブリューゲル。
十六世紀のブリュッセルを活動の場とした画家で、その代表作は「バベルの塔」である。
旧約聖書のノアの
「凄い」
「ふむ。コウジロウの目から見てもそうなら、私の
モネはウインクして満足の意を表す。
幸次郎としては、恐れ入るしかない。
だが、質問することは忘れなかった。
「
思わず鹿児島弁になってしまったが、モネは意に介さなかった。
幸次郎の言わんとするところが、彼にはわかっていた。
「
その返答によっては、このアトリエの画を、好きなだけ持って行っていいと言う。
モネは「バベルの塔」をイーゼルに置いた。
「この画を見て、私は画を描こうと思った。いや、描くのを諦めず、いやいや、描くのを諦めたが、また描きたいと思えた。なぜ私の心はそう動いたのか。それを知りたい」
己ですらわからない心理の動き。
それを教えろとは難問であると、幸次郎は思った。
だが同時に、モネはチャンスをくれたのだ、とも思った。
モネは揺れている。
己の画を欲するという男の動機が、己の画を描きたいという気持ちと符合することを知って。
そして、賭けることにしたのだ。
賭け金は、己の心、幸次郎の心である。
同じような思い出を持ち、似たような画への夢を抱く者ならば。
言葉にできないが、描きたいと、否、生きたいと思える何かの。
「その何かの正体を知れる、ということでごわすか」
「
随分と重い
だが悪くないと思った。
この立ち合い、ぜひとも勝ちたいと思った。
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