アザミノアゼミチ
しろた えのひと
アザミノアゼミチ
1
「おはよう」
呼びかけるが返事はない。それが彼女たちのいつもの朝だった。秋乃小路(あきのこみち)は、テキパキとしかし丁寧に食卓を整えていく。目玉焼き、カリカリのベーコン、ブロッコリーを入れたインスタントのポタージュ、塩の効いたかためのパン。
「……その花、なに」
花弁の鮮やかさに目を細め、鬱陶しいとでもいいたげに春野あざみはボソリと問う。
「ああこれ?いただいたの」
「誰から」
「……」
「まあ、誰でもいいけど。うち花瓶無いよ」
「空き瓶に挿しておくけど、花瓶……買っても良い?」
「……好きにしたら」
春野と秋乃、ふたりは一緒に暮らしている。こんなにギスギスしているのに、なんで同じ屋根の下暮らしているのか。ふたりには離れられない事情があった。
ふたりが一定の距離を離れると、こみちに災いが起こる。なぜかは分からないが、そういうことになっていた。
小学校、中学校と問題はなかったのだが高校生になったとき別々の高校へ通い出すと、こみちは病気や怪我で大変な目にあった。同じ学校に転入することで収まったようにみえたが、修学旅行にアザミが行けなくなり距離ができるとまたこみちは骨を折った。
それからはふたりは日々を小さな生活圏内に留め過ごしている。
「ごちそうさま」
「あ、うん。いってらっしゃあい」
「……」
アザミは職場以外では挨拶をしない。本人に自覚はないが、そういう些細なコミュニケーションを重んじない家庭で育った故の性質だった。
仕事と家事は役割分担してやっている。こみちは在宅で稼ぎが少ない分、料理や片付けは彼女の仕事だった。
「あんまり遠くに行きすぎないようにね。じゃ」
アザミを見送るとこみちはため息をついた。
いつもの朝だった。
そのはずだった。
「……こみち?」
夜、残業を終えたアザミは部屋の電気が消えていることを不審に思った。
パチ、と電気をつけてもおーいと呼んでも静寂がはねっかえるだけで、なにもなかった。
こみちが消えてしまったのだ。
失踪?誘拐?事件?どれだとしてもアザミの分からない範囲での行動は危険だった。アザミは嫌な予感にたじろぎながらも探す。もともと、明日は二人で実家に帰る予定だったのだ。
アザミは近所をぐるりと見回ったがこみちの姿はなかった。とりあえずは明日の帰省に備え、眠ることにした。
「怪我してまで、私から離れたいのかな」
2
スマホの無機質な音声がアザミを現実に引き戻した。目を覚まし周囲を見回すもやはりこみちの姿はない。朝食を作るカチャカチャとした音やスリッパのパタパタとした足音が、いつもの暮らしが、無い。
実家までの距離ぐらいだったらそんなに離れてはいないので、こみちは先に実家へ行っているかもしれないと思いアザミは身支度をして家を出た。電車に揺られ、その道中もこみちの姿を探し続けた。
アザミもこみちも同じ地区で、ほぼ隣の家に住んでいた。アザミにとっては、あまりかえりたい実家ではないが何故か顔を見せろと催促されるのだ。
「あんたなんね、帽子やら被ってから。女優さんみたいやねえ。市内に出ていったからってかぶれてしもうてから」
「日除けにかぶってるだけ。おしゃれでやってない」
「……まあいいけど」
挨拶の前に飛んでくる皮肉。催促するわりに、こうだ。人の容姿などにはどんどん口出ししてくる。母は理由を言えば、たいがいはそれ以上のことは言ってこなくなる。なにか文句をつけたいだけなのだ。
「こみち見てない?昨日ぐらいから」
「見とらんねぇ。2階に届いとった手紙とか置いとるから。部屋も整理していきなさい」
そう言われしぶしぶアザミは自分の部屋だった場所へ行く。
バタバタと家を出た痕跡そのものが部屋の形をしていた。窓はカーテンが閉め切られていて、開くとキラキラとした埃が舞った。足元には、学生時代の教科書やノート、アルバムが積み重なっている。
小学校の頃の卒業アルバムに手を伸ばすと何かがハラリと落ちた。
それは、アザミの元恋人の写真だった。
「なんでこんなところに挟んでんだろ……」
写真を綺麗に管理しないアザミらしいといえばアザミらしい場所で、端正な顔立ちの男がピースをして笑っている。
