04 バベルの塔、ピーテル・ブリューゲル

 数日経った。

 幸次郎はモネの制作についていき、外なら画材などを運び、中なら水差しや食事を運んでいだ。

 あれから、画を譲ってくれという話はできずじまいでいる。

 ジヴェルニーに来た夜は痛飲してそれどころではなく、翌日からモネは制作に集中し、やはりそういう雰囲気ではなかった。


「まるで、侍が刀を握っているようだ」


 幸次郎はそう思いつつ、こうしてそばに居させてくれることから、まったくの脈なしというわけではないと感じていた。

 また数日経った。


「コウジロウ」


「何ですか」


「君は何故、画を求めるのかね?」


 モネは筆を走らせながら、何気ない雑談という風に、それを聞いた。

 だが幸次郎はこれ以上ないほどの緊張を強いられた気がした。

 かつて、会社を左右する決断をしたときでも、これほどの緊張感はなかった。

 これは、日本の画を志す者のためという、最初に言った目的だけでは駄目だ。

 幸次郎は意を決した。


「昔、わらしの頃、凄いモノを見たのです」


「凄いモノ」


 幸次郎の本気に、モネの筆が止まった。

 振り向いたモネに向かって、幸次郎はその凄いモノについて語った。



 まだ薩摩にいた幼少の頃、可愛がってくれた小父おじさんがいて、幸次郎が父・松方正義に呼ばれて東京に出る時、はなむけとして見せてくれたという。

 幸次郎の旅立ちの日、軒先から伝い落ちる雨滴を見ていたら、小父さんは「よお」と刀をげてやって来た。


「見ちょけ」


 刀が舞った。

 幸次郎の目に、雨滴が三回、斬られたのが見えた。

 それを言うと小父さんは幸次郎の頭をがしがしと撫でて、「よう見た」と言って去って行った。

 それが幸次郎と小父さん――桐野利秋の別れとなったが、幸次郎はその刀の凄まじさが頭に残り、以後、何事にも動じないようになった。



「凄いモノを見れば、生きるかてになる。おれおいはそう思う」


 そしてそれこそがモネの画であり、ぜひ極東の島国の苦学生や貧しさにあえぐ若者に、その画凄いモノを見せてやりたい――と語った。


素晴らしいボン


 モネは手を打った。彼自身もまた、貧しい青年だった。画家になりたかった。しかし貧しさに負けて、筆を折ろうとしたときがあった。

 それでもある日、あの画を見て。


「描きたい」


 そう思った。


見給みたまえ」


 モネはアトリエの隅にある棚から、一つの画を取り出した。

 その画は、何か大きな建造物――塔が建てられている最中を描いている。

 塔にはクレーンがあり、穹窿ヴォールトがあり、建設中といった様相だ。

 上を仰ぐと煉瓦工が蠢いており、そうかと思えば下から塔の建設を見守る王の姿が。


「そうか」


 西洋絵画で巨大な塔といえば。


「バベル」


「そう。バベルの塔。これはブリューゲルの手のもの。もっとも、私の模写だがね」


 ピーテル・ブリューゲル。

 十六世紀のブリュッセルを活動の場とした画家で、その代表作は「バベルの塔」である。

 旧約聖書のノアの方舟はこぶねと、預言者アブラハムの間に挟まれた挿話――バベルの塔を題材としたその画には、えもいわれぬ迫力があり、それはブリューゲルの真筆でなくとも、いやモネの筆を経て、さらなる凄みを帯びていた。


「凄い」


「ふむ。コウジロウの目から見てもそうなら、私の技倆うでも、ちょっとしたもんだ」


 モネはウインクして満足の意を表す。

 幸次郎としては、恐れ入るしかない。

 だが、質問することは忘れなかった。


これこい画伯ムッシュの見た、『凄いモノ』でごわんど?」


 思わず鹿児島弁になってしまったが、モネは意に介さなかった。

 幸次郎の言わんとするところが、彼にはわかっていた。


そうウイ。では、君に考えて欲しい」


 その返答によっては、このアトリエの画を、好きなだけ持って行っていいと言う。

 モネは「バベルの塔」をイーゼルに置いた。


「この画を見て、私は画を描こうと思った。いや、描くのを諦めず、いやいや、描くのを諦めたが、また描きたいと思えた。なぜ私の心はそう動いたのか。それを知りたい」


 己ですらわからない心理の動き。

 それを教えろとは難問であると、幸次郎は思った。

 だが同時に、モネはチャンスをくれたのだ、とも思った。

 モネは揺れている。

 己の画を欲するという男の動機が、己の画を描きたいという気持ちと符合することを知って。

 そして、賭けることにしたのだ。

 賭け金は、己の心、幸次郎の心である。

 同じような思い出を持ち、似たような画への夢を抱く者ならば。

 言葉にできないが、描きたいと、否、生きたいと思える何かの。


「その何かの正体を知れる、ということでごわすか」


さようウイ


 随分と重いウイ肯定である。

 だが悪くないと思った。

 この立ち合い、ぜひとも勝ちたいと思った。

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