ノブレス・オブリージュ
祐里
わたくしの大事なお友達のお話をいたしましょう。
ええ。七月三十日に
その頃わたくしには、わたくし同様、かるた取りやお人形の着せ替え遊びより、外で輪回しや缶蹴りなどをするほうが好きな女の子のお友達がおりました。名家の双子の片割れで、丸く愛らしい目、少々小さめの唇が笑うとその場が華やぐような美少女でした。名前をそとといい、一緒に遊ぶ子供たちが日焼けをすると「そのままでは痛くなってしまう。あとでようく冷やしなさいな」と声をかけたり、相手が誰であっても気遣うことのできる優しい子でした。
嘉仁様ご即位の熱が収束しつつあった頃、おそとちゃんの表情が曇りを見せることが多くなりました。気になりはしたものの「どうしたの」と尋ねる勇気もなく、わたくしはいつものようにお勉強の時間以外は遊んで過ごしておりました。
「ね、お
「なぁに、おそとちゃん」
「内証のお話」
ある日、おそとちゃんは言いました。いつもの快活さを消し、静かにわたくしの耳にその温かい唇を近付けたのです。
「何かしら?」
「わたしは今日、家に帰ったらきっと額に十字の傷を付けられるわ。妹が話しているのを聞いてしまったの。『そとに
「えっ……?」
おそとちゃんは冗談で皆を笑わせることもありましたが、このときの彼女は真剣であったため、わたくしは二の句が継げないでおりました。すると彼女はわたくしの目を見て言い募りました。
「本当よ。額の
「素敵だなんて……! きっと痛いわ! それに、傷が付いたら……」
「お嫁には、いけなくなる」
わたくしたち女児は、とにかくお嫁にいくために勉強なさいと言われておりました。わたくしやおそとちゃんのような活発な性格の子は、外遊びでその鬱憤を晴らしておりました。
「ええ……そうよ、お嫁に……」
「でも、もうわたしは、自分で運命を決めたの」
「……う、んめい……」
おそとちゃんは、またふふっと笑いました。明るい木漏れ日のように。
「だってわたし、『そと』だなんておかしな名前のうえに止め字ももらっていないのよ。でも妹は『
「そ、それは」
おそとちゃんの言うとおりでした。当時は良い家柄の子は皆『
「春子のほうが出来が悪いからかわいいのよ、お父様もお母様も。それに、わたしは男児ではないから」
「……そんな、こと……」
「いいのよ。おかげでこうしてお敬ちゃんと遊べるのだから」
おそとちゃんは強い光を目に宿し、再びわたくしを見ました。その光がわたくしには頼もしく、眩しく映りました。
「そう……、そうね。ただ、額に傷だなんて」
「わたしは近いうちに死ぬわ。でも悲しまないで。お敬ちゃんには特別に教えてあげる。あのね……」
突然の「死ぬ」という言葉に驚いていると、おそとちゃんはまたわたくしの耳に顔を近付けました。他に誰もいない家の庭の、わたくしへの贈り物として
「
急に正式な名前を呼ばれ、わたくしはどきりと胸を鳴らしました。
「これらのことをあなたのお父様に伝えてちょうだい」
「……ええ、いいわ」
おそとちゃんの本気の覚悟が伝わってきました。
その日、おそとちゃんは帰宅してから額に傷を付けられたそうです。一緒に切られた前髪がはらはらと落ちたと、どこから聞いたのか、侍従が話しておりました。わたくしは心を決め、彼女から聞いた
すると近藤家はスキャンダルを新聞に取り沙汰され、見る間に没落していきました。一方でおそとちゃんの行方は知れず、やはり亡くなったのかと悲しく思うこともありましたが、わたくしは涙を我慢しました。彼女は「悲しまないで」と言ったのです。
――ええ、わたくし先日出産したばかりなのです。この子の額の十字の痣、これを見たとき、わたくしの胸は歓喜に打ち震えました。おそとちゃんは戻ってきたのです。きっと、悲しみの涙を見せずに彼女のノブレス・オブリージュを受け止めたわたくしへのご褒美なのでしょう。
この子には、
願わくは、あのときのおそとちゃんにわたくしは幸せだとお伝えしとうございます。ですが、それは叶いません。代わりにこの子が強く育ってくれることを祈っております。おそとちゃんのように。
ノブレス・オブリージュ 祐里 @yukie_miumiu
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