今アザミとこみちが住んでいる部屋はもともとこのふたりが同棲していたアパートだった。ふたりを離れさせたのは日々の細かなすれ違いが蓄積されただけにすぎないが、きっかけとも呼べる出来事があった。
写真についた角の折れ目を伸ばす。あの雨の日の出来事が想起された。
ある日アザミが夕飯を作り待っていると、恋人はスーツをずぶ濡れにした姿で帰ってきた。
「どうしたの!?傘、させばよかったの、に……?」
小脇に抱えられたタオルがニャアと鳴いた。かすかな鳴き声と、ずぶ濡れのスーツから床に滴り落ちる水の音。台所のタイマーが鳴り、アザミは思わず振り返った。作り置きしていた夕飯が、ちょうど温まる時間だった。そんなときに、道端で轢かれそうになっていた猫を拾ってきたのだ。出来事としては、それだけのことだった。
ただアザミは、自然で生きられないのなら人の手は貸さずそのまま死ぬべきだったと思っていた。それが野生の宿命なのだと。
それに帰宅時間は守ってほしかったし、そのスーツを洗い整えるのは誰の仕事なのかとか。
恋人の感情が瀕死の猫にだけ向いているこの事実と、どこか成し遂げたことに満足気な姿に嫌気が差して止まらなかった。
「根本的な考え方が、私とあの人は合わないのだろうな」という気づきは、ふたりを離れさせるのには十分すぎるものだったのだ。
いまあの人はなにをしているのだろう……とも思わない。なにかしているに決まっているのだから。アザミは写真を元の場所に戻そうとして、手を止めた。アルバムの隙間から、懐かしい建物が写った一枚が覗いている。あの祠だ。
3
祠。
夏草に埋もれかけた小さな建物。
小学生の頃、この場所が何故かとても人気があったときがあった。ここに花冠を飾ってお願い事をすると神様が願いを叶えてくれるという、なんとも子どもらしい、一過性の噂話が流行したのだ。
写真には無邪気に笑う私と、嫌と言うほど目で追ったこみちの後ろ姿。
その後ろ姿を見て思い出す。手を伸ばせば届くのに、手を伸ばせなかったこと。相手から来ることを待っていてばかりいたこと。
ある日、外の洗面所でひとりで遊んでいたとき。こみちから話しかけてきた。
「なにしてるの?」
「たんぽぽの茎を割いて、水に当てるとまるくなるの。ほら、花みたいになるでしょ」
「ほんとだあ!すごい、水だけで!?」
「でもお母さんに見せても意味わかんないって言われた。それから花冠つくるようにしてる。わかりやすくかわいいでしょ」
「そうなんだ」
「丸くなるのが面白いって話じゃんね。女の子らしさ押し付けられて嫌んなるよ」
アザミはため息をつきながら、石鹸を水多めに泡立て、手のひらでシャボン玉を作っている。こみちの濡らした手にその虹色を移した。その球体は周囲の景色を内包し、風の色まで吸い込み輝く。同じような瞳でこみちが言った。
「私も花冠つくってみたい。できるかな?」
「いいよ!一緒にやろうや」
それから3日くらいかけて、放課後に集まっては花冠を作った。それがこみちと仲良くなったきっかけだったように思う。
私は当時絵を描くことが好きな子どもだったのだが、コンクールで選ばれるのは華やかな色使いがかわいらしい、こみちの絵ばかりだったのだ。
私は白と黒が好きだったから、ペン画ばかりの私はあまり評価されなかった。お母さんにも褒められない。
拍手をしながら頭の中はこみちへの悔しさと祠のことで頭がいっぱいで、帰り道に駆け出して、そうして、願ってしまった。
「こみちが不幸になりますように」
あの日作った花冠を生贄に。
次の日、恐ろしいことが起こった。こみちは利き腕を骨折したのだ。
血の気が引いた。教室の窓から差し込む光が、こみちの包帯を眩しく照らしている。
私は焦って、知られているはずもないこの秘密を守ろうとした。
「こっちが今日のノートのコピーまとめたらつ。これ貸して。提出するプリント。かわりに書いたげるから」
罪悪感から世話をする私に「アザミちゃんは優しいね」とゆっくりとした動作でこみちは笑う。
やめてくれ。私は優しくなんか無いよ。
バン、と思わずアルバムを閉じる。
──こみちを探さなくては。
4
アザミちゃんって、かっこいいんだよ。どうしてもいちばん仲がよかった小学生の頃の話になっちゃうんだけど。
小学校っておもちゃの持ち込みが絶対ダメでとくにうちは厳しかったの。
そうしたらアザミちゃん、図工のときの余りの厚紙にトランプを精巧に複製して「ただの絵がかいてある余りの紙です」って言い張ったりてた。休み時間や放課後に、細かい絵柄を慣れたペン使いで仕上げていくさまは美しかったよ。特に、赤いハートをマッキーで描くところ。他にも牛乳瓶の蓋を集めてオセロつくったり、工夫でみんなを楽しませてくれたのね。
そういうところすっごい好きなの。
私はイラストを描くのが好きで、今はそれでお仕事させてもらったりもしているけど、そういう工夫する力っててんで弱くって。感心させられっぱなしだったなあ。
でもびっくりしたのは私の誕生日にガラスの箱に入った花の指輪をくれたことがあって。そのガラスの箱、元は家族がお土産にくれたオルゴールだったんだって。壊して、わざわざ。さすがに怒られちゃったらしい。
「貰ったものを好きに使っただけ」
ってアザミちゃんは腑に落ちなそうだったけれど。
指輪をつけて、それがもう嬉しくて嬉しくて、自分でもなんとか頑張ってまた花冠を作って、流行りのお願い事をしたんだった。
「アザミちゃんとずっと一緒にいられますように!」
いまぐらいの、ちょっと肌寒いくらいの季節に思い出すことがある。
ふたりでブランコを漕ぎながら話していたときのこと。
「小春日和って春じゃなくて秋なんだよ」
「えっそうなの?」
「そう。コスモスも秋桜って書くし、なんだか秋って春に憧れてるみたいよね。秋のままでもいいのに」
こういう、アザミちゃんのそっけない優しい視点が好き。最近私に特に冷たいのも、私にしか見せない姿なんだと思うと許すことができるんだ。
ねえアザミちゃん。
アザミちゃんは、何を願ったのかな。そして今も。
何を願っているのかな。
5
もう夕方になってしまった。よろめいた足取りで自室へ帰宅するアザミ。靴底が数センチ削り取られたような気持ちだった。
手すりと身体の重みを分け合いながら、カンカンと階段をのぼる。
扉を開けた。
夕日に照らされた室内に、電気もつけずに窓枠に腰掛けていたこみちがいた。
腕を吊り、冷えピタシートを貼っている。今度は、包帯が橙色に染まっていた。
「こ、みち……」
それをみるとアザミはバタリと倒れ込み爆睡した。
数時間後、むくりと起き上がり掠れた声で言う。
「……コンビニいくけど、げほっ、来る?」
「うん、行く」
近所で買い物をした帰り道。アザミは珍しく酒を買い、啜りながら歩く。
前を歩くこみち。うつむき気味の後ろ姿。
思えばいつも、私がふと横を見るとこっちをみていて、目が合うと嬉しそうに笑っていたな。
アザミはそんなことに、今になって気がついてしまった。
「こみち」
「……なに?」
いつもより素っ気ない声色。顔もこちらを向かない。それを指摘することもなくアザミは続ける。
「……祠。覚えてる?小学生のころの、ジンクスみたいな」
「あの呪い?」
「…………うん、そうそれ」
「……なんで、いま、そんなことを」
「ねえ、あんたあそこで……何を願ったの?」
いつもの調子とは言い難い、その下がりきった眉通りの縋るような問いだった。
この街は、割とすぐ眠る。だからこそ起きている人間の放つ輝きは目につきささり、人々の輪郭の色を変え、まるで個性や人権なんかありもしないように、平等に街に溶かす。
こんな時間に役目なんてないのに、律儀に照らされた赤信号の光は秋野こみちの表情を染めあげる。そして青くなって、点滅して、また赤くなったその時だった。
「教えない」
と、こみちは小さく言った。彼女はふわりとやわらかな髪の束を揺らし、赤や緑や黄色の光に消えていった。私は酒を持っていたから、彼女の肩を掴むことができなかった。できなかったのだ。
アザミノアゼミチ しろた えのひと @shirotaenohito
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